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「一緒に見に行きませんか」
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「ダメだ。特定できない」
野田は溜息を吐いた。
拓真町近辺のネイルサロンを検索したら20軒以上出てきた。予想以上に多い。電話して訊ねても顧客情報は絶対に漏らさないだろう。それに拓真町近辺とも限らない。
「近いところに直接行ってみるか……。いや、それはダメだ。もし犯人だったら警戒されてしまう。やはり警察に言おう」
野田は頭を掻いた。田西刑事たちの直截な連絡先を聞いていなかった。
熊男は当然連絡先を知っているはずだ。風呂から上がったら説得して連絡をさせよう。そうだ、熊男用の衣類を用意しないと。
マンションの間取りはキッチン、リビング、寝室に分かれている。寝室にはベッドが置いてある。セミダブルにしたのは、いつ彼女ができてもいいように、だ。家族や友人用に別に布団を一式用意してある。あまり利用したことはない。それをクローゼットから引っ張り出してリビングの隅に用意しておく。毛布を1枚と枕も。
そのあと、寝室に向かい、クローゼットからオーバーサイズフーディーと、ウエストのゴムがびろびろに伸びているスウェットパンツを取り出す。
熊男の大きな体を思い出しながらゴムを伸び縮みさせてみた。
「これなら入るかな。あとは下着か……」
新しいものがチェストの引出しに入っていたはずだ。
黒やグレーの地味なボクサーブリーフが無造作に投げ入れてある。下のほうを手探りすると、あきらかに手触りが異なる布が指先に触れた。
「あ……」
胸にちくりと痛みが走る。元カノからのクリスマスプレゼント。
サイズ2Lのブーメランパンツ。
「ようやく出番がきたな。役に立ってもらおうか」
そっと脱衣所の戸を開け、洗濯かごの横にバスタオルと下着と部屋着を重ねて置く。半透明の硝子戸の向こうから盛大な湯の音が聞こえてきた。熊の全身洗浄には2時間はかかるに違いない。
ふと見ると洗面台の棚の隅に黒いものが置かれていた。黒い手帳や革のパスケースらしきもの、カード状の紙束が輪ゴムで十字に留められている。古箪笥に長年入れっぱなしになっていたような、香ばしいニオイがした。その下にはスマホ。
「そういえばあのスマホ、最新機種だった……!」
スマホを持ってるホームレスはいるかもしれないが、発売してまだ三ヶ月しか経っていない最新機種を持っているホームレスは珍しいのではないか。
「あやしいぞ」
機種変更した後にホームレスになったのか。となると唯一の財産はこのスマホだ。
待てよ。被害者はハンドバッグから財布を盗まれていなかったか。強盗犯の可能性はもっと高いのではないか。それに熊男自身が「おれも容疑者だ」と言っていなかったか。
熊男の推理はよくよく考えてみればかなり強引だ。ぼくは、うまいこと言いくるめられているのではないか。本当に彼を頼って大丈夫なのか。信じていいのか。
棚に置いてある黒い手帳やスマホの中身を見れば真実がわかるだろうか。そもそもあの風体で探偵って本当なのか。だが観察眼は鋭い。いや、そう思わされているだけなのではないか。
疑い出したら切りがない。尾を追いかける犬のように思考がぐるぐる回り始める。
田西と井敬は本物の刑事なのか。橋本さゆりは本当に死んでるのか。
疑念は止めどなくあふれてきた。確かめないわけにはいかない。熊男の正体を。
伸ばした手が黒い手帳に触れる寸前、リビングから音が聞こえた。軽やかなメロディ。自分のスマホの呼び出し音だ。慌ててリビングに戻り名前を確認する。
「え、響子ちゃん、おお……!」
日比野響子から電話があるなんて初めてだ。同僚の電話番号は全て連絡帳に入っているがまさか彼女の名前が浮かび上がる日が来るとは。
日比野響子。同じ職場の同僚。受付カウンターを担当する看板娘。
それまでの思考は即時停止。口元が弛むのが自分でもわかる。脳細胞は淡い期待にピンク色に染まった。
「どうしたの」
第一声はやや裏返った。
『ちょっと心配になって電話しちゃったんです。野田さん、早退したでしょう。大丈夫ですか』
柔らかな声音が心地よかった。
『で、あのクマさんみたいな人はどうしてますか。野田さんのお友だちの』
「いやいやいや全然、お友だちとかではないんだよ。彼のことはよくわかんないんだ。探偵ってのも本当だか……いや、なんでもない。ていうか、え、なんで一緒にいると思ってるの」
『所長が独り言の体で話してくれましたよ。野田くんは監視対象だからって』
「ひでえ。日比野さんは……信じてないよね。ぼくの真面目な働きぶりはよく知ってるでしょ。まさか、疑ってないよね」
『営業所ではすごい噂になってますよ、例の殺人事件。刑事さんかっこよかったですよね~。事務所を颯爽と去って行く姿には痺れました。ふふ、覗き見してました~』
日比野の弾んだ口調に、一瞬、言葉に詰まった。
『あ、不謹慎ですみません。わたし、ミステリーとかサスペンスとかが大好物なんです。三度の飯より好きとは言いませんけど、食前にハラハラ、食後にドキドキがないと、ご飯が美味しくないというか』
「へ、へえ、そうなんだ」
日比野響子の意外な一面を知れたのはうれしく、微妙に悲しい。
あまり踏み込んだ会話をしたことがなかったので、これは彼女の内面を知るチャンスなのだと思い直した。
彼女いない歴が3年になろうとしている。焦る気持ちはないが、自然な流れでそういう雰囲気になるのなら、おおいに歓迎したい。
職場恋愛も悪くない。職場に好きな人がいると、たとえそれが片思いであったとしても、出社するのが楽しくなるからだ。つらい仕事にも冷たい視線にも耐えられる。
『というわけで、今から死体遺棄現場の廃工場に行ってみようと思ってるんですけど』
可愛らしい声音で物騒なことを言いだした。
「……え、何言ってるの? 怖くないの、日比野さん……」
『一緒に見にいきませんか』
「お」
恋愛ゲームにおける分岐点がやってきた。ここで日比野の誘いに乗るか、断って家で熊男の世話をやくかの二択。迷うまでもない。
野田は溜息を吐いた。
拓真町近辺のネイルサロンを検索したら20軒以上出てきた。予想以上に多い。電話して訊ねても顧客情報は絶対に漏らさないだろう。それに拓真町近辺とも限らない。
「近いところに直接行ってみるか……。いや、それはダメだ。もし犯人だったら警戒されてしまう。やはり警察に言おう」
野田は頭を掻いた。田西刑事たちの直截な連絡先を聞いていなかった。
熊男は当然連絡先を知っているはずだ。風呂から上がったら説得して連絡をさせよう。そうだ、熊男用の衣類を用意しないと。
マンションの間取りはキッチン、リビング、寝室に分かれている。寝室にはベッドが置いてある。セミダブルにしたのは、いつ彼女ができてもいいように、だ。家族や友人用に別に布団を一式用意してある。あまり利用したことはない。それをクローゼットから引っ張り出してリビングの隅に用意しておく。毛布を1枚と枕も。
そのあと、寝室に向かい、クローゼットからオーバーサイズフーディーと、ウエストのゴムがびろびろに伸びているスウェットパンツを取り出す。
熊男の大きな体を思い出しながらゴムを伸び縮みさせてみた。
「これなら入るかな。あとは下着か……」
新しいものがチェストの引出しに入っていたはずだ。
黒やグレーの地味なボクサーブリーフが無造作に投げ入れてある。下のほうを手探りすると、あきらかに手触りが異なる布が指先に触れた。
「あ……」
胸にちくりと痛みが走る。元カノからのクリスマスプレゼント。
サイズ2Lのブーメランパンツ。
「ようやく出番がきたな。役に立ってもらおうか」
そっと脱衣所の戸を開け、洗濯かごの横にバスタオルと下着と部屋着を重ねて置く。半透明の硝子戸の向こうから盛大な湯の音が聞こえてきた。熊の全身洗浄には2時間はかかるに違いない。
ふと見ると洗面台の棚の隅に黒いものが置かれていた。黒い手帳や革のパスケースらしきもの、カード状の紙束が輪ゴムで十字に留められている。古箪笥に長年入れっぱなしになっていたような、香ばしいニオイがした。その下にはスマホ。
「そういえばあのスマホ、最新機種だった……!」
スマホを持ってるホームレスはいるかもしれないが、発売してまだ三ヶ月しか経っていない最新機種を持っているホームレスは珍しいのではないか。
「あやしいぞ」
機種変更した後にホームレスになったのか。となると唯一の財産はこのスマホだ。
待てよ。被害者はハンドバッグから財布を盗まれていなかったか。強盗犯の可能性はもっと高いのではないか。それに熊男自身が「おれも容疑者だ」と言っていなかったか。
熊男の推理はよくよく考えてみればかなり強引だ。ぼくは、うまいこと言いくるめられているのではないか。本当に彼を頼って大丈夫なのか。信じていいのか。
棚に置いてある黒い手帳やスマホの中身を見れば真実がわかるだろうか。そもそもあの風体で探偵って本当なのか。だが観察眼は鋭い。いや、そう思わされているだけなのではないか。
疑い出したら切りがない。尾を追いかける犬のように思考がぐるぐる回り始める。
田西と井敬は本物の刑事なのか。橋本さゆりは本当に死んでるのか。
疑念は止めどなくあふれてきた。確かめないわけにはいかない。熊男の正体を。
伸ばした手が黒い手帳に触れる寸前、リビングから音が聞こえた。軽やかなメロディ。自分のスマホの呼び出し音だ。慌ててリビングに戻り名前を確認する。
「え、響子ちゃん、おお……!」
日比野響子から電話があるなんて初めてだ。同僚の電話番号は全て連絡帳に入っているがまさか彼女の名前が浮かび上がる日が来るとは。
日比野響子。同じ職場の同僚。受付カウンターを担当する看板娘。
それまでの思考は即時停止。口元が弛むのが自分でもわかる。脳細胞は淡い期待にピンク色に染まった。
「どうしたの」
第一声はやや裏返った。
『ちょっと心配になって電話しちゃったんです。野田さん、早退したでしょう。大丈夫ですか』
柔らかな声音が心地よかった。
『で、あのクマさんみたいな人はどうしてますか。野田さんのお友だちの』
「いやいやいや全然、お友だちとかではないんだよ。彼のことはよくわかんないんだ。探偵ってのも本当だか……いや、なんでもない。ていうか、え、なんで一緒にいると思ってるの」
『所長が独り言の体で話してくれましたよ。野田くんは監視対象だからって』
「ひでえ。日比野さんは……信じてないよね。ぼくの真面目な働きぶりはよく知ってるでしょ。まさか、疑ってないよね」
『営業所ではすごい噂になってますよ、例の殺人事件。刑事さんかっこよかったですよね~。事務所を颯爽と去って行く姿には痺れました。ふふ、覗き見してました~』
日比野の弾んだ口調に、一瞬、言葉に詰まった。
『あ、不謹慎ですみません。わたし、ミステリーとかサスペンスとかが大好物なんです。三度の飯より好きとは言いませんけど、食前にハラハラ、食後にドキドキがないと、ご飯が美味しくないというか』
「へ、へえ、そうなんだ」
日比野響子の意外な一面を知れたのはうれしく、微妙に悲しい。
あまり踏み込んだ会話をしたことがなかったので、これは彼女の内面を知るチャンスなのだと思い直した。
彼女いない歴が3年になろうとしている。焦る気持ちはないが、自然な流れでそういう雰囲気になるのなら、おおいに歓迎したい。
職場恋愛も悪くない。職場に好きな人がいると、たとえそれが片思いであったとしても、出社するのが楽しくなるからだ。つらい仕事にも冷たい視線にも耐えられる。
『というわけで、今から死体遺棄現場の廃工場に行ってみようと思ってるんですけど』
可愛らしい声音で物騒なことを言いだした。
「……え、何言ってるの? 怖くないの、日比野さん……」
『一緒に見にいきませんか』
「お」
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