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喧嘩の翌日

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入社して2年目になるがここまで、その日の翌日ほど酷い一日はなかったように思う。

寝不足と疲労とで死にそうな顔で一日オフィスにいたが、上司は気を遣ったのか僕のことなど構っていられなかったのか、余計な言葉をかけてこなかった。

最寄り駅から歩いてアパートに戻る道が、しんどかった。

とにかく布団の上で、眠りたい。

余計なことを考えないように、それだけを思いながら、アパートに帰り着いた僕を待っていたのは、いつもと何も変わらないスーツ姿の篠崎さんだった。

錆びた鉄骨の階段に腰掛けて、僕の姿を見とめると「ユウくん」と、腰をあげた。

なんで会いにきたのか。
いつから待っていたのか。
だいたい、なんでうちのアパートに、

とか色んな思いがぐるぐるしていたが、口にできるはずがなかった。


「……帰ってもらえませんか」

「話をさせてもらえるまで帰らない」
 

篠崎さんは僕が鍵を回して玄関に飛びこんでも、片腕を扉に突っ込んできた。

僕はドアノブに全体重をかけて引っ張り、篠崎さんは片手で無理やり押し開こうとこじ開け、褪せたクリーム色の薄い玄関扉が今にも壊れそうなほど大きく軋んだ。

「僕は、あなたと、話したくないんですっ」


「ユウくん、ちゃんと、話し合おう。昨日は、冷静じゃなかった。今なら落ち着いてユウくんの話、聞けるから。全部、話して」


僕は押し負け、力を抜くと篠崎さんはずかずかと玄関に踏み入って来て、後ろ手で扉を閉めた。



「話したいことなんて、何もないですよ……」
 

半分意地になっていた。

今更、何を話せると言うのだろう。こんな大喧嘩みたいになって、こじれてしまって。


「そう、じゃあ、私から話す」
 

篠崎さんはあっさり頷いて、ガシッと僕の両肩を掴んで顔を覗きこんできた。


「あの日……ユウくんが初めて私のうちに来た日も言ったけど、私にとっての特別はユウくんだけ。私の人生は全部、ユウくんのものだよ」

「そんなこと言ったって……」

「そう、言葉だけじゃ信じてもらえないってことが分かったから……」


篠崎さんはそう言って自分のブラックスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを引き抜き、ワイシャツのボタンを外し始める。


「な、何、してる、んですかっ」
 

上半身裸になった篠崎さんは自分の左胸に貼られた白いガーゼに触れた。

「これ、見て」
 

そう言って、篠崎さんガーゼを剥ぎ取る。

篠崎さんの左胸には、ついたばかりの傷跡があった。それもただの傷じゃない。悠馬、と僕の名前が刻まれた刺青だった。


「これから先、死ぬまでずっと、私にとってはユウくんだけ居ればいい」
 

僕は文字通り開いた口が塞がらなかった。

篠崎さんの左胸に、赤黒く僕の名前が刻まれている。篠崎さんの綺麗な肌に、僕の名前が。


「篠崎さんはっ、重すぎるんですよ……っ」
 

やっと口にできた言葉はそれだった。本当に、信じられない。なんで、そんな僕のことを。


「重いのは、自覚してる」


「束縛が強すぎるし、僕には何にもさせてくれないしっ」

「そうだね」


「でも、それが嫌だったわけじゃない……ですっ」
 

篠崎さんが僕のことをたくさん思ってくれているのは伝わっていた。

そんな刺青なんかなくたって。

僕のことをうっとおしいくらい過保護に、大切に思ってくれていることは伝わっていた。


「僕だって、篠崎さんのそういうところが好きで、でもっ、だから、あんな……キスとかして欲しくない。本当はあんなショーもして欲しくない。本当に僕だけを見ていてほしい」

「ユウくんが嫌なら、キスはしない。ショーのことは、もう少し話し合おうか。何百人を相手にしても、私にはユウくんしか見えてないんだよ」


「じゃあ、バーで会ったお客さんのことは縛らないでほしい」
「それは、ユウくんに会ってから一度もしてない。昔の話」


「もっと、篠崎さんのこといっぱい知りたい」

「なんでも、教えてあげる」


「僕のこと、恋人だって紹介してほしい」

「してあげる」


「痛いお仕置きは、しないでほしい」

「う~ん、それはユウくん次第かな」
 

全てを吐き出すように言い立てる僕の言葉一つ一つに、篠崎さんは優しく応えた。

「篠崎さんっ、ごめんなさいっ」
 
僕は篠崎さんに正面から抱きついた。

篠崎さんの肌が冷たくて、でも背中に回された手があったかくて涙がぽろっとこぼれた。


「私もごめんね」
 
篠崎さんが僕の背中をゆっくりと撫でる。

この手のひらさえあれば他には何もいらない、僕はそう思った。



「ユウくんにもね、印をあげていいかな」
 

僕の六畳一間の狭い部屋にあがりこんだ篠崎さんは、そう言って鞄の中を漁り始めた。

僕はうちにある一番上等な湯飲みに淹れたお茶をちゃぶ台の上に置きながら、篠崎さんの前に膝をおって座る。


「元々、プレゼントしようと思って、用意してたんだ」
 

篠崎さんが声を弾ませながら取り出したのは、紫色の首輪だった。

シンプルな革でベルトの上に<篠崎>と名前が刻印されている。

篠崎さんはそれを僕の首に回しつけ、カチリと留め具をかけた。さらに鞄から、紫色の縄を取り出して首輪についた金具に回し結んだ。


「よし、できた」


篠崎さんが、縄の先を引っ張ると、首輪がしまってぐっと篠崎さんの方へと体が引き寄せられる。


「ンッッ」

「苦しい?」

篠崎さんに両頬を掴まれ、瞳のなかを覗きこむように尋ねられる。

喉が締め付けられて少しだけ苦しかったけど、篠崎さんに見つめられていると、その苦しさすら甘く感じてしまう。


「平気ですっ」


「ユウくん、可愛い。すごく似合ってるよ」


篠崎さんは満足げな顔でそう言った後、
「ユウくんにも見せてあげようね。鏡かなにか……」
と部屋の中を見回した。


「そこの…クローゼットの扉の裏側が…鏡になってます…」


僕の数少ない洋服が全てしまわれているクローゼットは両開き扉をひらくと、扉の裏側に全身を写せるような大きな鏡がついている。


「へぇ、いい鏡だね」

篠崎さんは瞳をキラキラさせながら大きく扉を開いた。

ぼくは、鏡にうつる自分の姿を目にした。


床に座りこんだ見慣れたスーツ姿の自分。けれどその首元にまわされた紫色の首輪が存在感を放つ。首輪から垂れ下がった縄の先を篠崎さんが握って立っている。

僕と篠崎さんが、縄でつながっている。


「ユウくんは私のものだよ」


篠崎さんが僕の頭のてっぺんにキスをした。

ぶわっと多幸感に胸がいっぱいになった。

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