完璧からはほど遠い

橘しづき

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泣いたもん勝ち

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 成瀬さんと家具を買いに行く約束を交わした後、私はなんだかそわそわしていた。

 やっぱり成瀬さんと二人で出かけるという事実は、私にとっては非現実的なことで、受け入れるのに時間がかかっているのだ。

 別にデートってわけじゃない。そんなこと分かってるし、特別な意味がないことも理解している。

 それでも、心の奥底から突き出てくるわくわく感は、どんどん大きくなるばかりだ。




 高橋さんから意味深なメッセージが入っていた翌日、私は非常に落ち着いて仕事をしていた。

 短い返事は返しておいた。だが結局、どんな話をいつしたいのかは聞いていない。まあ周りに聞かれていい話ではないだろう、多分帰り際だろうか。いいタイミングであちらが話しかけてくるかな。そう思い淡々と仕事に勤しんでいた。

 もっと自分でも戸惑うかと思っていたが、それより成瀬さんと交わした約束についての方が一大事だったからだ。自分の家のサイズも測り、どんな物がいいかネットで下調べをして夜が過ぎている。今日も帰ったらネット巡りをする予定だった。

 なんとなく。なんとなくだが……高橋さんが言ってくることは想像がつく。

 大和の話によると二人は別れたらしい。それは私にとってどうでもいいことだが、高橋さんは直接報告しようとしてくれているんじゃないだろうか。もしかしたら、今更ながら寝取ることになってしまったことの謝罪があるかもしれない。その時は怒りに任せて怒鳴ったりせず、冷静に対応しようと固く誓っていた。

 昼休憩も終わりごろ、飲み物が欲しくて一人自動販売機に向かった。何にしようか迷い、温かいコーヒーにしようと決めたときだ。

「佐伯さん」

 甘ったるい声が背後から聞こえた。

 振り返ってみるとやはり、高橋さんが立っていた。彼女はどこかもじもじしているような態度で少し離れた場所にいる。私はとりあえずコーヒーは諦め、普段と変わらない声色で答えた。

「あ、高橋さん。昨日ラインもらった件? 私もうすぐ戻らなきゃだし、帰りにでも」

 言いかけたとき、彼女はつかつかと私に歩み寄った。そして控えめの声で言ったのだ。

「富田さんから……聞きましたか?」

 富田さん、というのは大和の名字である。ああ、と私は頷いた。

「あー聞いた、かな? まあ、もう私には関係ないし、別に何も」

「もうこれで、佐伯さん怒ってないですか!?」

 突然大きな声で言ったのでぎょっとした。反射的に周りを視線で見る。人通りの多い廊下がすぐそばにあり、時間的にも多くの人が歩いていたのだ。そんな中で、何を急に言い出したのか。

 私は慌てて言った。

「え? ちょっと待って、何?」

「もう怒ってないかなあ、って。私それだけが心配で……」

 眉を下げて言ってくる彼女に頭が真っ白になった。言っている意味が分からない。

 私は今まで、決して高橋さんに怒りをぶつけたことはない。指導係として仕事はちゃんと教えていたし、大和のことを責めたこともない。だって、それが一番いい方法なんだって自分に言い聞かせてきたんだから。

 なのになぜ私が高橋さんに怒ってることになってるの? そりゃ、あんな匂わせされればイラっとはしたけど。それが顔に出てたってこと?

「待ってくれる? 私別に高橋さんに怒ったことなんて」

「だっていつも厳しいし……ほかの人に質問してると怒るし……」

(それあなたの仕事の出来があまりに悪いから! 他の男社員に仕事任せちゃって成長できてないから!!)

 なんてことは言えず、マイルドに心がける。

「それは指導係として指導しただけだよ。ほかの人に仕事をお願いするのも、高橋さんのためにならないか」

「佐伯さん怒ってるんだなあ、って感じてたんです。だから私、ちゃんと返しました」

「え?」

 すっと高橋さんが視線を上げる。どこか勝ち誇ったような顔で、小声で言ったのだ。



「富田さん。ちゃんと返したから、もう怒らないでくださいね?」



 今までずっとギリギリを保っていた何かが、ぷつんと音を立てて切れた気がした。


 頭が真っ白になる。目の前には、口角を上げてこちらを見ている高橋さんがいた。

 冷静になれ、と一人の自分が言う。だがもう止められないところにまで来ていた。


「何それ……? 私がいつそんなことしろって言った?」

 震える声で怒りの声が漏れる。途端、高橋さんはびくっと怯えたように体を小さくさせた。

「そんな物みたいによく言えるね? せっかくちゃんと前を向こう、って思って必死に毎日過ごしてる私に、なんでそんなこと言うの! 返してなんて頼んだ覚えない!!」

 自分の声が壁に反射する。息が乱れるほど大きな声を出してしまったことを、瞬時に後悔した。あれだけ毎日頑張ってきた自分のすべてが、これで音を立てて崩れてしまった気がした。

 目の前の高橋さんは、一気に目に涙を浮かべた。ハッとしたときには、彼女はぽろぽろと涙を零して泣き出したのだ。

「そんな……私頑張ってるのに……佐伯さん、怒るなんて思わなかった……」

 嗚咽を漏らして泣く彼女の後ろに、運悪く男子社員たちが通りがかった。そして、泣いている高橋さんを見つけるや否や、慌てた様子でこちらに集まってくる。私は数歩、後ろに下がった。

 がやがやと集まった人たちは、なんだなんだと高橋さんを囲む。泣いている彼女、怒鳴ってた私。誰がどう見ても、悪者がどちらかなんて明らかだった。

「どうしたの!?」

「大丈夫?」

「佐伯さんを……怒らせちゃ……っ」

「なんかミスしちゃったのかな? 佐伯さん、そんな泣かせるほど厳しくしなくても」

 哀れんだ目でみんなが高橋さんを見ていた。真実を言ってやりたい衝動に駆られる。なぜ私が責められる? 必死に毎日頑張ってきたのに、急に大和を返した、なんてことを言ってきたのはあっちじゃないか。

 ただ言ってしまえば、私は『指導している後輩に彼氏を寝取られた』という噂がずっと付いて回る。ダメージはこちらも受けるのだ。いやでも、こんなふうに悪者になるぐらいなら、いっそ全部言ってやった方がいいかもしれない、しかしこの状況、私が何を言っても周りは高橋さんの言葉を信じてしまうのでは……

「佐伯さんは悪くないです、私がダメな子だから……怒らせたんです……ごめんなさいっ……」

 泣きながらそういう相手に、眩暈を覚えた。佐伯さんのせいです! と叫んでくれた方がどれほどマシか。予想通り、周りの男たちはなお高橋さんに同情を寄せた。

「大丈夫?」

「高橋さん頑張ってるんでしょ、泣かなくてもいいよ」

 そう言いながら、私に集まるのは責めるような視線。いくつもの目に攻撃され、言葉を失くす。戸惑いから声すら出ない。

 何か説明しないと、このままじゃ私だけが悪く思われる。ああでも、この中で私の声を聞いてくれる人なんて――
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