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4 娑婆を満喫
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九月九日
休暇といっても日がな一日ぼうっとしても居られない。何しろ丹羽家の食事当番は洋一なのだ。帰ってきたら案の定その仕事を押しつけられた。
まあそんな予感がしていた洋一は、途中松坂で土産に買った牛肉の味噌漬けを夕食に出して随分と喜ばれた。仏頂面の父親も、食事に関してはなんだかんだと褒めてくれる。亡くなった母親の味を思い出すらしい。
翌日の朝食と昼食を用意すると、洋一は買い物がてら散歩に出た。軍服ではなく良い感じにくたびれた木綿の単衣で歩くと、久しぶりに開放的な気分を味わえる。
娑婆に帰ってきたんだなぁ。往来で洋一は大きく伸びをした。足下は素足に下駄。もちろん父親の作である。普段履き用の安物だとは云うが、軽くて疲れにくいのが気に入っていた。
往来は相も変わらず賑わっている。見世物小屋や芝居小屋からは賑やかなお囃子が聞こえてきて、様々な幟が秋風に揺れている。大須観音のそばには食べ物の出店がうまそうな匂いでこちらを誘惑してくる。洋一はあっさりそれに屈してあん巻きを一つ買った。
こうして変わらぬ賑わいを見ていると、海の向こうで戦争をしているのがとても信じられない。そろそろパリが持ちこたえるか怪しくなってきて、秋津の遣欧軍はブルゴーニュ半島で必死の抵抗をしているのに、芝居小屋の軒先では大ガエルのハリボテが首を振って舌を出していた。兒雷也だろうか。
映画館の張り紙を見ると、国定忠治の隣に琉球沖海戦が貼られているのは時勢に合わせたのだろうか。よく見るとあちこちの電柱に戦時国債を呼びかける張り紙が貼ってある。
『舞鶴の仇を伯林で』
そんなあおり文句の下に、激しく燃える舞鶴港の写真が描かれている。自分は空襲翌日の様子しか見ていなかったが、こんなにひどかったのか。
どうにも居心地の悪さを感じて、洋一は映画館の前から離れる。せっかくの休暇だ。娑婆の空気を味わなくてどうする。
まずは夕食の買い物。昨日と今日の朝食はあり合わせで済ませたが、今日の夕食はもう少し豪華にしたい。せっかく海軍で覚えてきた料理もある。
空母『翔覽』の烹炊長は栄町の料亭で修行していただけあって腕は確かであった。銀バエのために手伝うついでにいろいろ教えて貰った。こちらの腕もなかなか上がったと思う。
どうせなら船でなかなか食べられないものが良い。洋一は魚屋の前に立つ。アジが良さそうだった。今日は叩きにしよう。明日の朝用の塩鯖と共に買うと今度は八百屋に向かう。叩きと云えば薬味が重要だ。生姜にニンニク、茗荷と紫蘇はたしか裏庭に生えていたはず。それと煮物用の野菜。茄子と里芋を勧められる。煮物焚き物は烹炊長が最も得意としていただけに、教わったことを試したくて仕方が無かった。それとオクラの梅肉和えなんかもよさそうだ。
食事の買い物なんて当たり前の仕事も、数ヶ月ぶりともなれば楽しく感じられる。何というか、街とつながっていることを実感できる。
街の空気を満喫してから家に帰ると、どういうわけだか父親が腕組みをして入り口に立っていた。
「ただいま親父。どうしたんだよ」
声を掛けた洋一の方を向くと、父一蔵は突き刺さん眼光で睨んだ。
「おい洋一」
絞り出すような低い声。
「おめぇ、お天道様に顔向けできねぇようなろくでもないことを、しでかしたんじゃあねぇだろうな」
「何を云ってるんだよ親父」
まったく意味が判らない。そりゃ商売ものの下駄を五つ重ねて竹馬にしたりしょうもないいたずらをしたことも、まあ昔はあったかもしれないが、ここ一、二年は大人しくしていたはずだ。
「海軍でも働き者と評判の孝行息子だよ俺は。今晩はアジなんだから。早く氷室にしまわないと」
「とぼけんじゃねぇ!」
急に野太い声をあげる。
「てめぇみたいな兵六玉が、真っ当に生きていてあんなすげぇ天女様みたいなべっぴんさんと知り合える訳がねぇんだ。キリキリ吐け! どんな悪事を働きやがった!」
挙げ句の果てに胸ぐらまで掴まれる。本当に身に覚えがない。大体天女のようなすごいべっぴんさんが自分とどう関係があるというのだ。理解はできないが、父親の視線の方向からどうも店の中にその原因があるらしかった。
「倅が道を踏み外したんなら、おめぇを殺して俺は腹を切る。そうしなきゃご先祖様に会わせる顔がねぇ」
「もうなんなんだよ」
半ば父親に押されるように洋一は暖簾をくぐった。うんざりしながら振り返ったところで、彼はわが眼を疑った。
本当に天女がそこに居た。店の中に行儀良く座り、出されたお茶を飲んでいる二人の天女。二人は振り返えり、そのうちの一人が聞き覚えのある声を発した。
「やあ洋一君、おじゃましているよ」
それを聞いて、洋一はようやく事実のほんの一部を理解した。
「た、隊長? どうしてここに」
紅宮綺羅と、付き人の嶋村槙がそこに居た。綺羅は見慣れた飛行服ではなく和装であったために、洋一の目と頭が混乱してしまう。
休暇といっても日がな一日ぼうっとしても居られない。何しろ丹羽家の食事当番は洋一なのだ。帰ってきたら案の定その仕事を押しつけられた。
まあそんな予感がしていた洋一は、途中松坂で土産に買った牛肉の味噌漬けを夕食に出して随分と喜ばれた。仏頂面の父親も、食事に関してはなんだかんだと褒めてくれる。亡くなった母親の味を思い出すらしい。
翌日の朝食と昼食を用意すると、洋一は買い物がてら散歩に出た。軍服ではなく良い感じにくたびれた木綿の単衣で歩くと、久しぶりに開放的な気分を味わえる。
娑婆に帰ってきたんだなぁ。往来で洋一は大きく伸びをした。足下は素足に下駄。もちろん父親の作である。普段履き用の安物だとは云うが、軽くて疲れにくいのが気に入っていた。
往来は相も変わらず賑わっている。見世物小屋や芝居小屋からは賑やかなお囃子が聞こえてきて、様々な幟が秋風に揺れている。大須観音のそばには食べ物の出店がうまそうな匂いでこちらを誘惑してくる。洋一はあっさりそれに屈してあん巻きを一つ買った。
こうして変わらぬ賑わいを見ていると、海の向こうで戦争をしているのがとても信じられない。そろそろパリが持ちこたえるか怪しくなってきて、秋津の遣欧軍はブルゴーニュ半島で必死の抵抗をしているのに、芝居小屋の軒先では大ガエルのハリボテが首を振って舌を出していた。兒雷也だろうか。
映画館の張り紙を見ると、国定忠治の隣に琉球沖海戦が貼られているのは時勢に合わせたのだろうか。よく見るとあちこちの電柱に戦時国債を呼びかける張り紙が貼ってある。
『舞鶴の仇を伯林で』
そんなあおり文句の下に、激しく燃える舞鶴港の写真が描かれている。自分は空襲翌日の様子しか見ていなかったが、こんなにひどかったのか。
どうにも居心地の悪さを感じて、洋一は映画館の前から離れる。せっかくの休暇だ。娑婆の空気を味わなくてどうする。
まずは夕食の買い物。昨日と今日の朝食はあり合わせで済ませたが、今日の夕食はもう少し豪華にしたい。せっかく海軍で覚えてきた料理もある。
空母『翔覽』の烹炊長は栄町の料亭で修行していただけあって腕は確かであった。銀バエのために手伝うついでにいろいろ教えて貰った。こちらの腕もなかなか上がったと思う。
どうせなら船でなかなか食べられないものが良い。洋一は魚屋の前に立つ。アジが良さそうだった。今日は叩きにしよう。明日の朝用の塩鯖と共に買うと今度は八百屋に向かう。叩きと云えば薬味が重要だ。生姜にニンニク、茗荷と紫蘇はたしか裏庭に生えていたはず。それと煮物用の野菜。茄子と里芋を勧められる。煮物焚き物は烹炊長が最も得意としていただけに、教わったことを試したくて仕方が無かった。それとオクラの梅肉和えなんかもよさそうだ。
食事の買い物なんて当たり前の仕事も、数ヶ月ぶりともなれば楽しく感じられる。何というか、街とつながっていることを実感できる。
街の空気を満喫してから家に帰ると、どういうわけだか父親が腕組みをして入り口に立っていた。
「ただいま親父。どうしたんだよ」
声を掛けた洋一の方を向くと、父一蔵は突き刺さん眼光で睨んだ。
「おい洋一」
絞り出すような低い声。
「おめぇ、お天道様に顔向けできねぇようなろくでもないことを、しでかしたんじゃあねぇだろうな」
「何を云ってるんだよ親父」
まったく意味が判らない。そりゃ商売ものの下駄を五つ重ねて竹馬にしたりしょうもないいたずらをしたことも、まあ昔はあったかもしれないが、ここ一、二年は大人しくしていたはずだ。
「海軍でも働き者と評判の孝行息子だよ俺は。今晩はアジなんだから。早く氷室にしまわないと」
「とぼけんじゃねぇ!」
急に野太い声をあげる。
「てめぇみたいな兵六玉が、真っ当に生きていてあんなすげぇ天女様みたいなべっぴんさんと知り合える訳がねぇんだ。キリキリ吐け! どんな悪事を働きやがった!」
挙げ句の果てに胸ぐらまで掴まれる。本当に身に覚えがない。大体天女のようなすごいべっぴんさんが自分とどう関係があるというのだ。理解はできないが、父親の視線の方向からどうも店の中にその原因があるらしかった。
「倅が道を踏み外したんなら、おめぇを殺して俺は腹を切る。そうしなきゃご先祖様に会わせる顔がねぇ」
「もうなんなんだよ」
半ば父親に押されるように洋一は暖簾をくぐった。うんざりしながら振り返ったところで、彼はわが眼を疑った。
本当に天女がそこに居た。店の中に行儀良く座り、出されたお茶を飲んでいる二人の天女。二人は振り返えり、そのうちの一人が聞き覚えのある声を発した。
「やあ洋一君、おじゃましているよ」
それを聞いて、洋一はようやく事実のほんの一部を理解した。
「た、隊長? どうしてここに」
紅宮綺羅と、付き人の嶋村槙がそこに居た。綺羅は見慣れた飛行服ではなく和装であったために、洋一の目と頭が混乱してしまう。
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