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インディア~親蜜の香り~その一章 8
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運転手が興味深そうな視線を注ぐ中、彼女は直ぐに行儀良い距離を保って座席に凭れたが、すっかり気を許したようだった。
もっと早く、こういうところに連れて来るべきだった。どうして気取ったりしたのだろう。リンゼイは嬉しさよりも差し込みのような痛みを胸に感じ、項垂れ、手を伸ばして彼女のそれを握った。家の近くにタクシーが到着するまで。
それが三回前の、四ヶ月前の話である。
それからリンゼイはアーシャの携帯に一日おきに電話した。
何処にいても、必ずニューデリーの時刻で夜の七時に当たるように。
流石に離陸時と着陸時に重なった時はずらさずにはおれないし、アーシャがフライト中は掛けても繋がらないのだが。そんな時は何日か連続で掛ければ繋がった。そうなると、落ち着いて話せる時に彼女がフライトの予定をやっと教えてくれて、擦れ違うことはなくなった。二度のデートのキャンセルを含む六十四回の電話で、彼女の趣味がペディキュアと、詩を読むこと、映画を見ることだと知った。
彼女も色々知ったはずである。リンゼイの趣味は数ヶ月前までヨットとビリヤードだったが、最近はいつでもアーシャという女のことばかり考えていると、分かってしまっただろう。電話はほとんどが三分以内の短い挨拶程度で、特に何か目新しいことを話したわけではないが、彼女は笑い声を立てて電話に応え、打ち解けた話をするようになっていた。
アーシャがリンゼイを恋人として意識していると伝えてきた電話は、彼がした十回目の七時の電話で、「お休み、良い夢を」といった直後だった。
「いつも……に電話して、を……怒らせないのですか?」
遠い異国の電話は、できる限り自宅やホテルの電話から掛けたかったが、今は自分の携帯から掛けている。今夜の電波は酷いものだった。リンゼイが大声で聞き返す。
「えっ? すまない、聞き取れなかったんだが、何だって?」
「いつも私とこんな電話をしてしまって、恋人を怒らせたりしませんか?」
「何をいって……恋人なんかいないよ!」
思わず大声になった。空港の詰め所から掛けていたため、何人もの関係者にじろじろ見られ、リンゼイは口を当て背を向ける。
「僕に恋人がいると思っていたのか?」
「はい、だって」
「馬鹿な! どうしてそんな」
「でも……いいえ、ごめんなさい、貴方はハンサムだからそう思ったんです」
リンゼイだって頭では分かっていた。
アーシャは身分を弁えている。美しく若いスチュワーデスは玉の輿に乗ることも可能ではあるが、パイロットと結婚する率は低い。看護婦が医者と結婚するようなものである。大抵はお互い軽い恋を楽しみ、パイロットは物分りの良い良家の子女と、スチュワーデスも自分の条件と照らし合わせた男と結婚するものだ。浮気相手には困らない。リンゼイもまた何度も、仕事にも欲望にも貪欲な現代の女性の御相伴に預かったのだから、身に覚えがあり過ぎる。
だから、アーシャがそう思うのは全く仕方がないことだ。遊ばれたくない、と思っていたのだろうか。それとも本当に英語に磨きを掛けたり、食事代を浮かせてくれる安全な足長おじさんとしてしか見ていなかったのだろうか。どちらにしろ、恋人がいる外国の礼儀正しい友人くらいだったのか。
だが、一夜置きに電話を寄越す男に不可思議感を掻き立てられ、聞かずにはいられなかったのだ。
そして、その時に彼も気付いた。
どうしてそんなことを聞いたのか、などと聞かなくても分かる。彼女自身も自覚しているようだった。今まで会っている時、一度として恋人の有無を気にしなかった礼儀正しいアーシャが、脈絡もなくこんなことを訊ねたのは、リンゼイを憎からず思うようになっているからだと――。
御友達扱いされていたという今までのことはさて置き、電話を切ったリンゼイは隠しきれぬ笑みを浮かべていた。電話は愛の証明に成り得るのだ。さっさと携帯番号を聞いて、こうしていれば良かった。世界を回るパイロットが定時に電話をしたり、番号を残すのは至難の業であろう。その度「今はドイツだよ、朝の五時らしい」とか、「自宅にいるんだ、今起きたんだ」などと話しかけながら電話するのは、結婚していたり、プライベートを恋人と過ごしたり、またただ弄んでやろうと思っていたりする男には絶対にできない。
一日おきに、自身が仕事中でも、仕事が終わった瞬間でも、就寝中の真夜中でも、相手の時差に合わせて電話を掛け続けるなど、無理だろう。しかもその都度礼儀正しく、しかし楽しませるように気を遣って喋らせるなど、彼女中心に世界が回っている男でなければ、不可能なのだ。
ずっと会っていなかったが、二人の関係は大きく動き出している。そんな気がしていた。だから、今夜は美味しくて大量の料理を出す大衆食堂にせず、自分がわざわざ宿泊した五つ星ホテルのレストランにした。
リンゼイは白いテーブルクロスの上で一際映えるコーヒー色の手を見て、さっと自分のそれを伸ばして上に重ねた。アーシャが目を上げて、また伏せる。その口許が微笑んで、今度はリンゼイの眼を見返してきた。
「こうして君と食事を共にできることを、僕はとても素敵なことだと思っているんだ」
彼は慎重でない自分の物いいに一瞬、躊躇する。
「その」
実はまだ、キスもしていない。リンゼイ自身、キスもしていないのに夢中になるなどということが、存在するとは思ってもいなかった。自分の深刻さに照れて笑い、いう。
「もし良かったら、僕の部屋に来ないか」
ずっと、人に化けた雄の孔雀を自分のものにして、一晩中眠らずに過ごしたかった。彼女の肉感的な蜜蜂の様な体形は、女好きな雄が化けるであろう女の理想の形をしているから、余計に婀娜っぽい。
が、そんなことを悟られるわけにはいかない。紳士に、節度を持って。彼は自分がヒンドゥーの風習には疎いと良く知っていたので、身を慎むように心掛けて、相手が切っ掛けを与えてくれるまでずっと待っていた。
俯く美しい横顔に、彼女が戸惑っているのが分かる。
ニューデリーがいかに都会化したとはいえ未だに封権的で、外人の男に誘いに載ることなど許されてはいない。が、これから行くのは密室で悪質な噂や、犯罪の露見を恐れる必要はない。
「でも、私」
「見て帰るだけでもいい、せっかくのスウィートルームだから」
見せるだけで、帰らせるつもりなどない。
アーシャにこんな口から出任せの偽りをいったのは、思い返しても初めてだった。大切に扱い、ずっと誠実に接してきたからだ。しかしいざとなると、こんなことをいってしまうのか。リンゼイは内心自分を羞じ、騎士からただの男に成り下がった気がして落胆したが、アーシャを誠実そうに見つめるのは止められなかった。
もっと早く、こういうところに連れて来るべきだった。どうして気取ったりしたのだろう。リンゼイは嬉しさよりも差し込みのような痛みを胸に感じ、項垂れ、手を伸ばして彼女のそれを握った。家の近くにタクシーが到着するまで。
それが三回前の、四ヶ月前の話である。
それからリンゼイはアーシャの携帯に一日おきに電話した。
何処にいても、必ずニューデリーの時刻で夜の七時に当たるように。
流石に離陸時と着陸時に重なった時はずらさずにはおれないし、アーシャがフライト中は掛けても繋がらないのだが。そんな時は何日か連続で掛ければ繋がった。そうなると、落ち着いて話せる時に彼女がフライトの予定をやっと教えてくれて、擦れ違うことはなくなった。二度のデートのキャンセルを含む六十四回の電話で、彼女の趣味がペディキュアと、詩を読むこと、映画を見ることだと知った。
彼女も色々知ったはずである。リンゼイの趣味は数ヶ月前までヨットとビリヤードだったが、最近はいつでもアーシャという女のことばかり考えていると、分かってしまっただろう。電話はほとんどが三分以内の短い挨拶程度で、特に何か目新しいことを話したわけではないが、彼女は笑い声を立てて電話に応え、打ち解けた話をするようになっていた。
アーシャがリンゼイを恋人として意識していると伝えてきた電話は、彼がした十回目の七時の電話で、「お休み、良い夢を」といった直後だった。
「いつも……に電話して、を……怒らせないのですか?」
遠い異国の電話は、できる限り自宅やホテルの電話から掛けたかったが、今は自分の携帯から掛けている。今夜の電波は酷いものだった。リンゼイが大声で聞き返す。
「えっ? すまない、聞き取れなかったんだが、何だって?」
「いつも私とこんな電話をしてしまって、恋人を怒らせたりしませんか?」
「何をいって……恋人なんかいないよ!」
思わず大声になった。空港の詰め所から掛けていたため、何人もの関係者にじろじろ見られ、リンゼイは口を当て背を向ける。
「僕に恋人がいると思っていたのか?」
「はい、だって」
「馬鹿な! どうしてそんな」
「でも……いいえ、ごめんなさい、貴方はハンサムだからそう思ったんです」
リンゼイだって頭では分かっていた。
アーシャは身分を弁えている。美しく若いスチュワーデスは玉の輿に乗ることも可能ではあるが、パイロットと結婚する率は低い。看護婦が医者と結婚するようなものである。大抵はお互い軽い恋を楽しみ、パイロットは物分りの良い良家の子女と、スチュワーデスも自分の条件と照らし合わせた男と結婚するものだ。浮気相手には困らない。リンゼイもまた何度も、仕事にも欲望にも貪欲な現代の女性の御相伴に預かったのだから、身に覚えがあり過ぎる。
だから、アーシャがそう思うのは全く仕方がないことだ。遊ばれたくない、と思っていたのだろうか。それとも本当に英語に磨きを掛けたり、食事代を浮かせてくれる安全な足長おじさんとしてしか見ていなかったのだろうか。どちらにしろ、恋人がいる外国の礼儀正しい友人くらいだったのか。
だが、一夜置きに電話を寄越す男に不可思議感を掻き立てられ、聞かずにはいられなかったのだ。
そして、その時に彼も気付いた。
どうしてそんなことを聞いたのか、などと聞かなくても分かる。彼女自身も自覚しているようだった。今まで会っている時、一度として恋人の有無を気にしなかった礼儀正しいアーシャが、脈絡もなくこんなことを訊ねたのは、リンゼイを憎からず思うようになっているからだと――。
御友達扱いされていたという今までのことはさて置き、電話を切ったリンゼイは隠しきれぬ笑みを浮かべていた。電話は愛の証明に成り得るのだ。さっさと携帯番号を聞いて、こうしていれば良かった。世界を回るパイロットが定時に電話をしたり、番号を残すのは至難の業であろう。その度「今はドイツだよ、朝の五時らしい」とか、「自宅にいるんだ、今起きたんだ」などと話しかけながら電話するのは、結婚していたり、プライベートを恋人と過ごしたり、またただ弄んでやろうと思っていたりする男には絶対にできない。
一日おきに、自身が仕事中でも、仕事が終わった瞬間でも、就寝中の真夜中でも、相手の時差に合わせて電話を掛け続けるなど、無理だろう。しかもその都度礼儀正しく、しかし楽しませるように気を遣って喋らせるなど、彼女中心に世界が回っている男でなければ、不可能なのだ。
ずっと会っていなかったが、二人の関係は大きく動き出している。そんな気がしていた。だから、今夜は美味しくて大量の料理を出す大衆食堂にせず、自分がわざわざ宿泊した五つ星ホテルのレストランにした。
リンゼイは白いテーブルクロスの上で一際映えるコーヒー色の手を見て、さっと自分のそれを伸ばして上に重ねた。アーシャが目を上げて、また伏せる。その口許が微笑んで、今度はリンゼイの眼を見返してきた。
「こうして君と食事を共にできることを、僕はとても素敵なことだと思っているんだ」
彼は慎重でない自分の物いいに一瞬、躊躇する。
「その」
実はまだ、キスもしていない。リンゼイ自身、キスもしていないのに夢中になるなどということが、存在するとは思ってもいなかった。自分の深刻さに照れて笑い、いう。
「もし良かったら、僕の部屋に来ないか」
ずっと、人に化けた雄の孔雀を自分のものにして、一晩中眠らずに過ごしたかった。彼女の肉感的な蜜蜂の様な体形は、女好きな雄が化けるであろう女の理想の形をしているから、余計に婀娜っぽい。
が、そんなことを悟られるわけにはいかない。紳士に、節度を持って。彼は自分がヒンドゥーの風習には疎いと良く知っていたので、身を慎むように心掛けて、相手が切っ掛けを与えてくれるまでずっと待っていた。
俯く美しい横顔に、彼女が戸惑っているのが分かる。
ニューデリーがいかに都会化したとはいえ未だに封権的で、外人の男に誘いに載ることなど許されてはいない。が、これから行くのは密室で悪質な噂や、犯罪の露見を恐れる必要はない。
「でも、私」
「見て帰るだけでもいい、せっかくのスウィートルームだから」
見せるだけで、帰らせるつもりなどない。
アーシャにこんな口から出任せの偽りをいったのは、思い返しても初めてだった。大切に扱い、ずっと誠実に接してきたからだ。しかしいざとなると、こんなことをいってしまうのか。リンゼイは内心自分を羞じ、騎士からただの男に成り下がった気がして落胆したが、アーシャを誠実そうに見つめるのは止められなかった。
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