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第二章/出席番号三十四番・本宮千波

(二)

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 意外にも、あいつは話しかけてこなかった。なんとなく視線は感じるけど、目が合わない。肩透かしを食らった気分だ。……いやだから、なんであたしがあいつを気にしなきゃなんないのよ。このツッコミ、朝から数えてすでに三回目だ。

「ねぇ、いずみはどうして彼氏が他の女と会ってても冷静でいられるの?」

 昼休み、あたしといずみはいつも屋上に続く階段に座ってごはんを食べる。お尻が痛いけど、あたしたちの会話は誰にも聞かれてはいけないものだから仕方ない。

「彼の本音を知っているから」
「K氏、まだ別れないの?」
「彼女さんが面倒な人だから」

 ふふ、と笑ったいずみは、自分で作っているらしい彩りの綺麗なお弁当を膝に乗せて、床に置いたスマホを器用に操作する。
 画面には【@ゆんゆん】のツイッターが開かれている。K氏――うちのクラスの担任の、彼女のアカウントだ。
 いずみはゆんゆんのあらゆるSNSを把握している。ちなみにゆんゆんのアカウントは鍵付きだ。けどいずみは当然のように見ている。どうやったのかはわからないけど、聞いたところであたしには真似できないだろうから聞かない。

「拓斗さん、浮気でもしたの?」

 拓斗さん、はたくちゃんのことだ。友達の彼氏をさん付けで呼ぶ、いずみのそういうところが好きだ。

「ううん。ただ大学生って夏休み長いじゃん? サークルの夏合宿もあるみたいだし、酔った女がたくちゃんに言い寄ってきたりしたら嫌だなぁって」
「大学生ってそういう生き物だから、気にしたら負けだよ」

 いずみはつくづく大人だ。K氏の三倍、いや五倍はいい男と付き合えると思う。けどいずみ本人が選んだ人だから文句は言わないし、いずみがK氏となるべく接点を持てるように、あたしは全力でフォローを入れている。
 学級委員なんて本当はやりたくないけど、あいつ――中辻トーマが空気を読まずにいずみを指名しようとしたから、仕方なくあたしが引き受けた。いずみは最初から体育委員しか考えていなかったはずだ。

「つーかあいつさ、昨日はあんなこと言ってきたくせに、話しかけてこないとかまじチキンじゃない?」
「中辻君、悪い人じゃないと思うよ」

 いずみは決して、いい人とは言わない。きっといずみのひと言には絶大な力があることを知っているからだろう。
 中辻トーマが悪い奴じゃないことはわかっている。なんならすごいが付くくらいいい奴だってこともわかっている。友達の数はいい奴かどうかのバロメーターだ。

「放課後、声かけてくると思うよ」

 いずみはふふ、と笑ってゆんゆんのフェイスブックを見始めた。このときは、いやいやないでしょ、と思ったけど、結局のところいずみはエスパーなのだ。

「本宮さんと神林さん、俺今日から部活休みなんだけど、一緒に勉強していかない?」
「私はいいよ。チナは?」

 言った通りでしょう? いずみの笑みが語っている。いずみがすごいのか、中辻トーマが単純なのか。ここまでくるとどっちもだろう。

「行かない」
「図書室は静かだし意外と空いてるから、勉強もはかどるよ」

 だから行かないっていってるでしょ。あえて言葉に出さずに睨みつけてやると、中辻トーマは芯の通った声で言った。

「放っておかないって言っただろ」

 う、わ、なに。隣にいずみがいるのによくそんな恥ずかしいこと言えるな。いずみに助けて、と目線を送ると、ほほ笑みを返される。

「神林さん、これ強引にいっていいところ?」
「いいと思う」

 いずみのばかぁ! 心の叫びも虚しく、中辻トーマはあたしの鞄をひょいと持ち上げた。いずみはその隣を歩く。この二人、実は裏で結託しているのだろうか。
 鞄といずみを人質に取られてしまった以上、行かないわけにもいかない。仕方ない、と心の中で呟いて二人のあとを追う。

【学校終わったから、いずみと勉強して帰る☆ たくちゃんバイト頑張ってね】

 嘘はついてない、大丈夫。
 送信ボタンを押して、スマホをポケットにしまった。




 たくちゃんと付き合い始めたのは、去年のクリスマスだ。 
 中学のときの先輩に呼ばれてクリスマスパーティーに行ったら、そこにたくちゃんがいた。こいつ大学のダチなんだよね、と紹介されたたくちゃんは、七畳の部屋の隅でタバコをふかしながら「っす」とだけ言った。
 軟骨のピアスって痛くないんですか? たまたま隣になってしまったので、なにか話さなきゃという使命感から選んだ質問だった。たくちゃんはさっきまでタバコを持っていた指で、あたしの耳のてっぺんをちょん、と摘んだ。

「チナもピアス空ければ?」

 たくちゃんは先輩にならって、あたしのことをチナと呼んだ。本宮さん、千波ちゃん、そういう過程を飛ばしていきなりチナ。
 触られている耳が熱くなって俯いたら、耳元でチナ、と囁かれた。うわ、この人女慣れしてる。高校生相手には絶対に出てこない感想は、嫌なはずなのにあたしをまんまとときめかせた。
 大人の恋は早かった。帰り道に連絡先を交換して、メッセージのやり取りをして、今度デートしようと言われた。デートって付き合ってる人たちがするものなんじゃないですか、って言ったら、じゃあ付き合おうって言われた。
 相手の出方を見ながらウジウジ悩む時間が恋だと思っていたから、早!と内心つっこみつつ、その男らしい決断力にまたまんまとときめいた。

 そのころ、あたしは学校に辟易していた。せっかく華々しい高校生活の幕開けだというのに、運悪く、アイドルやアニメ好きの女子が多いクラスに当たってしまったのだ。
 始めは会話についていけるように、グッズを買ったり、イベントに行ったりした。けれど頑張るほどに、あたしは本当に好きなものにしか打ち込めない性格だということがわかってしまった。
 会話についていけなくなったあたしは、結局自ら一人になった。ハブにされているわけじゃないけど、気の置けない友達ができる予感は少しもなかった。
 だから余計なことは喋らず、俺について来いと背中で語るたくちゃんは、なんてカッコよくて大人な人なんだろうと思った。

 それに比べて――本当に子供だよなぁ。
 夏休みに入って数日、自由参加の補習が終わって三階の渡り廊下を歩いていたら、外の水道ではしゃぐ中辻トーマを見かけた。短い髪と体操着をビショビショに濡らして、サッカー部らしき仲間たちと水のかけ合いをしている。うおっ、とか、うひゃひゃ、とか、笑い方までとことんガキ臭い。

「中辻君、いい体してるね」

 いずみがそんなことを言うから、うっかり前のめりになってしまった。中辻トーマは体操着を脱いで上半身裸になり、髪をワシャワシャと掻き乱している。
 確かに腹筋はうっすら割れているような。たくちゃんの凹凸のないお腹を思い出す。いやいや、そりゃあ毎日サッカーしてる奴と大学生じゃ運動量が違いすぎるもん。こればっかりは仕方ない。
 せんぱぁい、もーなにやってるんですかぁ! 甘ったるく語尾を伸ばしながら駆け寄ってきたのは、マネージャーだろうか。中辻トーマはタオルを受け取ると、サンキューと笑う。
 なに、あたしのこと好きだとかなんだとか言ってたくせに、ちゃっかり後輩といちゃいちゃしてるじゃん。ウザ、キモ。そんなふうに思っていたら、中辻トーマがこっちを見上げた。

「本宮さん! と、神林さん!」

 手をブンブンと振ってくる。いずみは皇后様ばりに優雅に手を振り返した。周りの男子が、お前神林さんとも仲良いのかよ、と中辻トーマを蹴り飛ばす。けれどマネージャーはあたしをまっすぐ睨んでいた。女の本能なのかな、まじ勘弁して。

「二人は明日も補習くるー?」

 そして中辻トーマ、空気を読め。このニブチン!

「行くよー。もちろんチナも一緒に」

 いずみはたぶん、あえて空気を読んでいない。

「俺ら明日、練習試合なんだよ。午後だし暇だったら見に来てよ!」

 行くわけないじゃんバーカ、と脳内には浮かぶ。だけどあたしの口は。

「負けたらまたハーゲンダッツだからね!」

 そう声を張ってから、しまったと思ってその場を去る。中辻トーマはまた、まじかよって顔をしていただろうか。

「高いところから見下ろすのって、優越感だよね」

 いずみに微笑まれて、あたしはなんのこと? と返した。言っている意味がわかってしまったら、あたしはめちゃくちゃ嫌な女だ。
 たくちゃんがいるくせに、あのマネージャーよりも高いところにいたいなんて。
 練習試合は校舎の窓から遠巻きに眺めた。カンカン照りだから外には出たくなかったし、なにより応援しに来たと勘違いされたくない。
 いずみ曰く、中辻トーマは二年だけどチームの中心らしい。だからか、クロス! とか ハリーハリー! とか、あいつが一番声を出していた気がする。
 男子の声ってみんな同じに聞こえるね。そう言ったいずみには、ね、と返しておいた。


◆八月三日『連休前』

 校了を終えて家に帰る。明日から久々の連休だ。
 家に着くと、夫が娘をお風呂に入れてくれていた。二歳になる娘はイヤイヤ期の真っ最中で、どこに連れて行ってもイヤイヤ、べそべそ。今日のお風呂もイヤイヤだったのか、脱衣所に靴下や肌着が散乱している。私はそれを拾いながら、扉越しにただいま、と声をかけた。
 ママー! 飛びつかれて、スーツパンツの裾がビショビショになった。夫は大笑いしながら、おかえり、と言った。
 鞄の中でスマホが震えている。作家先生から締め切り延長の相談だろう。普段なら真っ先に取ってお断りするところだけれど、今日は気分がいいので、特別に気が付かなかったことにしておいてあげよう。

◆ハンドルネーム/KiSuKi


 お母さんが作った薄めの麦茶を飲みながら、ソファに寝転んでいずみの日記を眺める。いずみは将来、出版社に勤めたいらしい。本好きないずみらしいと思った。
 いずみと仲良くなったのも本がきっかけだ。あたしは一人の休み時間を、スマホをいじったり漫画を読んだりしてすごしていた。その日はたまたま本を読んでいた。

「こころ、好きなの?」

 突然話しかけられて、けど隣のクラスの神林さんだ、とすぐにわかった。男子がよく噂をしていたし、女子がいけ好かない、みたいな話をしていたのも知っている。

「お母さんから借りて読んでるだけ。でも先生は嫌い」

 先生とは、この『こころ』に出てくる先生のことだ。夏目漱石は難しい言葉が多くてよくわからない部分もあるけど、先生がムカつくことだけは確かだった。

「どうして?」
「だって利己心の塊じゃん。お嬢さんと結婚したいからって親友を裏切って、そのくせ罪悪感に耐え切れなくなって、お嬢さんを置いて勝手に死んじゃうし」

 実際に死んだのかは書かれていないけど、たぶん死んだ。本当に――

「勝手だよね、男って」

 ふふ、と笑ったいずみを見てきゅんとした。その言葉には、経験しないと得られない余裕みたいなものを感じた。他の子のように上澄みの知識を集めて言っている愚痴とは全く違った。
 それからは昼休みも放課後も、いつでもいずみと一緒に過ごした。いずみがあたしのなにを気に入ってくれたのかはわからないけど、たくちゃんと付き合い始めて化粧をするようになっても、いずみは一緒にいてくれる。それどころか『神林いずみの一番の友人』という肩書きで、あたしを先生たちの圧力から守ってくれている。
 あたしもいずみみたいになりたいなぁ。そう思って『オープン・ダイアリー』を開くけど、マイページの下書きは一向に埋まらない。あたしの頭の中が真っ白なのだから当然だ。

 この日記は十年後の自分への宿題だよ。いずみはそう言った。
 中学生の当時、反抗期だったあたしは、看護師の母よりも立派な人間になりたいと思って、必死に勉強して、アカ高に合格した。けれどいざこうして自分の将来と向き合ってみると、やりたいことなんて少しも浮かばない。
 担任が「まだ書いてないやつが二人いる」と言って犯人探しをしようとしていたから、とりあえず適当に一回は投稿した。けれど進級までに最低でもあと二回は投稿しなければならない。
 本当はこんなの面倒だしやりたくない。でもいずみの好きな人が発案した企画だし、なによりいずみ自身が楽しんで取り組んでいるから、文句は言いたくない。

 いずみはさすがで、日記は常に五位以内に入っている。
 いずみの日記に出てくる夫とは、もちろんK氏のことだ。いずみは態度には出さないけれど、『IZUMI』の母音と『KOSUKE』の子音を組み合わせたハンドルネームを使うくらいには、K氏にハマっている。優等生のいずみは、ゆんゆんの問題をきちんとクリアして、宿題を完璧にこなすのだろう。
 じゃあ、あたしは? たくちゃんと結婚して、一生一緒にいたい?
 もしも子供ができたら、たくちゃんはイヤイヤする子供をお風呂に入れてくれるだろうか。仕事で疲れて帰ってきたあたしに、笑っておかえりと言ってくれるだろうか。
 ブブ、とスマホが震えて画面上にバナーが表示される。二ーBのトークルームに、誰かがメッセージを送ったようだ。

【八月の補習後は文化祭準備やりまーっす! みんな参加よろチクビ!】

 出た、保戸田俊平。こいつはいずみの日記をバカにしたから、心の底から嫌いだ。

【部活の人もいるから、完全下校ギリギリまで作業できるように申請しよう!】

 中辻トーマの発言に、みんながはーい、とかありがとう、とかのスタンプを送る。中辻トーマがこう言っていなければ、後々、集まりが悪いだの、部活があって行けないだの、文句が挙がっていただろう。中辻トーマは十年後も、きっと変わらずみんなの笑顔の中心にいる。
 あの正義感たっぷりの性格からして、仕事は教師、あるいは弁護士、医者なんかもあり得るな。子供ができたら溺愛しそう……。気が付いたらスマホの画面が消えていて、代わりににやけた自分の顔が黒い画面に映っていた。
 いやいや、中辻トーマの将来なんてどうでもいいから。
 そう首を振った瞬間、たくちゃんからメッセージが届いてドキリとした。見られているわけはないのに、つい部屋を見渡してしまう。

【親が車使うとかで、今度のプール行けなくなった】

 ものすごく苦い薬を飲まされたみたいな、胃の不快感がせり上がってくる。
 楽しみだねって三日前に話したばっかじゃん。電車でも行こうと思えば行けるじゃん。行けなくなったならせめて代替案出してよ! ムカついてタタタ、とメッセージをがむしゃらに打ち込む。けれど実際には送らない。時間が経って落ち着いたら全て消す。
 こういうことは初めてではない。始業式の日も午後から遊ぼうって約束してたのに、朝になってバイトが入ったって言われた。ドタキャンの免疫はついているはずなのに、悲しいのか悔しいのか、涙が出てくる。

 せめてもの反抗心で、既読をつけたまま二時間放置した。けれど結局耐え切れなくなって、【わかった。残念だけど仕方ないね】と送る。スマホはあたしをいい子に変換してくれる。
 たくちゃんはノリが軽くて、華やかで、聞き分けのいい女が好きなのだ。本当のあたしは真逆だから、せめて二度とどつかれないように、いい子になる努力をしなければいけない。
 綺麗事では決して埋まらない価値観の溝を、相手に合わせることで小さくしていく。それが大人の恋愛だということを、あたしは理解しているつもりだ。
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