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回想エクスタシー②
しおりを挟む待ち合わせは平日の昼すぎ、新宿駅近くのカフェにした。僕は人を待たせるのが苦手なので、10分前には待ち合わせ場所に入る。
アグリさんを待つ間に、紀伊国屋書店で買ったばかりの文庫本を開いた。通りすがりに〈御木本早苗追悼フェア〉を見かけて、衝動買いをしたのだ。
先生の逝去はマスコミで大きく取り上げられたし、多くのファンが悲しみや喪失感にとらわれたと思う。
数日後には、他のニュースに押しやられたけれど、ファンは決して先生のことを忘れないだろう。新作は出ないけれど、数多くの著作は今後も読みつがれていくことになる。
「すいません、お待たせしました」
アグリさんは時間ぴったりに現れた。
少し痩せたようだけど、相変わらず精悍な顔をしている。窓際のテーブル席に向かい合って腰を下ろす。注文した飲み物が来る前に、僕はお悔やみの言葉を伝えた。
「御病気のことは知っていましたけど、あまりに突然で驚きました」
「先生は覚悟を決めていたようです。御自分の身体のことですから、前からわかっていたのだと思います」
自分の死後に親族がもめないように、遺産相続などについて明記した遺言書を残していたという。自分の死期を悟っていたのか、元々用意周到な方だったのか、僕なんかには到底真似のできないことだ。
「これは先生からシュウさんへと」アグリさんが茶封筒を差し出した。「どうぞ、お納めください」
封をしていなかったので、さりげなく中身を確認した。やはり、福沢諭吉先生だ。厚さから見て、百枚だろう。
「これはいただけません」茶封筒を押し戻した。「もらう理由がありません。代金はいただきましたし」
アグリさんの口元がゆるむ。
「何となく、そうおっしゃるような気がしていました。受け取ってもらえませんか。他の方々は受け取ってくれました」
「すいません」
「……そうですか。仕方ありませんね」茶封筒を再び差し出してきた。「では、これでシュウさんを買わせてください」
一瞬、耳を疑った。
「アグリさんが僕を買われる、ということですか?」
彼女は無言で頷いた。
思いがけない展開だ。僕はコーヒーを口に含み、気持ちを落ち着かせる。
アグリさんもレモンティに口をつけた。少し頬が赤らんでいるのが見てとれた。冗談や交渉術としてではなく、本気で言っているのだ。
でも、はい、そうですか、とはいかない。
「困りましたね。仕事上、事務所を通すのが決まりです。今ここで即答することは……」
言葉を選びながら、素早く頭を巡らせた。前言を撤回して、お金を受け取ることもできる。でも、それはアグリさんを拒絶したことになり、彼女を手ひどく傷つけてしまう。
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