君を待つひと

橘しづき

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6.ここに来るまで

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「いらっしゃいませ」

 少し経った頃、店内にそんな明るい声が響いていた。ワタルの声だった。

 今日も店は繁盛している。顔見知りになった客たちは親しげにワタルに声をかける。笑顔でそれに応えていた。

 あれから、まだ彼はそこに存在していた。何かを忘れるためにがむしゃらに働いている。休みもあまりとらず、ただ必死に人々のために勤めていた。

 事情を知った周りの人間たちも何も言わず、彼の働きぶりを見ている。まだ心が立ち直れていない段階なのだ、もう少し時間が経てば穏やかになるだろうか。

 仲間たちはそう温かな目で見守っていた。

「ワタルくん」

「あ、イノウエさん、いらっしゃいませ」

 ヒサヨの来客に、ワタルは笑顔で接客する。ヒサヨはあれ以降、ワタルが心配なのかしょっちゅう店に入り浸っていた。ナツミの話をしてしまったことに、罪悪感を覚えているのかもしれない。

 ワタルが笑顔で働いていることに、彼女はいつもホッとした顔を見せる。

「ああ、元気そうでよかった」

「元気ですよ。空いてる席、どうぞ」

 窓際の席は埋まっていたため、壁側の席を選び腰掛けた。メニューを差し出す。

「どうぞ」

「ありがとう。最近色々食べてて……どれも美味しいから困ってしまうわ」

「うちの料理は最高ですよ」

 そう自慢げに言うワタルに、何か言いかけるもすぐに口を閉じた。空元気だな、とヒサヨは思ったのだ。だがそれを指摘してもどうしようもない。

 今は普段通り接し続けるのが一番だ、と。

「ええとそうね、じゃあこのセットを」

「かしこまりました」

 ワタルは一旦裏に入りオーダーを通す。再びホールに出ようとした彼を、そばにいたケンゴが止めた。

「おい、ワタル」

「ん?」

「そろそろ休憩入ったら? ずーっと動いてるだろ」

 心配そうに言ってくる友人に、ワタルは力無い笑みを浮かべた。

「ありがと。でも、動いてる方が楽なんだ。一人だと色々かんがえちゃって」

「でも」

「じゃあ、ケンゴが休憩入る時に一緒に入るよ。話し相手になって」

 ケンゴは渋々頷いた。働いていた方が楽、という気持ちは十分に理解できるからだ。

 ワタルは一つだけ息を吐くと、ぼんやりと考えを巡らせた。

 まだここにいるんだな。もうそろそろ消えてしまいたい。

 待つ人が来れないことも分かったのに、存在し続けるのは辛いものがある。

 あの広場で誰かが再会を果たしているシーンが好きだ。でも今だけは、そんな姿すら素直に見れない自分がいる。

 自分が自分でなくなりそうだ。その前に、早くいなくなりたい。

 そう心の中で呟いていると、ホールで何やら騒がしい声が聞こえた。不思議に思い、顔を出してみる。どうやら入り口付近で、誰かが待ち人と再会したようだった。

 羨ましいな、と反射的に思った。これまでは自分のことのように嬉しく思っていた誰かの再会が、今は心の底から喜ぶことができない、そんな状況に陥っていた。

 そんな自分に辟易する。自分の心が自分のものではないような感覚。これほど悲しい人間だとは思わなかった。

 小さく首を振り、再度キッチンに戻ろうとする。だが、耳に入ってくる声にふと反応した。なんとなく入り口の方を見てみると、その姿に見覚えがあった。ヒサヨと、その夫だったのだ。

 ヒサヨは嬉しそうに夫の手を握っていた。夫は、ぱっと見妻と年齢もあまり変わらないように見える。半分白髪が混じり、目尻に皺をつくっている。

 あまり待ち時間も長くかからず、二人は会えたようだ。理想的とも言える。

 彼を見た時懐かしさで胸が満たされた。大切な人と会えたことは嬉しいが、同時に姉のことも思い出してしまう。複雑な思いで立ち尽くしていると、ワタルに気がついたようで、夫が驚いた顔をした。

「そこにいるのは……ワタルくん?」

 びくっと体が反応する。無理矢理笑顔を作った。そして平然を装いつつ、夫婦の近くへ歩み寄る。

「イノウエさん、お久しぶりです。ワタルです」

 イノウエはワタルを上から下まで眺めた。そして顔をくしゃくしゃに歪め、ワタルに向き直る。何度か頷き、なんとか声を絞り出す。


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