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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 23

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 納屋には粘着質な音が響いていた。茉世まつよは波板に両手と頭をつけて、前後に揺れていた。目は虚ろで、時の流れというものを感じないようにしていた。我に帰るときには、どうか布団の上であってほしかった。アラームの音で目覚めたかった。寝相の悪い夫を横に。
 望んでいない感触が叩き込まれる。端麗で丈夫な牡を前に、理性は危険信号を出していたが、肉体はこの牡を選ぼうとしていた。
「ああ~、まんこ締まるッ!」
 異様な外見の背の高い男は、彼女の腰をがっちりと掴んで腰を打ちつけた。肌に食い込んだ指の跡がつきそうなものだった。
 活塞かっそくが速まり、強まった。
「あ、あ、あ、あああ……!」
「もっと締めろ」
 艶めいた声が耳の裏を擽った。割れた舌先が車輪の如く耳殻を辿る。青山とかいった男の改造されたペニスを、彼女は不本意に締め上げる。
「いい子だ」
「も………ゃ、なの………」
 無意識に口にしていた。
「ああ?何言ってんだよ、きゅうきゅう締めて?ここもとんがらせて!」
 長い指が茉世の脚の間でつんと小さく聳り勃つ珠肉を抉った。
「んああっ」
 花壺に力が入る。牡茎の太さと硬さを臍の裏で感じ取る。また肉体が、この恐ろしく暴力的な男の番いになることを推していた。
「う、わ…………締まる」
 青山あおやまあいといっていた男は悦んで抽送する。速度も角度も変えて、おぞましいリング状のいぼに隘路に埋まる蜜腺を何度も削られていた。
「あんっ、あッ、あっあっ、」
「かわいいな。アナタ、ワタシのセフレにならない?」
 青山藍は茉世の顔に顔を寄せる。その動きは深く結合した部分にも響くのだった。
「あ!っアぁあ、」
 脳を直接殴られているような、衝撃的な快楽は苦しみに似ていた。
「ワタシのチンポ、感じる?」
 スズメバチみたいに彼は肉釘で濡れ花を打った。
「だ、め!ア!ぁああ、」
「いい子でちゅね」
 銀疣の刺さった割れ舌が、茉世の頬をべろりと舐めた。ついでに耳朶で銀色の疣を転がした。
「でもイくときはイく!って言え」
 低い声は険しかった。朱色の芽をふたつの指で摘まれる。気付けば、両腕を後ろに回され、かんぬきの如く腕を通されてしまっていた。なすすべもなくあとは前後に揺さぶられるのみである。
「そ……れ…………だめ!んゃ、あっあっあんっ」
 穿刳ほじくられている蕊孔からとうとう蜜が滴り落ちていた。牝牡の液体が混ざり合い、糸を引いて落ちていく。
「イく、って言え」
「い、く…………いきます、いく………あ………ああああ………ごめんなさい、」
 青山藍の声にも余裕がなかった。ラストスパートをかける腰遣いに、茉世は口水を溢れさせた。視界は明滅し、背筋が反り上がった。
「ん……、出る、イく、」
 優秀な牡の肉体を果てさせることのできた悦び!そしてそれを嫌悪する理性!このふたつがぶつかり合い、白い爆発を生んだ。
「あ……ああ………」
 欲望の奔流を腹に受ける。鼓動とは違う脈動。擦り上げられて熱を持った内側には、この怒涛がいくらか冷たく感じられた。
「きもちぃ……っ」
 彼の放精の余韻が引くまでしがみつかれていた。だが呆気なく放される。衣擦れの音が耳鳴りの奥に聞こえた。だが彼女は動けない。弛緩した身体は崩れ落ちかけたところで引き寄せられる。ぺち、と蚊も殺せないような力で頬に手が当たった。
「おい。寝るな。寝てトんで楽しようとか思った?」
 だが茉世はびく、びく、と身体を引き攣らせて、今にも倒れそうであった。
「ああ?キスしてやるよ。口開けな」
 しかし茉世が自ら口を開けなくても、すでに開いていた。そのような事情は、青山藍には関係なかった。宣言どおりに彼女の口の中に溢れた蜜へ蛇のような舌はダイブする。彼女の口角は本当に小さな瀑布と化した。
「は………ぁ、んん…………」
 技巧的な口付けに、茉世はのぼせたような心地になった。何故このようなことになったのか、この男は誰で、皆は何をしていて、自分はどういう状況にあるのか……考えようとはしたが、答えに辿り着けなかった。
「いい子だね」
 青山藍という男はおそらく年下であった。そして彼もその認識があるようだった。けれどもごつごつと指輪の嵌まった手は、彼女の頭を撫でる。
「絆によろしく。アイドルとヤれて嬉しかったっしょ?ワタシも巨乳のキレーな人妻とおまんこできて気持ちよかった」
 青山藍は何をしに三途賽川さんずさいかわを訪れたのであろうか……
 茉世はコンクリートの床に放って置かれた。頭が痛くなってそのまま崩れ落ちた。オスの孔雀みたいなのに犯されたまま、彼女は下着を上げることも叶わず横たわる。熟れた木通あけびから、どろどろとねちっこい汁が溢れ、どるんとゼリー状のものまで落ちてくる。
 彼女の目頭から熱く重い涙の一粒が搾り出された。そして流れ落ちていく瞬間にフラッシュが焚かれる。幸か不幸か、そのときには、彼女は意識を手放していた。
 物陰から、カメラを手にした禅が現れる。


 蚊取り線香の匂いで目が覚める。頭が痛かった。フラッシュが焚かれ、眩しさに目を閉じる。茉世が自身の有様に気付くのには時間がかかった。
「懲りないな」
 禅の冷ややかな声が降る。埃まみれの扇風機が納屋の隅で回っている。彼女は一瞬にして直前のことを思い出した。
「蓮兄と浮気するなら、蘭兄ちゃんとは別れてくれない?」
 禅は蚊取り線香の傍に座っていた。弁解はできなかった。茉世は肌を晒し、子種を垂れ流していた。彼女は慌てて、下着を直す。
「蘭兄ちゃんと別れて!」
 彼は、女の肌に興味がないようだった。義姉を睨むのみである。
「最低だよ、あんた」
 少年はまたフラッシュを焚いた。彼女は強い白光に怯える。
 禅は納屋を出ていった。茉世は茫然としていた。何から考えていいのか分からなかった。あの青山という男が恐ろしい幻想、悪夢のように思えた。おかしな寝方をした後のようだった。重苦しい身体を起こす。下着が汚れていく。
 家から風呂場へ行く間、幸い、夫や永世には会わなかった。客人と鉢合わせないよう、彼女は気を配らなければならなかった。着替えを持ち込む余裕はなかったし、髪はタオルに包んでいる状態で、化粧もしていなかった。
 部屋で髪を乾かしていると、夫がやって来る。客人は帰ったものと思っていたが、そうではなかった。会うように言われる。
 客人はすでに玄関で靴を履いていた。若い男は蘭や永世よりも歳下に見えるが、しかし幼くあどけないというわけではなかった。セットされた黒髪にスーツ姿の爽やかな青年で、保険や商品の契約をしに来たかのような出立ちである。白い肌に淡い雀卵斑が浮かんでいるが、彼の雰囲気と相俟ってそれも愛嬌といえる。
「親戚のつきくんです。蓮と同い年の。外国から帰ってきたところなんだって」
 蘭は茉世と客人を引き合わせ、無邪気に笑っている。しかし直前まではこうではなかった。妻の身に降りかかった災難を見透かすように沈んだ面持ちをしていた。彼は何を考えていたのだろう。
「こんにちは。初めてまして……と言いたいところなんですが、初めてましてじゃないんです」
 茉世はそのつらを思い出そうとしたが、思い出せなかった。名前についても聞き覚えがない。
「でも、初めましても同然ですね」
 彼はからからと笑った。
「すみません……」
 結局思い出せなかった。いつ頃会ったことがあるのか、見当もつかず候補も浮かばなかった。
「高校生のときですよ。左腕の傷……まだ残ってしまってますか?」
 茉世は寒気がした。相手の青年に対してではなかった。些細なことを言い当てられた気味の悪さである。不吉な占いが当たってしまったかのような。
「あ、あります…………けど………」
「どうも、当時は申し訳ないことをしました。傷跡、消しませんか?」
 傍にいる夫のことも、永世のことも、彼女は忘れていた。あらゆるものを信用できかった。この人物と青山とかいう異様な男が手を組んでいるようにも思えてしまった。
「別に、困っていませんし………大丈夫ですよ。でも、あの…………人違い、ではありませんか…………?」
 若い客人はきょとんとしていた。そして何か思い出したかのように口を開いたが、容喙ようかいしたのは蘭だった。
「蓮くんが……怪我させちゃったの。月くんが言ってるのは……あ、いや……えーっと………」
「うん?今だから言えますけど、六道月路ろくどうがつじさんですよ。三途賽川くんが天神てんじん音禰おとねさんという方で」
 蘭はぱちくりと目蓋を上下させるので精一杯のようだった。茉世は何の話なのかよく分からず、永世に助けを乞うた。だが彼も首を傾げるのみである。
「天神さんのほうは傷も残らなかったとのことなのでよかったです。だからよりいっそう、天神さんのほうの傷が残ればよかったという話ではないのですが、六道月路さんの傷跡のことが心配だったんです」
 彼は爽やかな黒髪を掻いた。坊主頭の下級生……
「ど、どういうことですか……?え?」
「三途賽川くんが、天神さんという六道月路さんと……えっと、今は、三途賽川さんですね」
「茉世です」
「三途賽川くんが、茉世奥様と同い年の女の子を怪我させてしまったんです。で、私は三途賽川くんがその……まぁ、"霊媒体質"なので、その身代わりとでもいいますか。そういう立場で三途賽川くんと同じ高校にいたんですけどね。三途賽川のお家が事件を起こしちゃまずいと思って、六道月路さんのお宅は親戚ですから巻き込ませていただいたんです。天神さんを怪我させたのは三途賽川くんですが私、つまり鏡花辺津きょうげべつ家ということになりました。表向きは。茉世奥様を傷付けたのは私なのです。三途賽川くんには茉世奥様を傷付けたように見せかけて……そこの説明ってなされてなかったんですね」
 鏡花辺津きょうげべつつきは特に気にしたふうもない軽やかな微苦笑を浮かべる。
「看せていただけますか?」
 茉世は彼に左手を差し出した。
「失礼―失礼」
 彼は茉世と、それから彼女の夫を見遣った。滑らかな肌に一際白く浮かぶ傷痕を確かめる。
「巻き込んで申し訳なかったです。三途賽川くんは当時からやっぱり縹緻きりょうも良くてモテることで有名でしたから、部分者の女子生徒と接点を作らせるわけにはいきませんで、巻き込まざるを得ませんでした。申し訳なくて。とくに困ってはいらっしゃらないようですが、やはり私の気が済みません。僕のお世話になった医者を紹介しますから………」
 彼女なりに支えていた腕から力が抜けた。鏡花辺津月とかいう男の指から落ちていく。
「困って……いませんから…………」
 茉世はすでに痛みもない箇所にむず痒さを覚えた。
「消して、もらっちゃえば?」
 抑揚のない声が割って入った。言った者はぼんやりしているようだった。蘭である。
「月くんのわだかまりが解けるなら……蓮も………」
 蘭はきょときょとと大きな目を転がした。彼は動揺しているように見えた。
「いいんじゃないかな……茉世ちゃんが嫌なら、無理にとは言わないけど………」
 永世は夫婦を見回した。
「すぐに決めるのも難しいんじゃないですか。ご予定とかもあるでしょうし……」
「それもそうですね。またご連絡ください。いつでもお待ちしております」
 彼は三途賽川の親戚であるはずだった。だがその素振りは営業マンと顧客の関係性に似ているのだった。
「うん。月くんも、いつでも……」
 この訪問者が帰るまでは茉世も耐えていた。玄関が閉まった途端に立ち眩みを起こし、永世に支えられる。
「すみません……貧血かもしれません」
「ごめんね、お部屋で休んでるところを連れ出しちゃって。お部屋戻ろうか。おでが連れていくよ」
 永世は菜園へと戻っていった。夫は頭頂部から毛に覆われた耳を二つ生やした。表情はなく、目は眼窩でビー玉でも転がっているようだった。
「蓮くんの気になる人の名前が、やっと分かったね。天神さんか。今、どうしてるんだろう」
「あの、蘭さん」
「うん~?」
 貼り付けたような笑みは固い。
「蓮さんって、野球部ヘアだったこと、ありますか」
「高校時代はそうだったよ。モテるから髪切っちゃうってのもすごいけど、坊主頭にしてもモテちゃってねぇ。むしろイケメンが強調されちゃっててさ。ホワイトデーなんて買ってたらキリないから、おでと永世くんでお返しのチョコ作ったもんだよ。お湯で溶かして、型に入れて、冷やして、フィルムに包んでさ」
 だがあの者が高校時代に坊主頭であったかは、今更どうでもよいことであった。そして当時、保健室でみた下級生が誰であったのか―どちらであったのかについても。
 蘭はぼんやりしていた。彼の気質によるものではなかった。弟の高校時代を思い出すのでもなかった。彼は狼狽えているように見えた。静寂に。
「……蓮くんから、何か聞いてるの」
 彼の口の動きはぎこちなかった。茉世は背筋が凍りつくような感じがした。
「い、いいえ……何も」
 呑気で愚鈍なこの夫に彼女の青褪めた顔色を読み取ることができただろうか。
「や、やっぱりさ、好きな子の名前とか、知っときたいもんね。高校生の頃のじゃ、そんな昔ってわけでもないし……」
 夫の眼はぎこちなく床を這い回る。
「蘭さんの言いづらいことでしたら、それとなくわたしから、話しておきましょうか」
 明るいブラウンの目が大きく見開かれる。
「ううん。高校時代のことだし……あ、でもそっか。いや……―茉世ちゃん」
 情けなく、頼りなく、甲斐性もない、ただ穏やかで優しいだけの夫の声音が改まる。
「はい」
「お手々、本当にもう大丈夫?」
 夫は遠慮がちに、しかし無断のうちに彼女の左腕を拾い上げた。
「はい。特に何事もなく……」
「じゃあさ………忘れてくれる、かな。ゴメン。ああ!もうおで、何言ってんだろ?」
 彼は動揺している。その理由は分からなかった。弟の過去の不祥事が今になって、決して無関係ではなかった妻側に露見したからであろうか。
「はい。忘れていたくらいですから」
 掘り起こすのは、三途賽川連中のほうである。
「茉世ちゃん」
 部屋の前で、夫はまた改まった。
「はい」
「今夜、げんくんは鱗獣院りんじゅういん家にちょっと戻るって。だから……その、」
「蘭兄ちゃん」
 茉世は肝を潰した。氷水の入ったバケツを頭からかけられたのかと思った。背後に禅がいる。夫は簡単に振り返るけれども、彼女は首が錆びついた金属みたいに固まっていた。
「どうしたの?」
「今日、諺いないんでしょ。怖いテレビ観ちゃって、一緒に寝てほしいんだけど……」
 吊り目は義姉を捉えていた。
「え?あ、ああ……」
「義姉さんも一緒に寝る?部屋狭いけど」
 何も見ていない、何も聞いていない、何も知りやしないといった態度であった。挑発的で、どこか投げやりですらある。この少年の三白眼に戸惑う兄の姿は映っていたはずだった。だが譲歩する気もない。叱責するようや眼差しを義姉にくれるのみである。
「わ、わたしは……」
 夫から目交ぜを受ける。けれどもそれは意思疎通ではなく、彼の遠慮であった。
「禅ちゃん、何言ってるの。茉世ちゃん困ってるじゃない」
 彼の中で振り切る方向が決まったらしい。苦笑を取り繕う。
「分かった。お布団持っていくね」
「ありがと、蘭兄ちゃん。ごめんね、義姉さん。蘭兄ちゃん借りるから」
 禅の姿が見えなくなるまで、茉世は息のできている感じがなかった。
「禅ちゃん、寂しがりだからなぁ。おでが結婚しちゃって、諺くんもきて、寂しい思いさせてるな……ごめんね、色々話が変わっちゃって」
「い……いいえ」
 自室に戻ると彼女は横になったまま眠ってしまった。心身ともに疲れていた。おかしな男が浮世離れした風貌であったことは一種の幸運であったのかもしれない。恐怖のなかで探し出せた一縷の望みであった。恐ろしい白昼夢と思えなくもなかった。あれは夢だった。幻覚だった。彼女はおぞましい出来事を受け入れないことにした。
「まっちゃん」
 おそらく一度ではなかった。何度か呼ばれていた気がするが、しかしはっきりと理解したのは数度目の声だった。意識は覚めたが、まだ目は開かなかった。喉が乾いていたが水が飲みたいのとは違った。背中一面に鉛の板を貼り付けられたような重みと窮屈さがある。
「まっちゃん。夜寝られなくなるで」
 彼女はやっと、目蓋を持ち上げた。点けた覚えのない扇風機が回り、腹には厚手のタオルが掛けられている。襖のところには御園生みそのう瑠璃が部屋の中を覗いていた。
「るりるりが掛けてくれたの?」
「え?おれ今帰ってきたばかりだけど。おやつ買ってきたから食おうぜ。ダイエット中とか?」
 茉世は首を振った。
「じゃあ、いただきます」
 あれは悪夢であったのだ。夫ではない男に肌を触らせた罰なのであろう。そうでないならばあれな何だったのか。あの奇怪な男は。死神だったのか。閻魔大王というやつなのか。いずれにしろ世俗的であった。
「って言っても値引き品だからあんま期待すんなよ」
 幼少期を知り合っている相手というのは気が安らいだ。いつの間にか大きな成長と変化を遂げていたのだとしても。



 禅は、大好きな兄を裏切った女を赦しはしなかった。3兄弟の飯時だった。卓にはすでに家事代行員たちの手料理が並び、諺と霖は席についていた。永世と御園生は廊下で待っていた。三途賽川の嫁は夫たちの食べ始めるときには傍にいなければならなかった。とはいえそれを強いた人物がこの食卓につくことはないけれど。
 禅は家事代行員たちも席についた途端、すいと立ち上がった。そして茉世を指でさすのだった。一瞬にして場の空気が変わった。
「この人、浮気してるから」
 そこに勝ち誇った様子はなかった。優越感の漲っている様子もなかった。しかし注目を集めていた。ゆえに彼の声が、この場を支配しているのだった。
 諺はよく分かっていないようだったが、霖は驚いていた。そして夫は、目を見開き、目蓋を震わせていた。
「証拠もある。この人、蓮兄とデキてるから……別れたほうがいいと思う」
 最後の一言は消え入りそうであった。
 これといって贅沢さや豪勢さはないが、庶民的な料理なりに手の込んだ温かな夕食が、途端に冷めて見える。
 時間が止まっているようだった。廊下からは、永世と御園生の視線が刺さる。ここで何か発するべきだとは分かっていた。だが茉世は言葉が浮かばなかった。
 嫌な沈黙だった。茉世は食卓のほうを見られなかった。
 禅はコピー用紙に印刷されたものを取り出した。2回折り畳まれているのを差し出した。
「永世は信じてくれなかったけど、別にいい。霖も弁当作ってもらってるし、あの人のこと悪く言えないだろ。でも蘭兄ちゃんにだけは信じてほしい。蘭兄ちゃんにだけは……」
 その声は不安定だった。大きな猫目から涙が落ちる。己の意見を優位にしようと弱者を気取る演技には思われなかった。その双眸は真っ直ぐに長兄を捉えている。
 茶の間の空気が膨張して、圧迫されているみたいだった。茉世は自身の呼吸の音を聞くので精一杯だった。
「この人と、別れて……」
 懇願とともに、少年は堰を切った。彼は虚勢を張りきれなかった。
「出ていきなさい!」
 食器が割れそうなほどの怒号が響く。谺していた。蘭だった。聞いたこともない怒声は、果たして誰に向けられたものか。
「出て………いきなさい」
 力無く持ち上がった腕は、手首も垂れ下がっていた。示指は一度だけ跳ね、それは茉世を差していた。
「は、い………」
 彼女には弁解する言葉もなかった。何を以って浮気とするのか、分からなかった。あれは浮気であったのか、否か。しかしすぐに夫に打ち明けることができなかったのなら、それは同じことなのだろう。後ろめたさという吹出物は膿を溜めて大きくなっていくばかりなのだ。
 廊下にいる永世と御園生の間をすり抜け、彼女は自室へ荷物を取りにいった。
「ちょ……っ、まっちゃん?」
 御園生瑠璃が追いかけてくる。
 不貞について、最も知られたくなかった相手は夫であっただろうか。もしかすると御園生であったのかもしれない。このあまり変わらずにいる溌剌とした知己に汚くなってしまった現在を知られるのが恥ずかしくなった。
「ほ、本当なのかよ?」
「うん……まぁ。ごめんね。ごはん前にこんなことになって」
 彼女は平静を装った。そして適当なものだけ持って、部屋の出入り口に立つ幼馴染の横を擦り抜けていった。
「行くあて、あんの?」
「親戚のおうち」
 そのようなものはない。
「車、出そうか?」
 彼女は首を振った。
「風当たりキツくなっちゃうよ。平気。タクシーでも拾うから。ありがとうね。でもるりるりも戻らなきゃ。変な目で見られちゃうよ」
 茉世は御園生の背中に触れた。茶の間の方角へ、腰の辺りを押した。
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