リヴァイアトラウトの背の上で

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
32 / 38

32

しおりを挟む
 だんだんと怒りが湧いてきた。セルーティア氏は王子の蘇生など、したくないのではあるまいか。うんざりした。しかし探すほか、今は道がない。
 にゃん……
 アルスは立ち止まった。魅力的な声を聞いた。見つけて、その姿を眺めたい。あわよくば撫でたい。約束しては次から次へと厄介事を増やすセルーティア氏の捜索をやめ、その小動物と戯れていたい。
 欲求は膨らむが、しかし氏を見捨てるわけにもいかない。

 王都を発つ前に、アルスはシールルトくんに会った。彼は目を覚まし、経過は良好だという。負傷前後の記憶は曖昧なようだった。
「シールルトくん」
 まだ万全ではないシールルトくんに、障壁の礼は早い。何故自分が入院しているのか、分かっていないようだった。巨大なまさかりに斬り裂かれる。恐ろしい体験だっただろう。全治にはまだ時間がかかる。彼の心身が共に好くなるまで、まだ言わないでおくことにした。何故彼が入院しているのか。アルスも知らないふりをする。
「ちょっと遠くへ出掛けるんだ、オレ。セルーティア先生も。仲良くしてくれてありがとうね」
 上体を起こせないシールルトくんは、気難しそうな表情をアルスの立つほうへ傾ける。
「別に仲良くはしていない」
「ええ? そうだった? でもオレは仲良くしてもらったと思ってたんだけどなぁ。学園のこと、よく知らなかったし……また戻ってきたら、シールルトくんのところに来てもいい?」
「拒否はしない」
 アルスはシールルトくんが気拙きまず下に目を逸らしたのを見た。
「おめでたいな、君は。ぼくを一方的に友人だと思い込んで、わざわざ挨拶に来たのか」
 アルスは微苦笑した。詳しくは言えないことがある。
「実際、お世話になったんだよ」
「律儀なことだ。セルーティア助教授と一緒なんだろう? 余計なお世話ついでに言っておく。学園では上に逆らっちゃいけない」
 そのような台詞を前にも聞いた。そして言った本人も妙な顔をする。
「どうして?」
 しかし、知らないふりをした。それは血塗れの光景と共に焼き付けられている。
「学園の鉄則だ。あそこは論文で偉くなるんじゃない。権謀術数で偉くなるんだ。君は出世できなそうだから」
「うん。肝に銘じておくよ。出世、したいもんな」
 シールルトくんはアルスを見詰めていた。危険な眼差しに思えた。記憶を手繰り寄せようとしている。
「明日の朝、出ると思う。シールルトくんは休んでる時間だと思ったからさ。遅くにごめんよ。じゃあ、お大事に」
 部屋を出ていこうとした。
「セルくん」
 シールルトくんは天井を見上げていた。
「ありがとう。礼は言っておく。君の声に寄り添われた気がする。勘違いなら忘れてくれ」
 アルスは嫌になってしまった。シールルトくんから顔を背けた。眉頭がぶつかりそうになる。感謝される資格などなかった。王都に王子が要る大切なときに、己の身可愛さで怖気付いた。王城の上層部で極秘裏に片付けるべき話に、民を巻き込んでしまった。
「照れるよ、面と向かって言われると」
「感謝していることは、感謝すべきだ。怪我なく、な。そのときはもう、守ってやれない」

 セルーティア氏を探し出さねばならない。王子の魂だけが無事でもどうにもならないのだ。
 小枝を踏み締め、荒れ果てた一本道を進んでいく。跡からして、人の往来があったようだ。昨日今日というほど直近では無いが、以前、ここで焚火をした者がいるらしい。地面に焦げのある場所を見つける。炭も転がっていた。
 アルスは狒々緋熊というものを図画でしか見たことがなかった。人を食い殺す恐ろしい魔獣らしいが、王都には出ないものである。彼には危機感が足りなかった。
「セルーティア先生」
 叫ぶ。
 ぐぉぉぉ
 咆哮かと思えば、風野通り抜ける音であった。辺りを見回した。青い髪の毛の束が、渦を描くように落ちていた。セルーティア氏の毛髪ではあるまいか。認めるやいなや、松明の火が消えた。視界は一瞬にして暗くなる。そして静寂に包まれた。風に揺らぐ木々によって、町の喧騒は掻き消えていた。隔絶されてしまった。
 アルスは振り返った。もと来た道を辿れば、人気ひとけのある場所まで戻れるのだろう。しかし町に戻れても、その先にあの平穏で退屈な日々はないのである。進む以外、赦されていない。小枝と落葉の絨毯を踏み分けていく。視角が大して役に立たないことが想像を膨らませる。セルーティア氏はどうなったのか。生きているのか。この後の自分の生活は。王都に戻ったら、何をすればいいのか……
 にぁん……
 脚に柔らかなものが当たった。彼は呼吸を止めてしまった。だがそれがあの魅力的な鳴き声の持ち主だと分かると、その生物を拾いあげた。人懐こい。背筋を一撫でしただけで、抱きあげた毛尨けむくは重低音を響かせる。彼は目的を忘れて遊んでしまった。撫でられ飽きた毛尨に腕を蹴られて思い出す。柔らかな躯体を置いて、また一歩踏み出す。しかし着地するところで、足首にあの毛尨が纏わりつくのだった。蹌踉よろめく。体勢を立て直すことができず、彼は転んだ。咄嗟についた手から、地面が濡れていることに気付いた。雨だろうか。しかし今まで足元に泥濘ぬかるみは感じられなかった。雨の直後の湿気もない。おそるおそる掌を鼻の近くに添えた。生臭さと鉄錆びの匂いがした。彼は息を呑んだ。血だ。
 地に這う体勢のアルスに、彼を転ばせた生き物は身を擦り寄せて喉を震わせる。彼はこの小型の生き物に好き放題されていた。彼は暗い視界で頭を真っ白にしていた。凄まじい恐怖体験が甦ったのだ。偶然によって生き延びたに過ぎない体験が。今度はどうなるのだろう。また同じ目に遭ったときは……
 手が震えた。しかし立ちあがらなければならなかった。膝を払い、そして進む。敏くなった嗅覚が、緑の匂いのなかから獣臭さを探知した。低い息切れも聞こえる。それが小さな体躯から放たれるものとは思えなかった。おそらく大きな身体を持っている。たとえば図画で見た狒々緋羆だとか。
 獣臭さが濃くなった。肌に触れる空気の質感が変わった。それは明らかな変化ではなかった。けれど警戒を強く促すものだった。
 アルスは後ろへ跳んだ。吉とでるか、凶とでるか、少なくとも視認はできなかった。悪臭を帯びた風圧が頬を掠める。全身の毛が逆立った。地面が抉れたらしいのが、音と揺れで分かった。
 悪態のひとつも出てこなかった。逃げる選択があることも忘れた。思考停止。索敵しようと努めるが、呆然としていた。
「セルさん」
 半ば生存を諦めていた人物の声がした。近くにいる。けれど巨躯の凶獣が目の前にいる。返答することもできない。氏を探すのが先か、目先の脅威から逃れるべきか。平穏な暮らししか知らないアルスには判断ができなかった。
 また獣臭い風圧がやすりよろしく皮膚を逆撫でていく。脇からは、繁茂する草木を掻き分けてし折る音もあった。彼の判断と選択の能力を超えていた。
 気配が迫る。正体不明の生物に何かされるはずであった。ところが眼前に視界よりもいっそう暗い陰が影がり込んだ。
「セルさん、逃げてください」
 声は目と鼻の先から聞える。おそらくこちらに背を向けている。何故逃げるのか、その意図の伝わらない冷戦沈着な語気であった。
「先生を探しにきたんですよ」
 しかしアルスは子の緊急性を理解していた。どういう方法であるか確かめることはできないが、なんらかの手段でセルーティア氏は巨躯の生き物の動きを封じ、二者の間に割り込んでくるらしかった。
「しかしセルさんの身に何かあっては困ります」
「オレは先生の身に何かあっては困るんです!」
 ふと、話していた相手の気配が消えた。それをさとった直後、わずかに離れたところで、またもや草木の圧し折れていく音がした。それなりの重量がある落下物があったようだ。
 すべては感覚であった。反射と咄嗟であった。状況を把握することはできず、またそのような時間はなかった。アルスは足元に器物が転がったことを耳で認知していた。そして掴み、踏み込む。師匠の教えには沿っていなかった。対象を捕捉できていない自信のなさが姿勢に現れていた。それでいて一撃必殺しなければならない力加減で構えていた。硬く重いものを貫いているらしい。嫌悪が湧く。粘着性のある汁気を感じる。微かな光が見えた。やはり何か貫いている。光はその影越しに見えた。ただでさえ暗い視界がさらに色濃くなる。アルスは顔面に温かいものを受けた。非常に獣臭く、鉄錆び臭い。知るすべがないのは、幸いか。
 彼は手にしている器物を引き抜いた。べっとりと濡れている。厭な感触と質量と、抵抗がある。ごわついた硬いものは毛足の長い束子たわしを思わせる。
「セルーティア先生……」
 動物を刺し貫いたのだ。その手応えはあった。緊張感が薄らいでいく。それは恐ろしいことだった。彼は理性によって臨戦体勢を保っていなければならなかった。油断はするものではない。してしまうものなのだ。
「目が見えていらっしゃらないのですか」
 目は見えているはずである。だが光量が足らないのだ。
夜目よめが利かない体質タイプでして……」
「そうですか」
 返事とともに、アルスは多少の色味と輪郭を取り戻した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

おっさん商人、仲間を気ままに最強SSランクパーティーへ育てる

シンギョウ ガク
ファンタジー
※2019年7月下旬に第二巻発売しました。 ※12/11書籍化のため『Sランクパーティーから追放されたおっさん商人、真の仲間を気ままに最強SSランクハーレムパーティーへ育てる。』から『おっさん商人、仲間を気ままに最強SSランクパーティーへ育てる』に改題を実施しました。 ※第十一回アルファポリスファンタジー大賞において優秀賞を頂きました。 俺の名はグレイズ。 鳶色の眼と茶色い髪、ちょっとした無精ひげがワイルドさを醸し出す、四十路の(自称ワイルド系イケオジ)おっさん。 ジョブは商人だ。 そう、戦闘スキルを全く習得しない商人なんだ。おかげで戦えない俺はパーティーの雑用係。 だが、ステータスはMAX。これは呪いのせいだが、仲間には黙っていた。 そんな俺がメンバーと探索から戻ると、リーダーのムエルから『パーティー追放』を言い渡された。 理由は『巷で流行している』かららしい。 そんなこと言いつつ、次のメンバー候補が可愛い魔術士の子だって知ってるんだぜ。 まぁ、言い争っても仕方ないので、装備品全部返して、パーティーを脱退し、次の仲間を探して暇していた。 まぁ、ステータスMAXの力を以ってすれば、Sランク冒険者は余裕だが、あくまで俺は『商人』なんだ。前衛に立って戦うなんて野蛮なことはしたくない。 表向き戦力にならない『商人』の俺を受け入れてくれるメンバーを探していたが、火力重視の冒険者たちからは相手にされない。 そんな、ある日、冒険者ギルドでは流行している、『パーティー追放』の餌食になった問題児二人とひょんなことからパーティーを組むことになった。 一人は『武闘家』ファーマ。もう一人は『精霊術士』カーラ。ともになぜか上級職から始まっていて、成長できず仲間から追放された女冒険者だ。 俺はそんな追放された二人とともに冒険者パーティー『追放者《アウトキャスト》』を結成する。 その後、前のパーティーとのひと悶着があって、『魔術師』アウリースも参加することとなった。 本当は彼女らが成長し、他のパーティーに入れるまでの暫定パーティーのつもりだったが、俺の指導でメキメキと実力を伸ばしていき、いつの間にか『追放者《アウトキャスト》』が最強のハーレムパーティーと言われるSSランクを得るまでの話。

スキルが【アイテムボックス】だけってどうなのよ?

山ノ内虎之助
ファンタジー
高校生宮原幸也は転生者である。 2度目の人生を目立たぬよう生きてきた幸也だが、ある日クラスメイト15人と一緒に異世界に転移されてしまう。 異世界で与えられたスキルは【アイテムボックス】のみ。 唯一のスキルを創意工夫しながら異世界を生き抜いていく。

処理中です...