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インディア~親蜜の香り~その一章 9

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 今夜を共に過ごせれば、こんな嘘はなかったことになるだろう。
 食事を終え、リンゼイはテーブルで会計を済ませた。おつりが戻るが、その一枚の十ルピーの札の一枚が汚れ、穴が開いている。これをチップとして寄越せ、と暗にいっているのだ。こんなホテルでもこういうことをする。それを渡しながら、こういう強制的なやり方はどうにも好きになれない、と彼は苦々しく思う。
「じゃあ、見に行こうか」
 と、まるでプラネタリウムに案内するような心持ちで、彼女をエスコートする。エレベーターで最上階まで行き、誰もいない廊下を見回してから彼はアーシャの手をそっと握った。彼女はどう考えているのか、窺うようにリンゼイを見上げる。その時にはもう部屋の前に着いていた。計算の内である、逃がすつもりなどない。
 部屋は鍵を差し入れて開くタイプの古風なドアだった。室内はクーラーが利いて涼しく快適そうだったが薄暗く、彼女は立ち止まって怖じ気付いてしまった。
「大丈夫、この方が良く見えるから点けないで……」
 リンゼイは彼女の肘を後ろから支え、中へ導く。アーシャはすぐに、ドアから真正面にある大窓に気付いた。入っても良いかと問うように男の顔を見て、頷かれると直ぐに窓へと向かう。
 白い石の床にはオフホワイトの絨毯が敷かれ、室内は白い壁に黒に近い木目で装飾されている。充分に広さが取られ、大窓に辿り着くまでには左の壁際にはピンク色の小花柄の刺繍カバーが掛かった四人掛けのテーブルセット、黒い樫の木のクローゼットがあり、窓近くには同じ柄のソファーとテーブルが備え付けてある。隣室は桃色の曇り硝子で覆われた一室が見え、どうやらバスルームになっているようだ。
 スィートルームの筈が、右の壁際にはピンク色のベッドカバーが掛かったキングサイズの寝台があった。やはり桃色のオーガンジー素材の天蓋が、ベッドに被さっている。
 実はリンゼイも、部屋を見るのは初めてだ。若くて美しくて、控え目な女性を呼ぶので相応しい、夜景の綺麗な部屋を頼む、と懇切丁寧に頼んでチップも弾んだのに――悪くないが、幾らなんでも少女趣味に過ぎる気がする。
 幸い、電気を点けていないのであからさまではない。
「綺麗な夜景だろう? 見せたかったんだ」
「はい」
 アーシャの瞳が夜景の美しさに奪われ、その手を窓に沿わせて子供の様に覗き込む。一面の暗闇の下方には、様々な色の小さな光が煌めいている。一本の螺旋を描いてゆっくりと光が流れていくのは大きな主要道路だろう。遠くに見える光の洪水は、空港に違いない。そして上空へと上がるにつれ、暗闇は透き通ったネイビーブルーとなり、本物の星が満天に散らばっている。
 背後で、小気味良いポンという音を聴いて、アーシャは我に返った。窓は、昏い鏡の様に部屋の装飾を映し出している。そこにいる二人の人間も同じように。彼女は外ではなく窓を見て、後ろから自分を見つめる男が近くに来ていることに、やっと気付いた。ここにアーシャを招いた男は夜景ではなく窓を、いやそこに映る彼女を見ているではないか。抱き締められるのか?
 おずおずと振り向くと、リンゼイが手を伸ばしてきて、アーシャの髪の生え際を指でなぞった。
「綺麗だ」
 しかしそれ以上は何もせず、片手に持った小さく細いワイングラスを一つ差し出した。アーシャが受け取ると、栓を抜いたシャンパンを注ぎ、自分の持っていたグラスも持ち替えて注ぐ。
「この夜に乾杯……」
「乾杯」
 グラス同士が音を立て、彼女がシャンパンに口をつける。それを見て男は嬉しそうに目尻を下げ、口角を上げる。
 リンゼイはいつも、酒が苦手なアーシャに配慮して、軽いジュースの様な白ワインや、果実酒を薄めた甘いカクテルを勧めてくれていた。そのことについて、不安になったことはない……あの時以来。
 一番初めにお酒を出すお店にエスコートされて行って、何とバーテンダーのお株を奪って彼自身がアーシャ用のカクテルを、手早く作ったことがあった。「薄いから飲んでごらん」と差し出された時、彼女はこの男を欠片も信用していなかった。彼の酒を、ほんの少し舌先を湿らせるつもりで口に含み、どれだけ舌の上で液体を転がしても、本当にピーチジュースの味しかしなかったことに意表をつかれたことが、思い出される。その後もただ一度として、リンゼイは彼女に嘘をついて強い酒を飲ませたことはない。
 今夜も同じではある、ドン・ペリ何とかというシャンパンは良く冷えていて、喉越しの良い味だった。満腹まではいかないアーシャの腹にも無理なく納まる。彼女が一杯を全部を飲み干す。と、アーシャの前で、フランス人形の碧い瞳がサファイアの如く輝いていた。生き生きとしていて、人形の眼ではない。
 そうとも、人形の眼の筈がない。
 辛うじて今は友人の振りをしているが、もうそんな必要はないだろう。彼女は男の部屋に来て酒を飲んだのだから、滞りないメイクラブを求めるアングロ・サクソンの紳士淑女にとっては、これはイエスといわれたも同じである。
「長時間のフライトだったから暑苦しくてね……」
 リンゼイは女から片時も目を逸らさず、詰襟を利き手で寛げる。前釦を開けるが、下の白いシャツまでは脱がなかった。怖がられては適わない。彼は手を伸ばしてアーシャの頬を撫で、囁く。
「だからシャワー、浴びてくるよ」
「私は……」
 どうしたら良いのか分からないようなアーシャに尚のこと愛おしさが込み上げる。手を取って接吻し、キングサイズの寝台まで招いた。
「待ってて」
 彼は曇り硝子を張った一室に歩いて行き、その中に消えた。アーシャはベッドに座り、静かにリンゼイを待とうとする。しかしどうにも居心地が悪く、座ったり立ったりを繰り返し、そして――彼女は突如として気付いた。
 リンゼイは自分を抱く気なのだ、と。
 馬鹿ではない。識っていたが、知りたくなかったから知らない振りをしていたのだ。
 しかし突然思い知らされて、彼女はホテルのドアに早足で向かう。付いて来てしまった自分の軽率さが悔やまれた。ドアに手を掛けて、アーシャは足を止める。
 此処を出たら、もう、このリッチで美しい異人には会えなくなる。
 出て行くことを、断るべきだろうか。
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