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第三章 嚥獣の宴 其の一
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目の前にひなたの美しく愛しい後ろ姿があった。
「ひなた……」
壬生狼の口から自然に言葉がもれた。
その声にひなたはゆっくりと振り返った。だが、壬生狼と目が合った瞬間、その顔は恐怖にひきつった。
「きゃああああああ!」
「俺だ! 透志郎だ!」
壬生狼は、ひなたを落ち着かせようと懐から鈴を取り出した。
チリン……チリン……。
優しい音色を奏でながら揺れる鈴をかざし、壬生狼はゆっくりひなたに近づいた。
「これを覚えているだろう? これが……俺が透志郎という証だ!」
ひなたは鈴を見つめながらブルブルと首を横にふり、逃げるように駆け出した。
「待ってくれ!」
壬生狼はひなたを追いかけた。
だが、追いかけても追いかけてもひなたには追いつけない。
「ひなた!……待ってくれ、ひなた!」
やがて、前を走るひなたの姿が暗闇に吸い込まれ、見えなくなった。
「ひなたッ!」
……カッと見開いた目に、屋根の向こうに広がる空が映った。澄んだ空の青さが壬生狼を現実に引き戻した。
夢か……壬生狼は今見ていたものが現実でないことに安堵しながら、ゆっくり体を起こした。
ここは、町はずれにある炭焼小屋である。もう長いあいだ使われていないらしく、まわりは雑草が伸び放題、地面の至るところには朽ちた木が散乱している。
小屋といっても雨よけの屋根があるだけで、とても人が寝起きするところではない。だが、異形の者である壬生狼にとって、人の出入りがない、こういう人目につかない場所の方が落ち着き、安心して休むことができるのだ。
それにしても嫌な夢だった……壬生狼は思った。
昨日、ひなたを救った時、彼女の目の前で鈴を落とした。それがあんな夢を見させたのか? ひなたにあの鈴が何かわかったのだろうか? もしかすると自分の正体に気づいたかも知れない。だとすれば、彼女は自分のことをどう思ったのだろうか?……全てはひなたにしか知る由はない。壬生狼の頭の中に答えの出ない問いが、ぐるぐると駆け巡った。
壬生狼は、それを断ち切るように頭を振り、顔に手を当てた。
起こってしまったことは仕方ない。これからどうするかを考えよう……。
命令を破ってひなたの前に飛び出した俺を土方は許さないだろう。だが、新選組に任せたからとて、彼らにひなたは守り切れない。現に、新選組は蛇顔に追い込まれ、自分が出ていかなければ、ひなたを救うことはできなかったのだ。
自分がやったことは何も間違ってはいない。それを咎められるなら、新選組と行動を共にする必要はない。自分の力は新選組にとって十分に役立つだろうが、彼らの力が自分にとって役立つかと言われれば、そうとも限らない。
大事な者は自分で守る……あの時、土方に言った通り、俺は俺の力でひなたを守る。
俺の想いは何も変わらない。たとえ、おぞましい姿になっても、影ながらひなたを守り続ける。それが、今の自分にできる愛の形だと壬生狼は思った。
決意を新たにした壬生狼は、晴れた空を見上げて立ち上がろうとしたが、自分を見る何者かの気配を感じ、振り返って身構えた。
いつのまにいたのだろう。炭焼小屋の脇に、ジッと自分を見つめる男が立っている。男は山岡頭巾をかぶって顔を隠しているが、腰に剣を差しているところを見ると侍らしい。狼の姿をした自分を見て動じないということは敵かも知れない。
「誰だ……?」
壬生狼の問いに答えず、男は尋ねた。
「お前が壬生狼か……」
この男は自分のことを知っているらしい……壬生郎は、腰の剣にさりげなく手を当てながら聞いた。
「どうしてここがわかった……?」
「昨日、後をつけた」
男は懐から札のようなものを取り出し、印を組んでサッと空中に投げた。札はボウッと光ると小さな鳥のような姿になり、侍のまわりを旋回した。それは、昨晩壬生狼がひなたの元から走り去る時、後を追って飛んでいたものと同じだった。
壬生狼はそれに見覚えがあった。光る小さな鳥は、あの忌まわしい儀式から逃げる時、後を追ってきたものと同じものだ。壬生狼の頭が一気に熱くなった。
「お前はあの時のッ!」
男は山岡頭巾の下で小さく笑った。
「会えて嬉しいぞ。こうして生きのびているとはな」
「うおおおおおお!」
壬生狼は怒りに任せて剣を抜いたが、素早く飛んできた光の鳥に手を弾かれ、剣を落とした。
弾かれた手を押さえながら身構える壬生狼に向かって、男が語りかけた。
「久しぶりに会ったのだ。少し話そう」
「俺を元の姿に戻せ!」
壬生狼は血走った眼で叫んだ。
「与えた力が不服か?」
「こんな力はいらない! どうして俺をこんな姿に変えた!」
「我が目的を遂げるには強い力がいる。そのために、鍛え抜かれた肉体に獣の力を憑依させる秘術を編み出した。そして生まれたのが、お前達……嚥獣だ」
男はそう言いながら壬生狼に向かって手を差し出した。
「仲間になれ」
「……何?」
男は壬生狼に向かってゆっくりと歩きながら続けた。
「嚥獣の材料には、厳しい鍛錬を積み、屈強な肉体を持つ者が必要だ。だが、実際に嚥獣になれる者は極めて少ない。儀式に耐え切れずほとんどは死ぬ。だが……お前は生き残った。しかも、その体に人の心を残して……」
俺は他の嚥獣と違うというのか?……ゆっくり近づいてくる山岡頭巾の侍と間合いをとりながら壬生狼が考えていると、それを見抜いたかのように男が続けた。
「嚥獣になった者のほとんどは、獣の魂に人の心を食い破られ、自我を失い、獰猛な殺戮者と化す。そして、私の術に従う忠実な僕となる」
壬生狼は自分が戦った嚥獣を思い返した。羆顔も蛇顔も獣に魂を食い破られ自我を失っていたのか。そうであれば、言葉をかわすことができなかったのも合点がいく。
「なら俺は失敗作だな」
壬生狼は挑戦的な目で男を睨みつけた。
侍は、山岡頭巾からのぞく目に妖しい輝きをたたえながら答えた。
「いいや……お前は私の最高傑作だ」
男はそう言うと、壬生狼を迎えいれるように大きく手を広げた。
「お前こそ、私が求める嚥獣の理想の姿だ。ただの殺戮道具ではなく、お前のように自我を持ってこそ、人と獣をかけあわせた意味がある。人の精神に獰猛な獣の力があわさったお前こそ究極の嚥獣だ」
この男は、人を道具としかみなしていない。怒りが頂点に達した壬生狼は鋭い爪を立てて、男に襲いかかった。
男は壬生狼の攻撃をかわし、光の鳥で牽制しながら間合いをとった。
「お前は誰だッ! 顔を見せろッ!」
「それはお前が仲間になる時までとっておこう」
「仲間になどならない!」
「……お前は必ず仲間になる」
男はそう言うと印を組んだ手を前に突き出した。
その手に従うように、光の鳥が壬生狼に襲いかかった。壬生狼は攻撃をかわしながら落とした剣を拾うと、向かってくる光の鳥を叩き落とした。
地面に落ちた鳥は、力を失い、元の札に戻った。
剣を構え直した壬生狼が前を見ると、男が立っていた場所にその姿はなく、気配は全て消えていた。
◯
昨夜、壬生狼に救われたひなたは、駆けつけた沖田に保護され、滞在する屋敷に戻った。だが、なかなか寝つくことができず、悶々とする夜を過ごした。
身を危険に晒された直後で心が落ち着かなかったせいもある。だが、それよりも落ち着かなかったのは、壬生狼のことが頭から離れなかったからだ。
狼の顔を持つおぞましい異形の侍……あの人物は一体何者なのか?
父が殺された時、そばにいたあの男を下手人だと思いこんでいた。だがら、新選組の隊士を殺す蛇顔の手口を見た土方が、父を殺したのは蛇顔だと言ってもにわかには信じられなかった。だが、壬生狼に助けられ、彼から漂う不思議な感覚に、その誤解が自然に解けていくがわかった。
「安心しろ! 俺は敵じゃない!」と叫んだあの声を聞いた時、なぜだかわからないが、一瞬にして心が落ちつく自分がいた。
それだけではない。あの腕に抱えられた時、相手がおぞましい異形のはずなのに、なぜだか心地よく安心して身を任せられた。
そして、あの鈴……あれは、あの人とお揃いで買った鈴と同じものだった。それは一体どういうことなのか……。
色々なことが頭を駆け巡り、眠れないまま朝を迎えたひなたは、護衛の沖田に土方と会わせてもらえるよう頼んだ。
土方は蛇顔の攻撃を受けた体が癒えておらず、屯所の自室で休んでいる。彼を気づかう沖田は、今日は会えないかも知れませんとやんわり断ったが、ひなたの意志は固く、それでもよいのでとにかく会わせて欲しいと引き下がらなかった。
熱意に負けた沖田がひなたを連れて屯所に向うと、庭で素振りをする土方に出くわした。
「何してるんです、土方さんッ。休んでなきゃダメですよ」
「寝ているより体を動かしている方が治りも早い」
土方の言うことに全く根拠はないが、力強く素振りするその姿を見るとあながち間違いではないかも知れないと思えるから不思議である。
土方はひなたの用向きを聞くと、沖田に近藤を呼びに行かせ、ひなたを自室に通した。
三人が揃ったところで、ひなたは開口一番に尋ねた。
「壬生狼と呼ばれるあの方は何者です?」
「あなたが見た通り、狼の姿を持つ異形の者です」
ひなたの問いに土方は端的に答えた。
「私がうかがいたいのはそんなことではありません。あの方がどういう方なのか教えていただきたいのです!」
ひなたの熱のこもった声に少し戸惑いながら、近藤が答えた。
「それは我々にもわからんのです」
「いいえ、知っています!」
ひなたはそう言うと確信と不審が入り交じった目で土方に目を見た。
「少なくとも、土方様は……」
「何故そう思うのです?」
土方は表情を変えず答えた。
「あなたは、昨日壬生狼が現れた時、『なぜ出てきた?』とおっしゃいました」
「……」
「それだけではありません。あの方が戦っている最中も『油断するな!』と声をかけられました。それは、あなたがあの方を知っているからではないのですか……?」
ひなたの目が、探るように、いや、確信に満ちた目で土方を見つめている。
土方は少し間を置いて答えた。
「あの男は我々に協力する者です」
「では、あの方が何者かも……」
「詳しくは知りません。正体は詮索しないというのがあの男との約束です」
土方はひなたの問いを遮るように答えた。
「それは嘘です」
ひなたは食い下がった。
「あの方は、私を襲った者と同じ異形の姿をしています。そのような人を正体もわからずに仲間にすることなどできるのですか?」
「我々もあなたと同様、敵に襲われたところを彼に助けられました。それが信用に値すると」
土方の言うことは答えになっているが、肝心なところの答えになっていない。ひなたは、もやもやする気持ちを吐き出すように、思わずため息をついた。
土方は、そんなひなたを見て、改めて尋ねた。
「あなたこそ、どうしてあの男が気になるのです?」
「あの方には不思議な何かを感じるのです……」
ひなたは、壬生狼に助けられた時に感じたことを三人に話し、更に続けた。
「それだけではありません」
そう言いながら、ひなたは懐から小さな鈴を取り出した。
「これは透志郎様が会津を出る前、二人で買った揃いの鈴です。それをあの方を持っていたのです」
近藤と沖田は思わず顔を見合わせ、土方を見た。
土方は表情を変えず、黙ってひなたを見つめている。
「あの方が乱れた着物を直そうとした時、懐から鈴がこぼれ落ちて……。あの方は慌ててそれを拾い上げて隠しましたが、私は確かに見ました。あれは、透志郎様が持っていた鈴に間違いありません!」
相変わらず迂闊な奴だ……土方は思った。
だから彼女の前に姿を現すなと言ったのだ。彼女を守りたい気持ちはわかるが、正体を知られたくなければ、そばにいない方がいい……土方は壬生狼の未熟さを憂いだが、二人を引き寄せる強い絆も改めて感じていた。
黙っている土方に向かって、ひなたが口を開いた。
「どうしてあの方が透志郎様の鈴を持っているのです? あなたはそれを知っているのではありませんか?」
「先ほども言った通り、彼に関する詳しいことは知りません」
これ以上は預かり知らぬという態度を崩さない土方に、ひなたは思い切って言った。
「ならば、あの方を呼んで下さい」
「奴を……?」
「私が直に確かめます。なぜ、あの方が透志郎様の鈴を持っているのか」
ひなたの目には有無を言わさぬ強い光が宿っていた。
「それはできません」
「何故です? あなたがたが仲間なら呼ぶことはできるはずです」
「御存知の通り、彼は異形の者。みだりに人の前に姿を現し、混乱させるわけにはいけません」
「私はすでにあの方とお会いしています。姿を見て混乱することはありません」
ひなたはきっぱり言い切り、土方をジッと見た。
土方は、少し間を置いて答えた。
「しばらく時を下さい。この件は改めて必ず」
◯
屯所を出たひなたは、黙ったまま歩いた。
土方は何かを隠している……ひなたは、土方への不信感を募らせた。
壬生狼の存在は、きっと透志郎の失踪と何か関係があるに違いない。ひなたの直観は確信に変わりつつあった。
屋敷に戻ったひなたが部屋にいると、「お昼の御用意ができました」と障子の向こうから声が聞こえてきた。
「ありがとうございます。どうぞ」とひなたが声をかけると、膳を持った女中が入ってきた。
屋敷には護衛の新選組の他に女中が二人ほどいる。二人は、佐武親子の滞在にあわせて雇われた者で、ひなた達の身のまわりの世話を受け持っていた。
女中は、ひなたの前に膳を置くと、頭を下げ、部屋を出た。
壬生郎のことで悶々としているひなたは、食事をする気になれなかったが、せっかく用意してもらったものを無下にはできぬと箸に手をのばした。
と、箸置きを見たひなたの顔がフッとほころんだ。
いつもの箸置きは黒い陶器製で何の変哲もないものだが、今日のものは蝶の形をした折り紙製の箸置きだった。恐ろしい事件が続いて身も心も落ち着かないひなたにとって、この小さな心遣いはなんとも嬉しいものであり、心和むものであった。
が、和んだ心はすぐに疑問に変わった。折り紙製の箸置きを改めて眺めると、墨がにじんでいるのが見える。どうやら中に何か文字が書いてあるらしい。
ひなたは折り紙製の箸置きを手にとって、蝶の形を開いて中を改めた。
文字を読んだひなたの顔色が一瞬にしてかわった。
「京都遠征隊のことで伝えたいことあり」……ひなたの目に飛び込んだのは、その一文だった。
書いた人物の名は書かれていない。かといって、持ってきた女中が書いたとは思えない。となると、外の誰かが女中に頼んで密かに持たせたということか……。
ひなたは、護衛についている新選組を呼ぼうとした。だが、すぐに気が変わった。
これは新選組の目を盗んで私だけに伝えたいことに違いない。でなければ、こんな風に知らせてこないはず。それに壬生狼の正体を隠す今の新選組は信用できない。この話は私だけで聞くことにしよう……ひなたはそう決心し、伝言が書かれた紙をきれいに畳み、懐にしまいこんだ。
その夜、ひなたの屋敷に壬生狼が密かに現れた。
壬生狼は、護衛の新選組に気づかれないよう、少し離れた場所から屋敷を見張った。あれ以来、土方とは会っていない。土方はひなたの前に現れたら斬ると言った。
その言葉を無視してひなたの前に現れた以上、もう共闘することはできまいと、壬生狼は思っていた。
壬生狼の目に何かが映った。暗闇の中でボウッと光り、屋敷の上空をゆっくりと旋回する不思議な物体……それは、あの男が使う式神だった。
「あれは……!」
壬生狼はとっさに飛び出し、屋敷の方に駆け出した。
壬生狼の気配に気づいたのか、式神は飛ぶ方向を変えると、門の前で護衛に立つ二人の隊士のあいだをすり抜けて飛び去った。続いて式神を追ってきた壬生狼が二人を押しのけ、猛烈な速さで走り抜けた。
暗がりの中で突然何者かに押しのけられ、驚いた隊士は叫んだ。
「敵だ!敵が来たぞ!」
護衛の隊士達は、叫んだ隊士に続いて、式神を追って暗がりに消えた壬生狼を追った。だが、しょせん壬生狼の速さには追いつけない。隊士達は早々に彼を見失い、何者か判別することもできず、仕方なく屋敷に戻った。
屋敷に戻った彼らはひなたの無事を確かめるべく部屋を訪ねた。だが、部屋にひなたはいなかった。屋敷の中をくまなく探したが彼女はどこにもおらず、その姿は忽然と消えていた……。
…続く
「ひなた……」
壬生狼の口から自然に言葉がもれた。
その声にひなたはゆっくりと振り返った。だが、壬生狼と目が合った瞬間、その顔は恐怖にひきつった。
「きゃああああああ!」
「俺だ! 透志郎だ!」
壬生狼は、ひなたを落ち着かせようと懐から鈴を取り出した。
チリン……チリン……。
優しい音色を奏でながら揺れる鈴をかざし、壬生狼はゆっくりひなたに近づいた。
「これを覚えているだろう? これが……俺が透志郎という証だ!」
ひなたは鈴を見つめながらブルブルと首を横にふり、逃げるように駆け出した。
「待ってくれ!」
壬生狼はひなたを追いかけた。
だが、追いかけても追いかけてもひなたには追いつけない。
「ひなた!……待ってくれ、ひなた!」
やがて、前を走るひなたの姿が暗闇に吸い込まれ、見えなくなった。
「ひなたッ!」
……カッと見開いた目に、屋根の向こうに広がる空が映った。澄んだ空の青さが壬生狼を現実に引き戻した。
夢か……壬生狼は今見ていたものが現実でないことに安堵しながら、ゆっくり体を起こした。
ここは、町はずれにある炭焼小屋である。もう長いあいだ使われていないらしく、まわりは雑草が伸び放題、地面の至るところには朽ちた木が散乱している。
小屋といっても雨よけの屋根があるだけで、とても人が寝起きするところではない。だが、異形の者である壬生狼にとって、人の出入りがない、こういう人目につかない場所の方が落ち着き、安心して休むことができるのだ。
それにしても嫌な夢だった……壬生狼は思った。
昨日、ひなたを救った時、彼女の目の前で鈴を落とした。それがあんな夢を見させたのか? ひなたにあの鈴が何かわかったのだろうか? もしかすると自分の正体に気づいたかも知れない。だとすれば、彼女は自分のことをどう思ったのだろうか?……全てはひなたにしか知る由はない。壬生狼の頭の中に答えの出ない問いが、ぐるぐると駆け巡った。
壬生狼は、それを断ち切るように頭を振り、顔に手を当てた。
起こってしまったことは仕方ない。これからどうするかを考えよう……。
命令を破ってひなたの前に飛び出した俺を土方は許さないだろう。だが、新選組に任せたからとて、彼らにひなたは守り切れない。現に、新選組は蛇顔に追い込まれ、自分が出ていかなければ、ひなたを救うことはできなかったのだ。
自分がやったことは何も間違ってはいない。それを咎められるなら、新選組と行動を共にする必要はない。自分の力は新選組にとって十分に役立つだろうが、彼らの力が自分にとって役立つかと言われれば、そうとも限らない。
大事な者は自分で守る……あの時、土方に言った通り、俺は俺の力でひなたを守る。
俺の想いは何も変わらない。たとえ、おぞましい姿になっても、影ながらひなたを守り続ける。それが、今の自分にできる愛の形だと壬生狼は思った。
決意を新たにした壬生狼は、晴れた空を見上げて立ち上がろうとしたが、自分を見る何者かの気配を感じ、振り返って身構えた。
いつのまにいたのだろう。炭焼小屋の脇に、ジッと自分を見つめる男が立っている。男は山岡頭巾をかぶって顔を隠しているが、腰に剣を差しているところを見ると侍らしい。狼の姿をした自分を見て動じないということは敵かも知れない。
「誰だ……?」
壬生狼の問いに答えず、男は尋ねた。
「お前が壬生狼か……」
この男は自分のことを知っているらしい……壬生郎は、腰の剣にさりげなく手を当てながら聞いた。
「どうしてここがわかった……?」
「昨日、後をつけた」
男は懐から札のようなものを取り出し、印を組んでサッと空中に投げた。札はボウッと光ると小さな鳥のような姿になり、侍のまわりを旋回した。それは、昨晩壬生狼がひなたの元から走り去る時、後を追って飛んでいたものと同じだった。
壬生狼はそれに見覚えがあった。光る小さな鳥は、あの忌まわしい儀式から逃げる時、後を追ってきたものと同じものだ。壬生狼の頭が一気に熱くなった。
「お前はあの時のッ!」
男は山岡頭巾の下で小さく笑った。
「会えて嬉しいぞ。こうして生きのびているとはな」
「うおおおおおお!」
壬生狼は怒りに任せて剣を抜いたが、素早く飛んできた光の鳥に手を弾かれ、剣を落とした。
弾かれた手を押さえながら身構える壬生狼に向かって、男が語りかけた。
「久しぶりに会ったのだ。少し話そう」
「俺を元の姿に戻せ!」
壬生狼は血走った眼で叫んだ。
「与えた力が不服か?」
「こんな力はいらない! どうして俺をこんな姿に変えた!」
「我が目的を遂げるには強い力がいる。そのために、鍛え抜かれた肉体に獣の力を憑依させる秘術を編み出した。そして生まれたのが、お前達……嚥獣だ」
男はそう言いながら壬生狼に向かって手を差し出した。
「仲間になれ」
「……何?」
男は壬生狼に向かってゆっくりと歩きながら続けた。
「嚥獣の材料には、厳しい鍛錬を積み、屈強な肉体を持つ者が必要だ。だが、実際に嚥獣になれる者は極めて少ない。儀式に耐え切れずほとんどは死ぬ。だが……お前は生き残った。しかも、その体に人の心を残して……」
俺は他の嚥獣と違うというのか?……ゆっくり近づいてくる山岡頭巾の侍と間合いをとりながら壬生狼が考えていると、それを見抜いたかのように男が続けた。
「嚥獣になった者のほとんどは、獣の魂に人の心を食い破られ、自我を失い、獰猛な殺戮者と化す。そして、私の術に従う忠実な僕となる」
壬生狼は自分が戦った嚥獣を思い返した。羆顔も蛇顔も獣に魂を食い破られ自我を失っていたのか。そうであれば、言葉をかわすことができなかったのも合点がいく。
「なら俺は失敗作だな」
壬生狼は挑戦的な目で男を睨みつけた。
侍は、山岡頭巾からのぞく目に妖しい輝きをたたえながら答えた。
「いいや……お前は私の最高傑作だ」
男はそう言うと、壬生狼を迎えいれるように大きく手を広げた。
「お前こそ、私が求める嚥獣の理想の姿だ。ただの殺戮道具ではなく、お前のように自我を持ってこそ、人と獣をかけあわせた意味がある。人の精神に獰猛な獣の力があわさったお前こそ究極の嚥獣だ」
この男は、人を道具としかみなしていない。怒りが頂点に達した壬生狼は鋭い爪を立てて、男に襲いかかった。
男は壬生狼の攻撃をかわし、光の鳥で牽制しながら間合いをとった。
「お前は誰だッ! 顔を見せろッ!」
「それはお前が仲間になる時までとっておこう」
「仲間になどならない!」
「……お前は必ず仲間になる」
男はそう言うと印を組んだ手を前に突き出した。
その手に従うように、光の鳥が壬生狼に襲いかかった。壬生狼は攻撃をかわしながら落とした剣を拾うと、向かってくる光の鳥を叩き落とした。
地面に落ちた鳥は、力を失い、元の札に戻った。
剣を構え直した壬生狼が前を見ると、男が立っていた場所にその姿はなく、気配は全て消えていた。
◯
昨夜、壬生狼に救われたひなたは、駆けつけた沖田に保護され、滞在する屋敷に戻った。だが、なかなか寝つくことができず、悶々とする夜を過ごした。
身を危険に晒された直後で心が落ち着かなかったせいもある。だが、それよりも落ち着かなかったのは、壬生狼のことが頭から離れなかったからだ。
狼の顔を持つおぞましい異形の侍……あの人物は一体何者なのか?
父が殺された時、そばにいたあの男を下手人だと思いこんでいた。だがら、新選組の隊士を殺す蛇顔の手口を見た土方が、父を殺したのは蛇顔だと言ってもにわかには信じられなかった。だが、壬生狼に助けられ、彼から漂う不思議な感覚に、その誤解が自然に解けていくがわかった。
「安心しろ! 俺は敵じゃない!」と叫んだあの声を聞いた時、なぜだかわからないが、一瞬にして心が落ちつく自分がいた。
それだけではない。あの腕に抱えられた時、相手がおぞましい異形のはずなのに、なぜだか心地よく安心して身を任せられた。
そして、あの鈴……あれは、あの人とお揃いで買った鈴と同じものだった。それは一体どういうことなのか……。
色々なことが頭を駆け巡り、眠れないまま朝を迎えたひなたは、護衛の沖田に土方と会わせてもらえるよう頼んだ。
土方は蛇顔の攻撃を受けた体が癒えておらず、屯所の自室で休んでいる。彼を気づかう沖田は、今日は会えないかも知れませんとやんわり断ったが、ひなたの意志は固く、それでもよいのでとにかく会わせて欲しいと引き下がらなかった。
熱意に負けた沖田がひなたを連れて屯所に向うと、庭で素振りをする土方に出くわした。
「何してるんです、土方さんッ。休んでなきゃダメですよ」
「寝ているより体を動かしている方が治りも早い」
土方の言うことに全く根拠はないが、力強く素振りするその姿を見るとあながち間違いではないかも知れないと思えるから不思議である。
土方はひなたの用向きを聞くと、沖田に近藤を呼びに行かせ、ひなたを自室に通した。
三人が揃ったところで、ひなたは開口一番に尋ねた。
「壬生狼と呼ばれるあの方は何者です?」
「あなたが見た通り、狼の姿を持つ異形の者です」
ひなたの問いに土方は端的に答えた。
「私がうかがいたいのはそんなことではありません。あの方がどういう方なのか教えていただきたいのです!」
ひなたの熱のこもった声に少し戸惑いながら、近藤が答えた。
「それは我々にもわからんのです」
「いいえ、知っています!」
ひなたはそう言うと確信と不審が入り交じった目で土方に目を見た。
「少なくとも、土方様は……」
「何故そう思うのです?」
土方は表情を変えず答えた。
「あなたは、昨日壬生狼が現れた時、『なぜ出てきた?』とおっしゃいました」
「……」
「それだけではありません。あの方が戦っている最中も『油断するな!』と声をかけられました。それは、あなたがあの方を知っているからではないのですか……?」
ひなたの目が、探るように、いや、確信に満ちた目で土方を見つめている。
土方は少し間を置いて答えた。
「あの男は我々に協力する者です」
「では、あの方が何者かも……」
「詳しくは知りません。正体は詮索しないというのがあの男との約束です」
土方はひなたの問いを遮るように答えた。
「それは嘘です」
ひなたは食い下がった。
「あの方は、私を襲った者と同じ異形の姿をしています。そのような人を正体もわからずに仲間にすることなどできるのですか?」
「我々もあなたと同様、敵に襲われたところを彼に助けられました。それが信用に値すると」
土方の言うことは答えになっているが、肝心なところの答えになっていない。ひなたは、もやもやする気持ちを吐き出すように、思わずため息をついた。
土方は、そんなひなたを見て、改めて尋ねた。
「あなたこそ、どうしてあの男が気になるのです?」
「あの方には不思議な何かを感じるのです……」
ひなたは、壬生狼に助けられた時に感じたことを三人に話し、更に続けた。
「それだけではありません」
そう言いながら、ひなたは懐から小さな鈴を取り出した。
「これは透志郎様が会津を出る前、二人で買った揃いの鈴です。それをあの方を持っていたのです」
近藤と沖田は思わず顔を見合わせ、土方を見た。
土方は表情を変えず、黙ってひなたを見つめている。
「あの方が乱れた着物を直そうとした時、懐から鈴がこぼれ落ちて……。あの方は慌ててそれを拾い上げて隠しましたが、私は確かに見ました。あれは、透志郎様が持っていた鈴に間違いありません!」
相変わらず迂闊な奴だ……土方は思った。
だから彼女の前に姿を現すなと言ったのだ。彼女を守りたい気持ちはわかるが、正体を知られたくなければ、そばにいない方がいい……土方は壬生狼の未熟さを憂いだが、二人を引き寄せる強い絆も改めて感じていた。
黙っている土方に向かって、ひなたが口を開いた。
「どうしてあの方が透志郎様の鈴を持っているのです? あなたはそれを知っているのではありませんか?」
「先ほども言った通り、彼に関する詳しいことは知りません」
これ以上は預かり知らぬという態度を崩さない土方に、ひなたは思い切って言った。
「ならば、あの方を呼んで下さい」
「奴を……?」
「私が直に確かめます。なぜ、あの方が透志郎様の鈴を持っているのか」
ひなたの目には有無を言わさぬ強い光が宿っていた。
「それはできません」
「何故です? あなたがたが仲間なら呼ぶことはできるはずです」
「御存知の通り、彼は異形の者。みだりに人の前に姿を現し、混乱させるわけにはいけません」
「私はすでにあの方とお会いしています。姿を見て混乱することはありません」
ひなたはきっぱり言い切り、土方をジッと見た。
土方は、少し間を置いて答えた。
「しばらく時を下さい。この件は改めて必ず」
◯
屯所を出たひなたは、黙ったまま歩いた。
土方は何かを隠している……ひなたは、土方への不信感を募らせた。
壬生狼の存在は、きっと透志郎の失踪と何か関係があるに違いない。ひなたの直観は確信に変わりつつあった。
屋敷に戻ったひなたが部屋にいると、「お昼の御用意ができました」と障子の向こうから声が聞こえてきた。
「ありがとうございます。どうぞ」とひなたが声をかけると、膳を持った女中が入ってきた。
屋敷には護衛の新選組の他に女中が二人ほどいる。二人は、佐武親子の滞在にあわせて雇われた者で、ひなた達の身のまわりの世話を受け持っていた。
女中は、ひなたの前に膳を置くと、頭を下げ、部屋を出た。
壬生郎のことで悶々としているひなたは、食事をする気になれなかったが、せっかく用意してもらったものを無下にはできぬと箸に手をのばした。
と、箸置きを見たひなたの顔がフッとほころんだ。
いつもの箸置きは黒い陶器製で何の変哲もないものだが、今日のものは蝶の形をした折り紙製の箸置きだった。恐ろしい事件が続いて身も心も落ち着かないひなたにとって、この小さな心遣いはなんとも嬉しいものであり、心和むものであった。
が、和んだ心はすぐに疑問に変わった。折り紙製の箸置きを改めて眺めると、墨がにじんでいるのが見える。どうやら中に何か文字が書いてあるらしい。
ひなたは折り紙製の箸置きを手にとって、蝶の形を開いて中を改めた。
文字を読んだひなたの顔色が一瞬にしてかわった。
「京都遠征隊のことで伝えたいことあり」……ひなたの目に飛び込んだのは、その一文だった。
書いた人物の名は書かれていない。かといって、持ってきた女中が書いたとは思えない。となると、外の誰かが女中に頼んで密かに持たせたということか……。
ひなたは、護衛についている新選組を呼ぼうとした。だが、すぐに気が変わった。
これは新選組の目を盗んで私だけに伝えたいことに違いない。でなければ、こんな風に知らせてこないはず。それに壬生狼の正体を隠す今の新選組は信用できない。この話は私だけで聞くことにしよう……ひなたはそう決心し、伝言が書かれた紙をきれいに畳み、懐にしまいこんだ。
その夜、ひなたの屋敷に壬生狼が密かに現れた。
壬生狼は、護衛の新選組に気づかれないよう、少し離れた場所から屋敷を見張った。あれ以来、土方とは会っていない。土方はひなたの前に現れたら斬ると言った。
その言葉を無視してひなたの前に現れた以上、もう共闘することはできまいと、壬生狼は思っていた。
壬生狼の目に何かが映った。暗闇の中でボウッと光り、屋敷の上空をゆっくりと旋回する不思議な物体……それは、あの男が使う式神だった。
「あれは……!」
壬生狼はとっさに飛び出し、屋敷の方に駆け出した。
壬生狼の気配に気づいたのか、式神は飛ぶ方向を変えると、門の前で護衛に立つ二人の隊士のあいだをすり抜けて飛び去った。続いて式神を追ってきた壬生狼が二人を押しのけ、猛烈な速さで走り抜けた。
暗がりの中で突然何者かに押しのけられ、驚いた隊士は叫んだ。
「敵だ!敵が来たぞ!」
護衛の隊士達は、叫んだ隊士に続いて、式神を追って暗がりに消えた壬生狼を追った。だが、しょせん壬生狼の速さには追いつけない。隊士達は早々に彼を見失い、何者か判別することもできず、仕方なく屋敷に戻った。
屋敷に戻った彼らはひなたの無事を確かめるべく部屋を訪ねた。だが、部屋にひなたはいなかった。屋敷の中をくまなく探したが彼女はどこにもおらず、その姿は忽然と消えていた……。
…続く
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