君を待つひと

橘しづき

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3.君はともだち

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「……でも、エンドウさんは悪いことはせずにここに来たんじゃないですか。僕はそれ、誇ることだと思いますよ。世の中には、道を踏み外す人だって大勢いる。真っ直ぐ歩いてきたことも、十分凄いんです」

 ワタルが言うと、エンドウは少し嬉しそうに微笑んだ。

 ワタルは話題を逸らすように尋ねた。

「エンドウさんがもし人生の出来事を一つだけやり直せるとしたら、いつですか」

「やり直したい時、ねえ」

 じっと一点を見つめたままエンドウが考える。頬杖をつきながらしばらく時間が経ち、少しだけ口角をあげて答えた。

「子供の頃だな」

「子供の頃、ですか」

 ワタルは意外に思った。てっきり、浮気されて女性不信になったのをやり直したり、会社選びをやり直したいというのかと思ったのだ。

 エンドウは言った。

「どんだけ昔なんだよって話だな。小学生の頃はさ、仕事もなくて、毎日何も考えなくてよくて、友達と遊び回ってた。もう一度戻りたいなあって思うよ」

「確かに、子供の頃は時間もあるし自由ですよね」

「それに」

 ふと、エンドウの表情が固まった。何かを思い出したように視線を泳がせる。一度ゆっくり息を吐き出して、苦笑した。

「俺なあ、一人親友がいてなあ」

「はい」

「同じクラスの男の子で、悪ガキの俺と違って大人しめの子だったけど。やけに気があってよく遊んでてなあ」

「いいですね」

「途中でその子、死んじまって」

 ワタルは隣を見た。エンドウは視線を落としている。

「俺らの時代人気だった給食のメニューといえば揚げパンなんだけど、兄ちゃんの時代もあったか?」

「ああ、揚げパンはありましたよ。美味しかったです」

「おお、まだあんだな。その友達が学校を休むと、そのパンを家に届けてやったんだよ。まあ揚げパンだけじゃないけど、いろんなパンとか、余った冷凍みかんとか、友達は凄く喜んでくれてなあ」

「いい思い出ですね」

「多分、そのパン以外に飯を食えてなかったんだ」

 ワタルは目を丸くした。

 エンドウは真っ直ぐ前を向いたまま、少しだけ唇を震わせている。

「俺は知ってたんだけどなあ……あの子の体があざだらけなの。でも、大人に言ってやれなくて」

「……それ、って」

「自分も成長してから気づいたんだよ。
 あの子は虐待されて死んだんだなあって」

 エンドウは泣きそうになるのを誤魔化すように、酒を煽った。

 彼の話はこうだ。

 学校を休みがちの友達にパンを届けにいくと、たいそう喜んだ。ただ、友達は細く痩せて背中にはたくさん傷があった。

 不思議に思っていたが特に何ができるわけでもなかった。

 そんなある日、その子の家の前には救急車とパトカーが停まっていて、学校で死を教えられた、という。

 ワタルは息を飲んでその話を聞いていた。もう甘いドリンクなんて喉を通らなかった。

 口には出さなかったが、エンドウが自分を責めている様子がヒシヒシと伝わってきたからだ。あの頃自分が他の大人に相談していれば、友達は助かったのかもしれない。そんな後悔が、彼の心奥底に眠っているのだと。

 脳裏にその光景が浮かんだ。まだ幼いエンドウが、袋に入った給食のパンを片手に友人の家に行く。そのパンだけが命の源だった友達は、ひどく喜ぶ。

 多分、親の目を盗んで、エンドウからのパンを食べていた。

 想像するだけで胸が痛む。エンドウのことも、その友達のことも。力無い子供を苦しめる大人に嫌悪感しか抱かなかった。

 いつの時代も、子供を所有物のように扱う人間はいる。なぜあんなところに命を宿したのだと、神すら恨んでしまいたくなる。

 エンドウは目を赤くしていた。多分アルコールのせいなどではなかった。それを誤魔化すように笑う。

「っていうこともあったなあ。だいぶ昔のことよ」

「きっとその友達は、エンドウさんにとっても感謝していたでしょうね」

「んなわきゃない。飯ももらえず暴力受けてたのを助けてくれない、頭空っぽの友達なんて」

「いいえ。きっと……あなたの存在だけが、彼の心の拠り所だったと思います」

 ワタルはキッパリ断言した。エンドウがこちらをみる。どこか複雑そうに顔を歪めて笑った。そして、大きく天井を仰いでみせる。

「そうだといいけどなあ。もう一度あのころに戻って、全部忘れて友達と遊び回りたいよ。何も考えずに笑い転げて、汗だくになって走り回ってさ。今なら助けられるのになあ。
 戻ってあの子を助けたいな。もしかしたら、こんな年になるまで酒を飲みに行ける相手だったかもしれねえし。無知っていうのは、無力っていうのは怖いことだよ」

 切ない響きだった。彼の人生は色々あったようだが、おそらく癒せない最も悲しい出来事はこれだと思った。

 子供の頃受けた傷というのは、完全には治らないものなのだ。

「エンドウさん、やっぱりここに来るべくしてきた人ですよ。いい人だ」

「お、兄ちゃん嬉しいこというねえ」

「エンドウさんが上司だったら、僕は嬉しいです」

「なんだこのやろ、今嬉しいから消えちまうかもなあ!」

 豪快にエンドウが笑う。ワタルも釣られて笑いながら言った。

「そのお友達にも、エンドウさんの優しさが伝わっていますよきっと」

「はは、だといいな。シンタロウ、次は優しい両親のとこに生まれるといいな」

 そうエンドウが言った瞬間、ワタルの首は勢いよく横を向いた。その驚き方に、エンドウも目を丸くしてワタルを見た。

 なんだ、なんて言った??

 驚きでワタルの脳内が停止する。

「え? どした」

「……シンタロウ?」

「あ、その友達の名前な」

 途端、ワタルは立ち上がった。恐ろしいほど顔をこわばらせている。全てが一本の糸で結ばれ、ワタルは興奮していた。エンドウはぽかんとしていたが、そんな彼の腕を掴んでワタルは言った。

「シンタロウくんを知ってます! あなたを待ってます!」

 エンドウはただただ、目を丸くした。


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