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第二章/出席番号三十四番・本宮千波

(一)

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 今日、クラスの男子に告られたんだ。
 って言ったら、たくちゃんはスマホをいじるのをやめて、こっちを見てくれるだろうか。
 行きつけの――というと居酒屋みたいだけれど――ファミレスで、新作の夏みかんジェラートをつつきながら思う。これ美味しいよ、って一口あげたいのに、なかなか顔を上げてくれないから、もう半分溶けてしまった。
 またパズドラのゲリラなんちゃらっていう時間なのかな。話しかけるタイミングを間違えると不機嫌になるから、あたしには待つという選択しかない。
 ジェラート、全部食べちゃおうかな。つーか彼女がいるのにスマホいじるとかなくない? 絶対口には出せないから、仕方なくあたしもスマホをいじる。

【今日はごめん】
【でも、本気だから。どんだけウザがられても放っておかないから】

 ウザ。キモ。ストーカーかよ。

「チナ、なににやけてんの?」

 ゲリラなんちゃらが終わったのか、たくちゃんはいつの間にか勝手にジェラートを食べていた。

「なんでもない」

 あ、まずった。これは言ってはいけないセリフだった。たくちゃんの眉間にしわが寄る前に、お母さんがね、と適当な話題をつける。なんとか誤魔化せたみたいだ。

「チナ、今週の土曜もうち来んだろ?」
「あ、行きたいけど……来週から期末テストだから」
「ンだよ」

 先週、言っておいたじゃん。というか本当は今も勉強したい。前回の中間テストは散々だった。一緒にいてくれるいずみのためにも、せめて勉強は頑張りたいのに。
 たくちゃんは伝票を持って立ち上がった。たくちゃんが使ったナプキンのゴミをテーブルの隅に寄せて、後を追う。お会計は二,八六〇円。たくちゃんは萎れた千円札を二枚出すと、先に店を出た。たくちゃんは紙幣、あたしは小銭。付き合って半年ちょっとの間に出来上がっていた、あたしたちのルールだ。

 あいつだったら、どうなるんだろう。
 二年だけどサッカー部のスタメンらしいから、きっとバイトはしていない。体育祭でハーゲンダッツを要求したら、まじかよって顔してたし……うん、間違いなく割り勘だ。やっぱりたくちゃんは大人だ。
 黒のエヌボックスの助手席に乗り込むと、あと時間どれくらい、と聞かれる。あたしは四十分くらい、と答える。これは儀式のようなもので、あまり意味はない。

「母親は?」
「今日は夜勤」
「じゃ、遠回りしてくか」

 たくちゃんはハンドルを右に切る。たくちゃんが住んでいるのは西区で、あたしは南区。遠回りをするときは、南区にあるレンタルビデオ屋に寄って行く。だけど中には入らない。
 店の光が届かない、だだっ広い駐車場の一番端で、たくちゃんがあたしに重なって揺れる。根本が黒くなった金髪によく似合う、スパイシーな香水の香りにたくちゃんを感じながら、外から見たら車も揺れてるんじゃないのかな、と心配になる。
 お願いだからあと二十分、誰にも見つかりませんように。

「跡、消えかけてるな」

 たくちゃんはあたしの首を甘噛みする。い、と声が出そうになるのを堪えた。一応汗ふきシートで拭いているけれど、絆創膏の味がしたらどうしよう、とまた心配になる。
 たくちゃんは満足したら、必ずキスを一つくれる。痛くても、狭苦しくても、このキスが甘い記憶に塗り替えてくれるから、私はご褒美のキスと呼んでいる。

「たくちゃん、もうすぐ二十三時……」
「あーそうか。だりぃ」

 だりぃ、は身体のことで、送るのがだるいわけではない。わかっているけれどちょっと悲しい。たくちゃんは半分下がったズボンのまま運転席に戻った。
 ブラウスのボタンを整えていると、黒いシートの隅にファンデーションが付いているのを見つけた。いつ付いたんだろう。慌てて指でこすって消した。この車はたくちゃんの物だけど、正確にはたくちゃんの家の物なので、汚れなんてつけられない。

「たくちゃん、夏休みはどこに行く? やっぱ海? プールでもいいよね!」
「あー、海は大学の奴らと行く約束してんだよね。チナとはプールだな」

 大学の奴らの中には女子はいるの? 聞きたいけど、なんとなく聞けない。

「おっけー。プールいつ行く? 超めんどいけど夏休みは補習があるから、できれば八月の前半がいいんだけど……」
「大学は八月の頭までテストだよ。ま、もっと近くなったら決めようぜ」

 それじゃいずみと遊ぶ日が決められないんだけど。口を尖らせるけれど、タバコの火をつけるのに夢中なたくちゃんは気が付かない。ついでに青信号なんだけど。
 たくちゃんは半分開けた窓に煙を吐く。前に制服ににおいがつくのは困る、と言ったらそうしてくれるようになった。こういうところ、優しいなと思う。

 家の玄関を開けると、お母さんがちょうど家を出るところだった。
 たくちゃんには、夜勤の日はお母さんは二十二時に家を出る、と言ってある。そうすると安心してマンションの前まで送ってくれる。いつか二人が出くわしてしまうかもしれないけれど、そうなったときにたくちゃんはどんな顔をするのか、ちょっと見てみたいなんて思っている。どうせ「なんでいるんだよ」って怒られるんだろうけれど。

「千波、おかえり。まーたたばこのにおいするわよ?」
「スプレーしとく。何度も言ってるけど、あたしは吸ってないからね」
「本当にやめてよね。未成年の娘がタバコ吸ってるだなんて、看護師のメンツが丸つぶれよ。ドクターからも患者さんからも大ブーイングだわ!」

 うはは、と笑うお母さんは、きっとあたしの言葉を信じてくれている。小さいころからお母さんと二人暮らしだったからか、はたまたお母さんが放任主義だからか、あたしの反抗期は中学生で終わった。
 お母さんはあたしの中では友達だ。たった二人のうちの、大切な一人。
 夜勤に行くお母さんを見送って部屋にこもる。たばこのにおいがする制服を脱ぎ捨てて、ベッドに横たわった。スマホがブブ、と震える。

【言った通りでしょう】

 はい、言った通りでした。もう一人の大切な友達、いずみに返信する。
 中辻君はチナのことが好きなんだよ。三日前にそう言われて、あたしは全力で否定した。ないない、あいつはあたしが村八分にされてると思って、正義の味方ぶって声かけてくるだけだよ。

『本宮さんのことが、好きだ』

 ロマンチックのロの字もない、蒸し暑い教室であいつは言った。

『関係ないなんて、言わせない』

 声は芯が通っていて強気なくせに、手首を掴む手は汗で湿っぽい。緊張しているのがモロバレな、とことんガキ臭い告白だった。

【嬉しかったんでしょう?】

 なんなの、いずみ。エスパーなの。そう思ったけど、冷静に考えれば誰だって告白されれば嬉しいし、相手がそれなりにモテるやつなら尚更だ。噂では隣のクラスの学級委員があいつのことを好きだとか。もちろん本人は気付いていない。そういうのに疎いところもガキ臭い。
 関わりたくなくて、もっと言えば絶対に好きになってほしくなくて、あえてぞんざいな態度をとっていたのに。
 なのにあたしのことが好きとか、あいつエムなの。どエムなの。

 あいつのメッセージには返事をしていない。なにを返せばいいのかわからない。掃除をほっぽり出して逃げるようにあの場を去ってから、たくちゃんと会うまでの間に送られてきたメッセージを、もう三十回は読み直している。文面だけだとものすごいイケメンに見えてくるから、困る。
 またブブ、とスマホが震えた。たくちゃんだ、と思って開くと、【無料連載! ○○がオススメされたよ……】云々が書かれていた。これを送ると漫画が先読みできるとかなんとかで、日付が変わると同時に毎日送られてくる。おやすみ、はもうしばらく送られてきていないし、送っていない。
 トーク一覧に戻ると、【たくちゃん】の下に【中辻柊馬】の名前が並んでいて、胸がざわついた。間違っても浮気なんかしていないけど、万が一このトーク画面をたくちゃんに見られたら……。
 怖くなってあいつのトークを消そうとスワイプするけど、どうしてか削除のボタンは押せなくて、スマホをベッドに伏せる。

 あいつに包帯を見られたのは迂闊だった。お母さんにも、たぶんいずみにもバレていないのに。だけどどうして、彼氏にやられたってわかったんだろう。自分のことにはニブチンなくせに。
 会いたくないなぁ。いや、どうしてあたしが気まずさを感じなきゃいけないのよ。あいつが勝手に好きとか言ってきただけで、あたしは今まで通りに過ごせばいい。
 あたしが好きなのは、たくちゃん一人だけなんだから。
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