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5 家庭訪問
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朝顔の模様の入った着物に薄紅の紗の羽織、髪は後ろで一つに束ねている。そして女中の槙さんが後ろに控えているために、どこぞの良家のご令嬢のようであった。いや、間違いなくとんでもない良家のご令嬢なのだが。
「ちょっと連絡することがあってな。他の中隊の皆には電報送ったんだが、ここは近いからちょっと様子をね」
そう云って綺羅は店の中を見回した。鶴が掃きだめの中を覗き込んでいるようなものだ。
「下駄屋に入ったのは初めてなんだが、こういうものなのだなぁ」
連絡よりも自分の好奇心の方が先に来ているようだった。後ろで控えている槙さんと眼が合うと小さく微笑んでいるだけで、止めてはくれないらしい。
「鼻緒は注文を受けてからつけるのか。なるほどなるほど」
棚に積まれた鼻緒のない下駄を見て、妙なところで綺羅様は感心していた。
「お茶お替わりお持ちしました。洋一さん、お荷物お台所に運んでおきますね」
貢さんが何かと用を見つけては様子をうかがいに来ている。洋一と目が合うと、いろいろ聞きたくて仕方が無いという顔を見せた。
「あー、洋一」
意を決した兄が声を掛けてきた。
「お前のお客さんだそうだが、どこのどなた様か教えてはくれないかね」
平然としている風を装っているが、身体が微妙に前後しているのが洋一には判った。暖簾から顔を覗かせている父親も、次のお茶を用意している貢さんも、固唾を呑んで返答を待っている。
「えっと、海軍の、紅宮綺羅大尉。俺、じゃなくって自分の飛行隊の中隊長」
「海軍の、大尉殿?」
皆一斉に首をひねる。無理もない。綺羅様の姿にどこにも軍人らしい要素は見当たらなかった。
「お前の隊長ってことは、その、飛行機乗りなのか?」
そこもやっぱり理解できないだろうな。洋一は頷いた。ますます判らないといった顔を兄たちは見せた。
「まあそれは置いといて、紅宮様とはいささか変わったお名前ですな。まるで宮様のような」
「うん、実はそうなんだ」
あっけらかんと応えられて、兄真一はそのまま表情が固まってしまった。
数回、ゆっくりと瞬きをする。
「ひょっとして、紅宮家の、綺羅様?」
紅宮の綺羅様と云えば、市井の人間なら誰でも知っている有名人である。むろん真一も噂は色々と聞いてはいた。
「だから、そういったじゃないか」
とはいえ人間は頭の中の知識と目の前の現実がなかなか一致してくれないものである。自分もそうだったなぁと洋一はうろたえる家族を眺めた。
父親に至っては暖簾の下で勢い余って土下座している。
「まあまあ親父、そんなにかしこまらなくて良いから」
息子の顔を睨みつけると、風のような素早さで洋一のそばまでやってきて、洋一の頭を地面に叩きつけた。
「洋一! やっぱりお前を殺して俺も死ぬ! ご先祖様に腹切って詫びを入れる! この丹羽家伝来のノミで……」
もはやよく判らない取り乱しようであった。
「先祖伝来ったって下駄屋を始めたのは親父の代からだろう」
他人が取り乱していると逆に冷静になれたのか、兄が帳場から降りてきて父親をなだめる。
「へぇ、そうなんだ」
綺羅様が人の家の修羅場を面白そうに眺める。
「まあいいじゃないですかそんなところで」
父親を座らせながら洋一が口を挟む。このまま丹羽家の内情を暴露し続けるのは忍びない。
「それにしても、着物だなんてちょっとびっくりしましたよ」
「似合わないかな?」
綺羅様は袖を広げてみる。
「いえ、そんなことはけして、錦絵みたいで美しく……」
勢い余って余計なことを言った気もするが、実際額に入れて飾りたいほどではあった。
「街中用にありふれた服に仕立てて貰ったんだけどな」
羽織や服など一つ一つは確かにそう特殊ではないはずなのだが、中身が伴うとこうも光を放ってしまう。
「まあその銘仙の着物は今風ですね」
羽織の下に来ている青紫の朝顔模様の銘仙。涼しげで最近流行っている柄だった。
「莫迦野郎、あの銘仙がただものじゃねぇんだ」
親父の拳が飛んでくる。
「いいか。銘仙は普通屑繭から作った絹織物だ」
「知ってるよ。絹物にしちゃ安くて、柄が派手だから流行ったんだろ」
先染めした糸をずらして織ることで模様をつくる絣の一種だが、安物故に大胆に派手な柄にできたがために人気が出た。人気が出たために折り方などが改良されてさらに派手になり、大華のころから女学生などがこぞって着るようになっていた。
「ところがあれは正絹だ。艶が違う」
「うん、柄は銘仙だけど布は遙かに上物で、折なのに染めらしさもある。普通じゃないとは思っていたが」
父だけでなく兄も腕を組んで感心していた。
「よく判るね」
「下駄屋は木だけじゃなくて鼻緒もついてるんだ。せがれなら布も勉強しろ」
もう一度親父に頭を叩かれる。
「え? そうなんだ。違うの?」
ところが着ていた当の本人は知らなかったらしい。
「街でよく見かけるあんな感じのって頼んだんだけどな」
「うちに出入りの呉服屋に頼んだらそうなりますよ」
槙さんがお茶を取り替えながら口を挟む。
「結構苦労なされていたようですよ、伊勢屋さん。紅宮家に納めるにふさわしい銘仙をどうするかって」
紅宮家出入りの呉服屋ともなれば上等な絹物ばかり扱っていただろうに、わざと庶民っぽいものを作る羽目になっていたらしい。
「ええっと、ところで隊長。連絡することって一体」
会話を切り上げるべく洋一は本来の用事を尋ねた。
「ああそうだった忘れてた」
綺羅は湯飲みを置いて洋一の方を向いた。
「休暇が終わったら鳥羽でなく各務ヶ原に来て欲しい」
「各務ヶ原、ですか」
試作機の試験などを行う実験航空隊の基地である。
「ああ、暇だから手伝いがてら遊びに行こうと思ってな」
どうやらこの人の個人的な趣味で決まったらしい。
「ところで、朱音ちゃんの家は近所なのだろ。彼女もご指名なのだが」
「ええまあ、近所というか隣なんですが」
そういったところでちょうど良く聞き慣れた声が聞こえてきた。
「洋一居る?」
軽く肩をすくめると洋一は振り返った。
「居るよー」
そうすると勝手口から慣れた様子で朱音が入ってきた。
「今日の夕食なんだけど、三人分お願いできる、る、るぅ?」
ずかずかと入ってきた脚が、来客の姿を見て不意に止まる。
「やあ朱音ちゃん」
来客に声を掛けられて、バネ仕掛けのように朱音が跳ね上がった。
「なんで? なんで? 綺羅様? 本当に綺羅様? なんで?」
面白いようにうろたえている。朱音の着ているのは見慣れた牡丹柄の絣の銘仙だったが、なるほど、こうしてみると色艶が段違いだ。
「いやぁ、そんな反応をされると来た甲斐があったなぁ」
混乱の元凶は実に楽しそうであった。
「休暇明けの原隊復帰は各務ヶ原とのことだそうだ」
代わって洋一が要件を伝える。
「朱音ちゃんは塚越さんのご指名だからね。連れてかないと私が怒られてしまう」
「塚越さんって、菱崎の?」
恐る恐る尋ねる朱音に綺羅は頷いて見せた。
「そ、菱崎重工設計主任の塚越さん。話したら面白がって是非会いたいって」
朱音の頭がまたよく判らない動きをし始める。
「有名なの? その塚越さんって」
洋一の問いに朱音の顔がずいと前に出る。
「十式艦戦設計した人! 拝んでおきなさい」
何故かすごい剣幕で怒られた。
「ところで朱音ちゃん」
お茶に手を伸ばしながら綺羅が尋ねた。
「さっきのあれは何なのかね? 夕食三人前とかなんとか」
朱音の顔が引きつる。できれば聞かれたくなかったといった顔をしていた。
「それはですね」
洋一がしゃしゃり出る。朱音が泡を食っておたおたしている様がなんとも面白かった。
「三時までに一食一円五十銭持ってくると、自分が夕食作る取り決めになってるんです」
中学に通っている頃から洋一が丹羽家の食事を一手に担うようになって、ついでとばかりに小野家とそういう取り決めとなっていた。朱音の母親は尋常小学校の教師もしていて多忙であったし、正直料理の腕はいまいちだった。何より仕入れ次第で一食五十銭ぐらい洋一の懐に入っていたので、悪くない小遣い稼ぎになっていた。
「そうかぁ、洋一君が両家の食卓を支えていたのか。それは面白い」
くすくすと綺羅は笑う。
「そうだ槙さん、四円ほど洋一君に渡してくれないかな」
笑っているだけなら良かったのに、またよからぬことをし始める。懐から高そうな懐中時計を出して時間を確認し、その視線を洋一に向けた。
「まだ三時より前だ。私たち二人分も頼むよ洋一君」
「ちょっと連絡することがあってな。他の中隊の皆には電報送ったんだが、ここは近いからちょっと様子をね」
そう云って綺羅は店の中を見回した。鶴が掃きだめの中を覗き込んでいるようなものだ。
「下駄屋に入ったのは初めてなんだが、こういうものなのだなぁ」
連絡よりも自分の好奇心の方が先に来ているようだった。後ろで控えている槙さんと眼が合うと小さく微笑んでいるだけで、止めてはくれないらしい。
「鼻緒は注文を受けてからつけるのか。なるほどなるほど」
棚に積まれた鼻緒のない下駄を見て、妙なところで綺羅様は感心していた。
「お茶お替わりお持ちしました。洋一さん、お荷物お台所に運んでおきますね」
貢さんが何かと用を見つけては様子をうかがいに来ている。洋一と目が合うと、いろいろ聞きたくて仕方が無いという顔を見せた。
「あー、洋一」
意を決した兄が声を掛けてきた。
「お前のお客さんだそうだが、どこのどなた様か教えてはくれないかね」
平然としている風を装っているが、身体が微妙に前後しているのが洋一には判った。暖簾から顔を覗かせている父親も、次のお茶を用意している貢さんも、固唾を呑んで返答を待っている。
「えっと、海軍の、紅宮綺羅大尉。俺、じゃなくって自分の飛行隊の中隊長」
「海軍の、大尉殿?」
皆一斉に首をひねる。無理もない。綺羅様の姿にどこにも軍人らしい要素は見当たらなかった。
「お前の隊長ってことは、その、飛行機乗りなのか?」
そこもやっぱり理解できないだろうな。洋一は頷いた。ますます判らないといった顔を兄たちは見せた。
「まあそれは置いといて、紅宮様とはいささか変わったお名前ですな。まるで宮様のような」
「うん、実はそうなんだ」
あっけらかんと応えられて、兄真一はそのまま表情が固まってしまった。
数回、ゆっくりと瞬きをする。
「ひょっとして、紅宮家の、綺羅様?」
紅宮の綺羅様と云えば、市井の人間なら誰でも知っている有名人である。むろん真一も噂は色々と聞いてはいた。
「だから、そういったじゃないか」
とはいえ人間は頭の中の知識と目の前の現実がなかなか一致してくれないものである。自分もそうだったなぁと洋一はうろたえる家族を眺めた。
父親に至っては暖簾の下で勢い余って土下座している。
「まあまあ親父、そんなにかしこまらなくて良いから」
息子の顔を睨みつけると、風のような素早さで洋一のそばまでやってきて、洋一の頭を地面に叩きつけた。
「洋一! やっぱりお前を殺して俺も死ぬ! ご先祖様に腹切って詫びを入れる! この丹羽家伝来のノミで……」
もはやよく判らない取り乱しようであった。
「先祖伝来ったって下駄屋を始めたのは親父の代からだろう」
他人が取り乱していると逆に冷静になれたのか、兄が帳場から降りてきて父親をなだめる。
「へぇ、そうなんだ」
綺羅様が人の家の修羅場を面白そうに眺める。
「まあいいじゃないですかそんなところで」
父親を座らせながら洋一が口を挟む。このまま丹羽家の内情を暴露し続けるのは忍びない。
「それにしても、着物だなんてちょっとびっくりしましたよ」
「似合わないかな?」
綺羅様は袖を広げてみる。
「いえ、そんなことはけして、錦絵みたいで美しく……」
勢い余って余計なことを言った気もするが、実際額に入れて飾りたいほどではあった。
「街中用にありふれた服に仕立てて貰ったんだけどな」
羽織や服など一つ一つは確かにそう特殊ではないはずなのだが、中身が伴うとこうも光を放ってしまう。
「まあその銘仙の着物は今風ですね」
羽織の下に来ている青紫の朝顔模様の銘仙。涼しげで最近流行っている柄だった。
「莫迦野郎、あの銘仙がただものじゃねぇんだ」
親父の拳が飛んでくる。
「いいか。銘仙は普通屑繭から作った絹織物だ」
「知ってるよ。絹物にしちゃ安くて、柄が派手だから流行ったんだろ」
先染めした糸をずらして織ることで模様をつくる絣の一種だが、安物故に大胆に派手な柄にできたがために人気が出た。人気が出たために折り方などが改良されてさらに派手になり、大華のころから女学生などがこぞって着るようになっていた。
「ところがあれは正絹だ。艶が違う」
「うん、柄は銘仙だけど布は遙かに上物で、折なのに染めらしさもある。普通じゃないとは思っていたが」
父だけでなく兄も腕を組んで感心していた。
「よく判るね」
「下駄屋は木だけじゃなくて鼻緒もついてるんだ。せがれなら布も勉強しろ」
もう一度親父に頭を叩かれる。
「え? そうなんだ。違うの?」
ところが着ていた当の本人は知らなかったらしい。
「街でよく見かけるあんな感じのって頼んだんだけどな」
「うちに出入りの呉服屋に頼んだらそうなりますよ」
槙さんがお茶を取り替えながら口を挟む。
「結構苦労なされていたようですよ、伊勢屋さん。紅宮家に納めるにふさわしい銘仙をどうするかって」
紅宮家出入りの呉服屋ともなれば上等な絹物ばかり扱っていただろうに、わざと庶民っぽいものを作る羽目になっていたらしい。
「ええっと、ところで隊長。連絡することって一体」
会話を切り上げるべく洋一は本来の用事を尋ねた。
「ああそうだった忘れてた」
綺羅は湯飲みを置いて洋一の方を向いた。
「休暇が終わったら鳥羽でなく各務ヶ原に来て欲しい」
「各務ヶ原、ですか」
試作機の試験などを行う実験航空隊の基地である。
「ああ、暇だから手伝いがてら遊びに行こうと思ってな」
どうやらこの人の個人的な趣味で決まったらしい。
「ところで、朱音ちゃんの家は近所なのだろ。彼女もご指名なのだが」
「ええまあ、近所というか隣なんですが」
そういったところでちょうど良く聞き慣れた声が聞こえてきた。
「洋一居る?」
軽く肩をすくめると洋一は振り返った。
「居るよー」
そうすると勝手口から慣れた様子で朱音が入ってきた。
「今日の夕食なんだけど、三人分お願いできる、る、るぅ?」
ずかずかと入ってきた脚が、来客の姿を見て不意に止まる。
「やあ朱音ちゃん」
来客に声を掛けられて、バネ仕掛けのように朱音が跳ね上がった。
「なんで? なんで? 綺羅様? 本当に綺羅様? なんで?」
面白いようにうろたえている。朱音の着ているのは見慣れた牡丹柄の絣の銘仙だったが、なるほど、こうしてみると色艶が段違いだ。
「いやぁ、そんな反応をされると来た甲斐があったなぁ」
混乱の元凶は実に楽しそうであった。
「休暇明けの原隊復帰は各務ヶ原とのことだそうだ」
代わって洋一が要件を伝える。
「朱音ちゃんは塚越さんのご指名だからね。連れてかないと私が怒られてしまう」
「塚越さんって、菱崎の?」
恐る恐る尋ねる朱音に綺羅は頷いて見せた。
「そ、菱崎重工設計主任の塚越さん。話したら面白がって是非会いたいって」
朱音の頭がまたよく判らない動きをし始める。
「有名なの? その塚越さんって」
洋一の問いに朱音の顔がずいと前に出る。
「十式艦戦設計した人! 拝んでおきなさい」
何故かすごい剣幕で怒られた。
「ところで朱音ちゃん」
お茶に手を伸ばしながら綺羅が尋ねた。
「さっきのあれは何なのかね? 夕食三人前とかなんとか」
朱音の顔が引きつる。できれば聞かれたくなかったといった顔をしていた。
「それはですね」
洋一がしゃしゃり出る。朱音が泡を食っておたおたしている様がなんとも面白かった。
「三時までに一食一円五十銭持ってくると、自分が夕食作る取り決めになってるんです」
中学に通っている頃から洋一が丹羽家の食事を一手に担うようになって、ついでとばかりに小野家とそういう取り決めとなっていた。朱音の母親は尋常小学校の教師もしていて多忙であったし、正直料理の腕はいまいちだった。何より仕入れ次第で一食五十銭ぐらい洋一の懐に入っていたので、悪くない小遣い稼ぎになっていた。
「そうかぁ、洋一君が両家の食卓を支えていたのか。それは面白い」
くすくすと綺羅は笑う。
「そうだ槙さん、四円ほど洋一君に渡してくれないかな」
笑っているだけなら良かったのに、またよからぬことをし始める。懐から高そうな懐中時計を出して時間を確認し、その視線を洋一に向けた。
「まだ三時より前だ。私たち二人分も頼むよ洋一君」
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