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第九章 アイリスとアイーダ

その5 西暦20××年のサヤカ 

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 あたしはクリスタ?
 ううん、たぶん何者でもない、ただの……ぼろぼろの人形だよ。

 破れた服は血まみれ。
 心臓に開いた穴を、風が吹き抜けていく。
 ささやきのように……。

『……精霊の《根源の泉水》も、根本的な解決にはならない』

『本来なら持って生まれたはずの《魔力核》が奪われているのだから』

『しかし一時しのぎにせよ《根源の泉水》で延命はできる』

『カルナックは精霊から《魔力核》を分け与えられたが』

『あれは特別だ。死んだはずの魂が輝きを放ち精霊火を魅了した。あのような者は、そうそういない』

『世界が人間を住まわせているのは己の知らぬ、もろい「生命体」の感情や行動を見聞きし情報を得たいがため。決して、人間に優しくはないのだから』

『この世界が誰のものか、人間達が忘れなければよいのだが……』

          ※

 闇の中、聞こえてきた不穏な会話は、ひどく重要な内容を孕んでいた。
 けれども、見えないものをよく見ようとして目を凝らせば焦点が合わなくなるのにも似て、暗闇に耳を澄ませば、かえって意識から遠ざかり聞こえなくなってしまう。

 会話していたのは誰?
 ここはどこ?

 女神さまはいないの?
 ……アエリア様……そんな、名前だったよね……?

 救済を求めて、あたしはあがく。

 遙か上方に、かすかに見えた眩い光に。
 手をのばした。

 この手をつかんで引き上げてくれた誰かが、いた……ような、気がしたんだけどな……

 目を開けて見たものは、
 白い包帯が巻かれた、右手。
 それは七歳にしては身体の小さい幼児であるクリスタの手ではなかった。
 もう少し年上の……少女の手だ。

 あたしは、だれ?

          ※

「気がついたんだね、サヤカ」

 見知らぬ白い部屋。
 ベッドの上に、あたし、相田サヤカは横たわっていた。
 窓にはカーテンがひいてあって、日差しを遮っている。
 ここは……
 病室?

「サヤカ……助かって、本当に……よかった」
 中年の男性が、震える声を絞り出した。

 このひと、だれ?
 ママはどこ?

 ああ……
 そうか、あたし、助かっちゃったんだ……。
 せっかく思い切ってマンションの屋上から飛び降りたのに。

 全身打撲。
 顔も損傷したって。どうでもいいけど。

「……あ、あ」
 声がかすれて、きたない濁った声しか出なかったのが一番悲しかった。

 これじゃ歌えないわ。

 ああ、バカなサヤカ。
 まだ……歌うなんて考えて。

 親友のアリスがママの車にはねられて死んで。
 友だちになったばかりのジョルジョも同じようにはねられて怪我をして。

 あたしはもう、生きていたくなかった。

 何より、あたしがいたらママは、いつかまた、誰かを殺すかもしれない。
 だから飛び降りたのに。

 なんて罪深い。

 で、このひとはだれ?

 体中ばらばらになりそうな激痛に苛まれてベッドにいる、あたし、サヤカのそばにいる、誰はばからず、ぼたぼた涙をこぼしている中年男性は?
 ごま塩の、ばさばさの短い髪。
 こけた頬、白いあごひげ。

「サヤカ。私が、おとうさんだよ」

「おとうさん?」

「そうだよ、サヤカ。ずっと、あいたかった」
 そのひとは、言う。

「おとうさん……」
 違和感があった。
 あたしにも、おとうさんがいたんだ……。
 だって知らなかったの。
 ママから聞いたことなかったよ。

 初めて見た、おとうさんは、
 涙をこぼしつづけて、目も鼻も真っ赤。
 赤鼻のトナカイみたい。
 この人の鼻は、あのクリスマスソングみたいに、闇の中で光って、あたしを導いてくれる?
 そうだったら、いいんだけど。

「生きてたの?」
「知らなかったんだね」
 そのひとは、悲しげに微笑んだ。
「何度手紙を出しても返事がなかったから、そうかもしれないと薄々思っていたんだが」
「てがみなんて知らないわ」
 そうなんだね、と、おとうさんはゆっくり頷く。
「どうしていたの。なぜ会えなかったの」
「僕はずっと、日本にはいなかったんだ。おかあさんと離婚してから、十二年間」
「どこにいた、の?」
「ニューヨークだ」

 おとうさんはアメリカ在住の、整形外科医だった。

 あたしが飛び降り自殺を図ったことで、ママは後悔して、警察に自首した。
 その前に、離婚していた夫に、連絡をとって。
 あたしが存在していることさえ知らなかった父親は、アメリカに住んでいたのだ。

 優秀な整形外科医だった。
 結婚しても、妻にはおさまれなかった。
 クラシックの歌手だったから。
 自分の夢を諦められなかった妻に、捨てられたのだ。

 ママは、子どもは欲しかった。
 自分では達成できなかった夢を託す道具として。
 本心からそれだけだったのかどうか、わからないけど。

 可愛がってはくれた。
 おいしいご飯、おしゃれな洋服、制服のかわいい学校に入って、歌のレッスンをして、バレエを習って。なんの疑問も持たずに従うあたしに、母は満足していたのかな?
 厳しいけど優しくていっぱい褒めてくれた。良い成績のときは自分のことのように喜んでくれて。

 娘の親権を元夫に譲り、刑務所に入ったママ。
 いつ出てこられるのか、わからない。

 夫にも、娘のあたしに対しても、自分のことを忘れて欲しい。連絡も取らないでくれ。そう言い残した。

         ※

 そしてこの世から、相田サヤカという人間は、消えた。

 あたしは父親に引き取られ、名前を変え、やり直すことになった。

 アメリカ、ニューヨークに移住して。

 声楽をやりたい。けど歌えたらストリートでも何でもいい。
 この世界に、生きていた痕跡を残したいのだ。

 たとえ、ほんの微かな、かすり傷でも。

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