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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 4

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 林の中を歩いていた。前に進もうとしか思わなかった。拓けた場所で、足元には枯れて乾いた枯草だの枝木だのが薄い色をしてうずたかく、柔らかな踏み心地がした。鬱蒼と茂る木々は空を狭くし、細い葉たちが不気味にそよぐ。
 茉世まつよは林の中に入ろうとしていた。おそらく、相応しい服装はしていなかった。ただ目の前に木々がある。だから理由もなく進んでいくようだった。考えもなく、進んでいた。そこに彼女の意思はあっただろうか?いいや、なかった。彼女の足は勝手に動いていた。
 林の中には色褪せた鳥居や冠木門かぶきもんに似たオブジェがあった。鳥居というには朱塗りされておらず、冠木門というには石造りで色や質感も石そのままである。周りは背の低い石の柱で囲われ、敷地の区分が明らかにされていた。
 彼女は神社の作法も守らず、またそういう礼儀作法があることを知ったうえで、鳥居とも門とも言えぬかまえを潜っていた。途端、まったく音に対する情報などなかったところに、中年から老年くらいの男のものと思われる野太い読誦どくしょうが聞こえはじめた。遠近感のつかめない声量で、それはどこを向いても一定であった。茉世は左見右見とみこうみしていた。そしてまた振り返ったとき、殺風景な境内けいだいというのか敷地内というのか、そこは一斉に風景を変えていた。まるで祭りのようであった。石を並べて作った道は、灯火を立てて赤く光っていた。石で作られた道の外れ、脇にあった木造の宝物庫と思しきものは、神楽殿のように代わり、そこには人がいた。多くの人がいた。それらは人影に似ていた。茉世は誰ひとりとしてそこに並び、合掌する者たちの顔を捉えることができなかった。顔を見たつもりはある。ただ造形が曖昧なのだ。視覚情報で把握できるものではないらしかった。
 茉世は影のような朧げな輪郭の、かろうじて人々と認識できる者たちが列を作って並んでは、再び並び直していく儀式的なものの先を見た。そこで、距離感のつかめない均された音声おんじょうが立体的になる。拝殿に似た建物には巨大なイノシシと思しき獣の頭部が横たわっていた。牙か角か分からぬ部位が見える。頭部のみで牛1頭分の大きさの獣だった。胴体はない。
"うぬも並べ"
 読経のようなことをしながら、同じ声が茉世に語りかける。彼女は得体の知れない恐怖を覚えた。意に沿ったのか叛いたのか、彼女の足は列に加わろうとした。そこに黒い猫が割り入るように横切って阻む。


「起きろ」
 額に触れた冷たさで茉世は目蓋を開いた。寝ているようだが、立ち眩みを起こしたみたいに前後の均衡を保てなかった。転倒の危機に焦り、しかし後ろに倒れようもないことを悟ると、彼女は首を曲げた。嫁に厳しい義長弟が、無防備に顔を覗き込んでいた。彼も本当に嫁の目が開くと思っていなかったのだろう。視線がち合って数秒、互いに停止していたが、目を逸らされてしまった。
「すみません……」
「世話の焼ける嫁だな」
 クーラーのよく効いた部屋は殺風景だった。嫁いびりが生き甲斐みたいな三途賽川さんずさいかわの次男坊・蓮はトレードマークみたいな黒いシャツに、今は薄い上着を羽織っている。設定温度をかなり低くしてあるらしい。茉世も寒さを感じるほどだった。
「わたし……あの、どうして………」
「日射病だろう。自分の体調くらい、自分で把握してくれないか」
 身体を起こすと、厚手の上質なバスタオルがはらりと翻った。掛布団の代わりだったようだ。
「ごめんなさい」
 茉世は思い出せる限りことを思い出そうとした。だが浮かぶのは、横たわる巨大なイノシシの頭部なのである。あれは体調不良のときにありがちな奇妙な夢であろう。意味などないのである。
「旦那の部屋で涼んでいればいい。涼めるかは分からないが。人払いはしてある。嫁としての務めを果たすにはこんな都合の良いことはない。来年の春には元気な子の顔を見られるといいが。来年の今頃には……俺を叔父にしてくれ」
 常に無表情か不機嫌げである冷ややかな美貌には、悪辣な微笑があった。彼は嫁を威圧するのが大好きなのだ。
「ご迷惑をおかけしました」
 掛けられていたバスタオルを畳む。ここにはいたくなかった。会話を終わらせるような調子で彼女は言った。
「義姉さん、貴方はこの家に何をしに来た?」
「嫁いできたのです」
「何のために?何故、兄には妻が必要だった?そもそも結婚というものを世間は甘く考え過ぎだ。何のために結婚する?好き合う2人の関係性を社会が認めて、だから何だというんだ?カップルとして好きにやっていればいい。何故、結婚する?貴方は何のために、嫁がなければならなかった?」
 求めている答えは、言わせたい言葉はひとつなのであろう。茉世はそれを分かっていた。解答は彼との以前の会話にある。問いにするのも愚かなほど、彼は己の望みを明確にしていた。
「蘭さんとわたしのペースで決めることでしょう。蓮さんに口を出されることではありません」
「いいや、俺の口を出すことだ。家督は俺が引き継ぐ。兄じゃない。次の当主は俺だ。義姉さん、貴方は立場を知る必要がある」
 彼は上着を脱いだ。手から放され、落ちてたわむ瞬間に佳い匂いがふわと薫った。茉世はそれを見ていた。目を合わせぬように。
「俺たち次男以下の務めは、兄が子を遺せるように立ち回ることだ。兄の胤であるのならそれで構わない。義姉さん……つまり貴方を昂らせて、兄を誘惑させればいい。兄の胤でさえあれば、貴方に触れていいんだ、俺も、りんも禅もな。俺たちは、貴方を兄とその気にさせるためにいる」
 蓮は一気に距離を詰めた。夫もそこまで至近距離に来たことはなかった。鼻先の触れてしまいそうほど迫り、茉世は一度は畳んだが揉みくちゃにしていたバスタオルを胸にしっかと抱いた。おどしかと思った。だが違うらしい。彼の腕は、怯え戦慄く肩を押し倒してしまった。
「蓮さん……こういう冗談は嫌いです。信用を損ねます」
「冗談だと思っているのなら、それこそ冗談じゃない。貴方の務めはなんだ?まだ答えを聞いていなかったな」
 二の腕まで滑り下りてきた手が茉世をそこに封じるようだった。
「蓮さん……」
 ただならぬ雰囲気に、彼女は気圧けおされる。
「悪いようにはしない。ただ貴方には果たすべき責務がある。その手伝いをするのも、次男以下の同胞きょうだいの務めというわけだ」
 茉世は首を振った。しかし蓮は彼女の首筋に顔を埋める。夫婦でも限られた場面での接触であろう。
「大声を、出します……」
「貴方が大声を出して誰が来る?霖は学校だ。禅か?旦那か?」
「こんなのはおかしいです」
「少なくとも三途賽川ではそうじゃない。貴方が嫁として努力義務を果たさないから問題なんだ。旦那に抱かれろ。子を成せ。気が向かないのなら向かせてやるという話なんだが、この話はまた最初からしないとならないのか?二度も三度も言わせるな」
 今は冷えた部屋にいるとはいえ、日射病で倒れたならば汗も流れ落ちたところであろう。神経質げな次男坊は、だがそこへ舌を這わせた。茉世は力が抜け、身体が仰け反った。余計に首を晒すことになる。
「蓮さん……」
「今夜旦那と営め。約束すればやめてやる」
「それ、は………」
 部外者と約束することではないように思われる。
「約束しろ」
 大きな手が腰回りや腹の辺りを撫でていった。夫もそのような触り方はしない。
「しろ」
「やめ……て、ください……」
 寒いほど涼しい空気の中で変な汗が滲み出した。
「貴方の意見は聞いていないよ、義姉さん。旦那と営め。まずは触れ合うだけでいい」
「しません、しません………そんなことを言われている間は、絶対に………」
 茉世も茉世で強情だった。嘘でも合意の姿勢を見せればいいのである。しかし彼女はこの男を見縊っていた。義弟であり、素性の知れた相手であり、外には人がいるのである。まだこの家にも世間と違わぬ公序良俗、倫理、道徳というのがあることを信じていた。威であって、行使の宣言でないと思い込んでいた。ところが蓮は、彼女がどこか油断している隙をついて、服の中に手を入れてしまった。今まで氷水に突っ込んでいたのかと思うほど体温のない掌に茉世の身体が波打つ。
「触らないでください」
「いい心意気だ。貴方は旦那と契ればいい。俺は当て馬なのだから」
 肌を撫でられていくうちに心地良い温もりが生まれていく。茉世は戸惑った。洗濯用洗剤めいたほんのりと甘い花の香りが、いやに彼女を落ち着かせてしまう。相手はこわい義長弟だ。相応しくない相手に、人妻として相応しくない触れ方をされている。彼は医者ではないはずだ。触診とは違う。
「蘭さんを、呼びます!」
「呼べばいい」
「蘭さん!助けて!蘭さん……!」
 すると蓮の侵攻は加速した。シャツの裾を捲り上げられ、ブラジャーとキャミソールの一体化した無地の白い下着が露わになる。滑らかな質感で、特に汚れていたり、みすぼらしい様子はなかったが、彼は悪臭を嗅いだネコみたいな顔をした。
「色気がない。下着を買いに行くぞ。それじゃ、旦那もその気にならない」
「嫌です!下着くらい、自分の好きなものを、」
 よりいっそう威圧的な目を向けられて、彼女の語尾は消えてしまった。蓮は彼女の胸元を押さえ、逃げられないようにしてから身体と腕を伸ばして何か手に取った。
「暴れるなよ。怪我するぞ」
 そして視界に現れるのは刃物である。白刃がこれ見よがしに輝いて、真夏の昼間の陽射しよりも眩く見えた。氷柱みたいな指がストラップを浮かせて、手軽な金属は無情にもそれを噛み切ってしまった。鈍色の小さな怪魚は、反対も食ってしまった。
「いや!」
 彼女は止めようとしたのだ。止めようとするあまり、後先も考えず金属のワニに口輪を嵌めようとした。
「手を切る」
 蓮に躊躇いはない。手を放り投げられた直後、繊維の裁たれる音がした。茉世はやっと、この恐ろしい次男坊が本気であることを知った。だがそこには怒りも恨みも欲望も感じないのである。
 留具を失うと、胸を暴かれるのは早かった。無防備に、シロップ漬けの白桃みたいな肌理細かい大きな乳房が、夫ですらない男の前に曝け出される。
「見ないで……」
 咄嗟に胸を隠したが、義長弟はそれを赦しはしない。腕を掴んで力尽くで外させた。そして勃ち上がる先端を的確に摘まれてしまう。
「ああ!」
 突起を捉えた指と指の狭間がやたらと熱く感じられた。
「寒いのか?だからこんなに固くしている?」
 凝りをほぐすような手付きに、冷えた身体が温まっていく。律動を持ってつねるような軽い圧迫を加えられると下腹部にまろやかな静電気が起こるようだった。
「ぁ………あ、」
「こんなに硬くしていては、確かに下着が必要だな。けれど、義姉さん。旦那おとこを喜ばすには清楚で貞淑だけじゃダメだ」
 話は聞こえてはいたが、聴いてはいなかった。未知の痺れに思考を奪われ、腰が揺れてしまう。寂しさや悲しみに似た感情が湧き起こり、それはこの状況のせいということは否めなかったが、そのほとんどは物理的に起こっている事象のせいのようであった。
「ぁ………、んっ……ぁ、むね、さわ………」
 蓮を睨んでいた双眸は蕩けていた。閉じられない口腔の中にはさらさらとした水が今にも溢れそうであった。
「感度がいいな。自分で育てたのか」
 小刻みな指の動きが滑稽だった。けれど茉世はそれに気付かない。止めようとして白い腕に巻きついた指は、いつのまにか縋りついているらしき気配を帯びている。
「その声とその貌で旦那を誘惑しろ。最後の一滴まで搾り取って、俺に子供を抱上げさせてくれ」
「は………ぁん」
 上手い具合に指の動きが変わっていく。抓る動きから親指のみで捏ねる動きに変わっていく。茉世の腰がわずかに浮いた。そしてそこで、胸への刺激は潔く終了した。寂しさと悲しみと訳の分からない情動と、下腹部へ継続的に送られていた甘やかな電流がやむ。しかし彼女の臍の下ではまだ艶めいた痺れが滞留しているのである。
「下着のない生活をすれば、少しは色気が出るのか?」
 蓮は無抵抗に四肢を投げ出し、ぽけっとしている茉世のステテコパンツにも手を出した。男が多く履いているようなものが多少女性向けのデザインに変わっている。彼女の服装は機能性を重視したものばかりで、地味で簡素であった。生地や物自体は上質かもしれないが、素朴なあまり貧相に見えるのであった。異性に己の性的価値をアピールする気のない出立いでたちであった。見る者から見れば、健康的な色気はあるかもしれない。だが蘭のような外連味けれんみも分からぬ単純者にそれをするだけの情緒があっただろうか。
 蓮は彼女をシームレスショーツのみにしてしまった。ベージュと見紛う淡いピンク色にこれまた気付かないほどの白抜きの水玉模様である。彼は無表情にそれを見下ろした。そして眉のひとつも動かさずに縫目のない薄い布に手を入れた。
「や……め、」
 彼女の知覚は一、二拍遅かった。その腕を止める頃にはすでに触られている。
「ここは、自分で触るのか?」
 下着に手を入れられているというのは触覚のみならず、視覚でもショックなものだった。彼女は持ち上がってしまった布とその狭間を、硬直しながら見詰めていた。
 そこを触るとなると、見た目には節くれだって細かった指が太くしっかりしたものに感じられた。むしろ陋劣ろうれつなくらい野暮ったいほど太く感じた。それは秘裂を破り、襞の窪みへ進んでいく。
「あ………ああ………」
 粘膜と指の間にぬるついた液体があるらしいのが分かった。柔らかなところを傷付けられてしまうかもしれない不安と恐怖に身体も口もまともに働きはしない。
「痛いことはしない。ただ、旦那とすぐ子供を作れるようにするだけだ」
 親指が、ぬるついた箇所の上を押した。そこには厚みと張りのある肉が芽吹いていた。
「あッ!」
 蓮は器用だった。朱裂をぬちぬち抉り、潤んでいく窪みを探りながら、口と片手では胸を甚振るのだった。舌で胸の実粒を轢かれながら脚の間の雛尖を擂られると、全身が融けていく錯覚と、脳天を突き抜けていくような閃きが目蓋の裏で起こるのだった。
「あ、あ、ああ……!」
 冷たい顔と冷たい体表からは想像もつかない熱い舌だった。吸われている。反対の胸では軽くられている。下腹部から上ってくる鋭い感覚が、胸でぼかされて身体中に拡散されていく。
「なんか、ク、る………っあ………」
 茉世は絶頂の兆しを訴えた。途端に蓮は手も口も離してしまった。彼女は惜しげな声を漏らした。彼女の言の通り、何か来そうなものが踵を返してしまったようだ。そしてそれは下腹部に戻って渦巻き、胸の先端まで逃げて解放もされず行き場もない。無意識であったのだろう。茉世は義長弟にグラッセを彷彿とさせる、とろんとした眼を向けた。彼はきっ、と眉を吊り上げて目を逸らす。
「続きは旦那にねだってくれ」
 濡れた指をティッシュペーパーで拭く蓮を、彼女は未知の感覚からまだ抜け出せずに見詰め続けてしまう。性に対する知識はあるつもりだったが、彼女はその点に関して迂愚であった。下腹部で滞る電流みたいな違和感に身動きがとれず、また消し去り方も分からずにいた。
 蓮は一度は兄嫁から目を逸らした。だが名残惜しげにまた視線を戻す。
「早く起きて、旦那に助けを求めろ」
 だが彼女は動かなかった。その眼差しを義長弟に向けるのは適切ではなかった。ところが茉世にどうにかするほどの器量はない。
 やがて無愛想な冷嘲ばかりしていたこの次男坊の昏い双眸に燃えるような欲望がかぎろう。握った拳が震えている。しかし彼はまた、首を軋ませながら兄嫁を視界から外した。
「旦那のところに行け!」
 怒声が部屋にこだまする。茉世はびくりと跳ねた。眠気に似た、すっきりしない気怠るさを吹き飛ばす。
「それとも俺が呼んできてやろうか?」
 威ではない、本気なのだとばかりに彼は襖へ歩いていった。引手に指が掛かる。夫に見つかったらどうなるのだろう?六道月路ろくどうがつじに戻されるのだろうか。戻りたい。しかし戻ったところで……
 茉世は身を起こした。ここで暮らすのであれば夫に知られるのは愚策だ。蓮の前を通ったとき、彼女は嫌味に備えて身構えていたが、吐き捨てられたのは嫌味ではなかった。さらに恐ろしい要求であった。
「上の下着は置いていけ。必要ない」
「要ります……何を言って……」
「必要ない。二度も言わせるな。脱いでいけ」
 彼女は己の身体を抱いた。ストラップは切られたが、シャツから胸が透けるのを防ぐ働きはまだ残っている。着替えるまで機能するものだった。
「禅は引きこもりで、家事代行も頼まなければここには来ないんだ。義姉さんは、俺を除けば旦那にしか会わない。旦那相手に、何を恥ずかしがる?」
 襖の引手にあった指が落ちていった。彼の要求どおり部屋を出ようとした茉世を、そこから離れさせる。迫れば、彼女が後退るのは無理もない話だった。とはいえそう何歩も退がれはしない。やがて壁に背を打ちつける。
「脱げ」
「い、嫌です」
「脱ぐんだ」
 肩を突き飛ばされる。痛みはない。だが痛みの大小の問題ではなく、その行動に意味を読み取った。彼女は恐ろしくなった。徐々に乱暴になっていくのではあるまいか。段階を踏んだとて、この男は加減を知っているのだろうか。本当に命までとられかねない気がした。震える手でシャツの裾を掴んだ。眩しいくらいに真っ白なシャツからは、まだ六道月路の匂いがして、目頭が熱くなった。楓に会いたい。この状況を楓が知ったら、助け出してくれるのだろうか。いいや、見過ごすしかあるまい。三途賽川のほうが格上らしかった。
 シャツを脱ぎ、畳に落とす。壊れたカップ付きのキャミソールの裾にも手を掛けた。彼女は顔を上げた。蓮を睨んだのか、上目遣いに助けを乞うたのかは定かでない。
「いい子だ」
 薄情げな唇が柔らかく吊り上がった。声は急激に優しく、肩を撥ねた手は頭に置かれる。茉世は蘭と同い年であるから、弟の蓮はいくつか下ということになる。年上の兄嫁を、彼は子供みたいに扱ったのだ。屈辱だった。茉世は泣くまいと必死だった。そして氾濫の兆しがあった。この時間を早く終わらせるすべを知っていた。彼女は胸元を隠しながら、ストラップの切られたブラジャー付きのキャミソールを脱いだ。
「俺が処分する」
 茉世は落としたシャツを拾い上げて抱いた。膝が戦慄いている。今にもそこに崩れ落ちて、尻までついて座り込んでしまいそうだった。
「退いて」
 すり抜けるつもりが、恐ろしい暴漢の身体にぶつかった。彼女はシャツを着る間も惜しんで襖の奥に逃げた。この家で素肌を晒していることに焦燥する。シャツを被った。胸元には小さな突起が浮いていた。義長弟に散々、捏ね繰り回された……
 だが安心していられない。背後にある恐ろしさに身震いするのだった。はしたないと怒られそうなほど足音を立てて、与えられた部屋へ帰った。蓮の言では末弟の禅は引きこもりであるはずだったし、茉世も他の兄弟と比べていじけたようなあの男児の姿はあまり目にしなかったし、またよく知りもしなかった。だがその子供が彼女に与えられた部屋に通じる大部屋の前をほっつき歩いていた。これは不幸だ。だが不幸中の幸いとでもいうのか、相手は気付いていないようだった。
「何か用?」
 胸元を隠しながら訊ねる。その声は突き放すようだった。この兄弟に愛想を振り撒く価値があるとしたら、それは霖と次点で夫の蘭だ。蘭も、このよく知りもしない可愛げのない子供も憎たらしい。
 禅というのは引きこもりらしいが、小心者である。問いにも答えず、驚かされた子猫みたいに跳び上がる瞬発力とも鈍臭さとも判じられない反応を示した。そして懐かない野良猫みたいにかさかさ逃げていった。長兄みたいに尻尾があれば垂れ下がっていたことだろう。不審な末弟を不愉快げに見送って、彼女は蒸し暑い自室に戻った。着替えるより先にうずくまって静かに啜り泣いた。寂しさと屈辱と怒りに、音を殺して喘ぎ、咽ぶ。
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