夕闇に紅をひく

青森ほたる

文字の大きさ
13 / 20

憐の過去

しおりを挟む
 指先、足先が凍っているみたいに冷たくて感覚がない。全身が重く、ずきずき痛む。目の前が真っ暗で、何も見えない。

「憐さん……憐さん」

 僕を呼ぶ声が遠ざかっていくような気がする。

「やだっ、やだ、一人にしないでッ」

 声を出したつもりだったが、闇に吸い込まれて消えていく。手を伸ばそうと腕を持ち上げたいのに、指一つ動かせない。

暗いのは、怖い。
一人も、怖い。

「置いていかないで…っ」

 暗い部屋に一人でいたら、自分がそのまま消えてしまいそうな気持ちになる。天井が低い部屋にいくつも並んだ硬いベッドで、隣に寝ていた女の子が、お母さんがいつか迎えに来てくれる、と寝る前にいつもつぶやいた。

それなら……母親の顔も父親の顔も知らない僕は、一人で死ぬんだと思った。

誰にも見つけられずに、一人きりで死んでいくんだ……。

 その日は雨が降っていた。雨の所為で施設の狭い建物の中で遊ぶしかない子どもたちの走り回る足音と、騒がしい声。

僕は施設長から呼び出され、暖房の効きすぎた部屋でソファの上に膝を抱えて座っていた。

この部屋だけは夏は涼しくて、冬は暖かい。ほつれたセーターの袖をいじっていると、部屋の扉をノックする音がした。

ようこそいらっしゃいました、だの、遠いところわざわざ、だの、甲高い声で施設長のおばさんが出迎えたのは、焦げ茶色のスーツを着た背の高い男の人だった。

「ご希望の子は、そこに」と、施設長が僕を指差して、男の鋭い視線とぶつかって目をそらす。

「ずいぶん、小さいようだが、本当に十歳か」と尋ねる男の低い声に、明らかに動揺したような声色で「勿論です」と繰り返す施設長の声がかぶさる。

僕は自分の歳だけは正確に覚えている。親の顔もどこで産まれたのかも知らず、教えられたのは赤ん坊だった僕がここの施設に捨てられていた日だけ、その日が誕生日だ。

五歳までは、年少組扱いで、ご飯の量が今よりもっと少なかった。十歳になると年長組扱いで、今よりちょっとだけご飯が増えるはずだ。

「僕、七歳だけど」

 僕が呟いたら、施設長がさらに慌てたように騒がしくなった。もしかしたらマズいことを言ったのではと思ったがどうすることもできず、ただ施設長の捲し立てるような声を聞いているのが辛くて、俯いて両手で耳を塞いでいた。

 目の前が影になって顔をあげると、男の人が僕を見下ろして立っていた。

切れ長の黒い目と、男の人なのに束ねて前に流した長い黒髪。「立て」と、その人に命じられて、ふらふらと立ち上がる。

「ついてこい」と、歩き出した男の人の後ろを慌てて追いかけた。

細い廊下を時々男の人は立ち止まり。ついてきているか確かめるように振り返ったが、歩幅の狭い僕にしびれを切らしたように途中で僕を膝から抱き上げた。

いきなり抱え上げられ驚いて声も出なかった。自分の記憶にあるかぎり、誰かに抱いてもらったのはそれが初めてだった。

「椿、このまま車を私の家まで。龍也のところへは明日連れて行く」

 雨の中施設の門を抜けて、道路に停めてあった黒い車に乗せられた。僕を抱き上げていた男は僕の隣に座り、運転席からは鈴の音がして車は走り出した。

雨粒のつたう窓ガラスの先の灰色の施設の建物が、どんどん小さくなってじきに見えなくなった。

 大きなお屋敷に僕を連れて帰った男の人は、まず僕をお風呂に突っ込み、自分も泡だらけになりながら僕の身体を洗ってくれた。

そして今まで着たことのない柔らかい生地の和柄の浴衣に着替えさせたが、両手がすっぽり隠れるほど大きく、裾を引きずるほどだったので男の人は僕に歩かせることを諦めて、家の中もずっと荷物を担ぐように肩に抱き上げていた。

「お前の名前は今日から憐だ。私の名前は、秋彦。お前の雇用者だ」

 秋彦はそれから硬い口調で話し始めたが、僕には難しすぎて途中から瞼が重くなりいつの間にか眠ってしまう。

目が覚めると施設のものとは比べものにならないほど大きくて広いベッドの上に運ばれていた。

朝ご飯はクッションをいくつも重ねた椅子に座らせられて、次から次に運ばれてくる料理を黙々と食べた。

それから僕はまた車で、今度は別の大きなお屋敷に連れて行かれたが、そこは大人がいっぱいで騒がしく、辺りには建物の木の匂いと花のようなお菓子のような甘い匂いが充満していた。

「憐ちゃん、はじめまして」

 と、若い男は白い歯の見える笑顔で話しかけてきたが、周りを沢山の大人に囲まれていた僕はただひたすらに怖くて、隣に立っていた秋彦の後ろに回って足にしがみついた。

周りの大人がどっと笑い声をあげて、余計に怖くなってしがみつく腕に力をこめる。「憐はこれからここで龍也たちに面倒をみてもらうんだ」と、秋彦が僕を無理やり引きはがそうとする。

秋彦から離れるのが嫌で大声で泣き始めた僕を、周りがなだめるように話しかけてきたが耳に入ってこなかった。

「手のかかる子どもだ」と、秋彦が呆れたように言って僕を抱き上げ、背中を撫でながらゆっくりと揺らして、やっと落ち着く。

それから僕はまた、朝目覚めた屋敷にそのまま連れて帰られることになった。


 「秋彦、秋彦」と、僕は秋彦にいつもくっついて回った。

秋彦の言うことなら、なんでも聞いた。自分には秋彦しかいない。秋彦以外は知らない人間。

綺麗なお辞儀の仕方、座り方、言葉遣い……お仕事のためだといって、お尻に玩具を挿れて一日を過ごすように言われたときも素直に従った。

秋彦は怒りっぽくて、秋彦の痛いお仕置きは嫌いだったけど、でも僕のことをどうでもいい存在なんかじゃなく、ちゃんと見ていてくれている思うと安心した。

それに、僕のお尻を真っ赤になるまで叩くのと同じ手で、時には「憐は、いい子だな」と頭を撫でて、褒めてくれることもあった。

秋彦は怖いけど優しい。

秋彦の屋敷には僕専用の部屋もベッドもあったが、僕はいつも秋彦の寝室のベッドに潜り込んだ。秋彦の背中にくっついて眠るとあったかくて気持ちがいい。


 秋彦は僕に初めてを沢山くれた人。初めて抱きあげられ、頭を撫でられ、怒られ、褒められ、隣で眠ってくれた。

初めて自分が一人じゃないと思わせてくれた人。
そして一人じゃなくなった僕は今度、一人になるのが怖くなった。

怖い、置いていかれるのは怖い。捨てられるのが怖い。
一人で死ぬのが怖い……。

「憐さん、憐さん」

 耳元で優しい声がする。暗闇で一人ぼっちの僕の手を握って、ゆっくり揺らす。

「憐さん。秋彦さまがいらっしゃいましたよ」
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

月弥総合病院

僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

上司と俺のSM関係

雫@不定期更新
BL
タイトルの通りです。

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

身体検査

RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、 選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...