君を待つひと

橘しづき

文字の大きさ
上 下
22 / 45
3.君はともだち

4

しおりを挟む




 ある日、ワタルは時間が出来たので一人街を遊び回っていた。ケンゴも休みが一緒ならどこかへ二人で行ったのになあ、なんて思いながらあてもなくブラブラと歩き回っている。

 さてこれからどうしようか。そう悩んでいるとき、背後から声が掛かったのだ。

「おーい兄ちゃん!」

 ギョッとして振り返る。かなり大きな声だったからだ。いたのはエンドウだった。彼はアルコールのせいか、赤ら顔でワタルに駆け寄ってくる。

「あ、エンドウさん!」

「おーおー、休みかい?」

「はい、ちょっとぶらぶらしてただけで」

「そうなんか! 一緒に酒でも飲まねえか? 一向に消える気配もないもんでよ、一人では飲み飽きてて。
ちょっとでいいから付き合ってくれ」

 顔の前で手を合わせられ困る。一緒にお酒を飲むという誘いを、こんなに懇願する人初めて見た。ワタルは酒が好きではなかったが、いつも断っていた罪悪感もあり、仕方なく頷いてしまった。

「じゃあ、少しだけ」

「おお、じゃあさーあんたの働いてるところじゃ気まずいかもしれんし、あそこの店に入ろう」

 嬉しそうにエンドウが指した先には、小さなバーがあった。ワタルは入ったことがない場所だ。背中を押されながらそこへ向かわされる。

 ガラス製の扉を開けると、薄暗い店内が見えた。カウンターのみの小さな店だ。客は他に誰もいなかった。店員と思しき三十代ぐらいの男性が微笑んだ。

「いらっしゃいませ」

「座れ座れ。えー俺は何でもいいからおすすめを作ってくれ。兄ちゃんもそれでいいか?」

「あ! 僕アルコールは……すみませんが、ノンアルコールで」

「かしこまりました」

 初めて来る場所にキョロキョロしてしまう。働くレストランとはだいぶ違う場所だ。でも、大人はこういうところの方がいいのかもな。エンドウさんみたいに、待ち人もいないという人なら特に。

 少ししてドリンクが運ばれた。エンドウには淡いブルーの、ワタルは桃色をした美しい飲み物だった。少し飲んでみると、あっさりとした果実の酸味を感じて唸る。うちのレストランにはないものだなあ。

 エンドウはやけに嬉しそうに笑顔でいた。

「誰かと飲むなんてどれくらいかなあ。ここに来る前もよ、仕事上はあってもプライベートは全く無かったわ。寂しい人生だったねえ」

「ええと、お仕事を頑張られていたんですね」

「働かなきゃ生きていけないからな。それだけだよ。やりがいもない。上司には叱られ部下には疎まれた。まあ、俺が不器用だったんだよ」

 その発言をきいて、ワタルは何となく想像がつくな、と思った。エンドウさんは昔ながらのおじさん、という感じがする。若者は打ち解けるのが難しいかもしれない、と。

 悪い人じゃない、だが、不器用なんだ。

 エンドウは大きくため息をついた。

「前もあんたには言っちゃったけど、つまらん人生でな。善人でもなかったし悪人でもなかった。仕事に追われていただけの人生。これが結婚して子供でもいればよかったのになあ、女にはモテなかったし。生きがいの趣味や友達でもいればよかったけど、そんなものも見つからなくて」

 恥ずかしそうに言うエンドウの横顔は、どこか寂しそうに見えた。

「ある日ポックリいっちまって。健康診断でも引っかかってたし、体もガタが来てたのかな。情けない」

 そう言って彼は酒を飲んだ。ワタルも一口飲む。どう返答すればいいのかわからないデリケートな話題で、少し困ってしまった。

 だがエンドウはどんどん自分の半生の話を始める。誰かに聞いてほしいのだろう。

「俺は結婚したかったのよ、子供だって欲しかったし。んで、モテないけど一度結婚の約束までした女ができたわけ!」

「そうなんですか」

「はは、料理上手な明るい子でよ。それがさー結婚に向けて進んでいこう、って時に俺の友達と浮気してよ」

「え!」

「いやあ、あれは引きずったねえ。だってそんな恐ろしいことする子に見えなかったんだもん。それ以来、女が恐ろしくてね。初めに好きになった女を間違えた。友達も同時になくしちゃったんだが、その後は二人結婚して幸せに暮らしてるみたいだ」

「そ、それは……災難でしたね」

 ワタルは顔を歪めて答えた。自身もあまり恋愛経験が多い方ではないが、そんな体験をしたら立ち直れない自信はある。結婚できなかった、っていうのも、その過去のせいもありそうだ。

「おお災難よ。
 んで仕事はさーまあ俺なりに頑張ってやってきて、年も重ねりゃ少しは昇進するだろ? 部下もできてさ。ある日、部下がえらい大変なミスやっちゃって、でもここは俺の出番とばかりに庇ってやったのよ。
 しかし後になって、『説教が偉そうだった』って陰口を叩かれるわ、上司にも叱られるわ、もう散々」

 エンドウは酒を飲み干した。すぐにバーテンダーが新しいものを作って差し出す。ワタルは不憫に思った。

「それもまた……辛いですね」

「会社選びも失敗したなあ。ブラックだったしな」

 そんな悲しいことを言いながらエンドウは笑う。笑うしかなかったのかもしれない。新しく来た酒を少し口に含むと、ふうと息を吐いた。

 その後も、彼の悲しい半生の話は続いた。満員電車では何もしてないのに女子高生に睨まれたりする。置引きにあったり、住んでるアパートの隣の部屋が火事になったり。彼の口から出てくるエピソードは、ワタルが経験したことのない話ばかりだった。

 彼がクソみたいな人生、と呼んだことに、どこか納得してしまう自分がいた。せめてその後、好きな女性が出来ていたら。打ち込める趣味と出会っていたら。遅くまで飲んで語れる友人ができていたら、何かが違ったのかもしれない。

 一通り話し終えたエンドウは、喉の渇きを潤すように一気に酒を飲んだ。そして、ぼんやりとどこか遠くを眺める。低い声で、ポツリと言った。

「ここはいい場所だよ。綺麗だし、穏やかで、いい人ばっかりだ。嬉しそうな人間が大勢いる。だがそれと同時に、自分があまりに虚しくなる。
 俺は待ちたい人間も、待ってくれる人間もいない。俺の人生は一体なんだったんだろう、ってね。早く消えていなくなりたいとすら思う」

 悲壮感のある声だった。ワタルは返事を返さなかった。

 エンドウのような人は意外と多いのかも知れない、と思った。人生は一度きりで、時間も限られている。誰しもが大切な人や生きがいを見つけられるわけではない。ただそれでも、人が人生を生き抜くということは尊いことだとワタルは思う。


しおりを挟む

処理中です...