夕闇に紅をひく

青森ほたる

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雨の日

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隆文と手を繋いで寝ていると、ぐっすり眠れる気がする。気のせいかもしれないけど。

あれから毎日、手を繋いでもらっていたのだけど夢すらもあまり見なかった。

隆文はいつも僕が眠りについたあと僕の使ったタオルや浴衣を洗濯して、化粧部屋を掃除してから、世話役の寝室に戻って眠っているらしい。

「……隆文?」

 外の雨音で目を覚ましたとき、部屋が真っ暗だったので一瞬そんなことあるわけないのに夜かと錯覚した。慌てて時計を探して、まだ十三時すぎだと知る。

いつも隆文が朝食をもってくる十四時まで寝ている僕がもう起きているなんて隆文は思っていないだろう。朝は洗濯物を片付けたあとクロのご飯を用意して、僕はいつも行かないけれど食堂でご飯を食べていると言っていた。

自分で起きて会いに行ったら、驚く顔が見られるかもしれない。そう思って布団から起き上がり久しぶりに一人で浴衣に着替えた。

雨のせいで湿気でぎしぎしと軋む階段を降りて、ずらっと並んだ食堂の襖に手をかけたとき部屋の中から「隆文」と名前を呼ぶ複数人の声が聞こえる。

「隆文、僕にもお茶持ってきて」
「ねえ、隆文も一緒にお茶にしよ」
「僕の隣に」
「私の隣にきて」

 媚びるような声は聞くに堪えず、勢いよく襖を開く。広い和室に四列に並んだ長い座卓の一箇所で、隆文が僕と同い年くらいの男娼たちに囲まれていた。

「隆文」

 必要以上の大声を出すと、食堂にいた全員が僕の方を向いた。

「憐さん」

 先ほどまで期待していた通り隆文は僕が自分で起きてきたことに驚いたように眉をあげて立ち上がったが、周りを囲んでいる男娼たちが、何をしに来たんだと言わんばかりにじろじろと見てくる視線のほうが気になってしまう。

「そろそろ、ご飯を持って声をかけに行こうと思っていたところでした。今すぐ用意して部屋まで持っていきます……」
「いい。今日は、ここで食べるから」

 大勢の刺すような視線に、引き下がるなんて僕が負けたみたいになる。そんなの絶対に嫌だ。

ずかずかと食堂に踏み入ってまっすぐに、男娼に囲まれた隆文の元へ向かう。

誰か他の世話役が恐る恐るといった様子で「おはようございます」と挨拶してきたが、愛想を振りまく気分じゃないので無視した。

「隆文の隣に座るから退いて」

 何となく昔から居たような顔だけ知ってる男娼が隆文の隣に座っていて、僕を見上げて文句を言いたげな顔で口を開いたが「はい、そこ。仲良くしようなあ」と、別の声が割って入る。お盆を持った龍也が、にこりと白い歯を見せて笑顔をつくる。

「従業員同士の喧嘩はダメだって分かってるよな。雪ちゃん、お姫ちゃん」
「喧嘩なんてしてません、店長」

 雪、と呼ばれた男娼が、ころっと態度を変えて隆文の隣を空けて座り直す。僕はそこに押し入って立ちっぱなしの隆文に腕を回して、引き下げるように無理やり一緒に座らせた。

「お姫ちゃん、詰めてもらったんだからお礼を言うところだろ」

 龍也がぴりっとした声を出す。ムカつくけど、従うしかない。大抵のことじゃ秋彦ほど怒らない龍也が、男娼同士で揉め事をおこすと本気でキレることを、残念ながら、経験で知っている。

「どうも、ありがとう」

 僕は隣に座ってそっぽを向いている雪に、澄ました声で言い捨てる。龍也が笑顔のまま頷いて、片手に持っていたお盆を僕の前に下ろす。

「はいこれ、お姫ちゃんの分のご飯な。他のみんなはもう食べたよな?」
「食べたよ。みんなでお茶してたとこなんだ」

 隆文の右隣の奴が最初に、しゃしゃり出るように答えて「そうだよね」とわざわざ隆文に意味ありげな目線を向けた。

隆文がその目線に気づくより早く、僕は隆文の腕を強く引っ張って「ご飯、食べさせて」と、命じた。向かいに座っている二人の男娼が、これ見よがしに目配せを交わす。 

「お姫さまはお箸も持てないの?」
 と誰かが、囁く声が聞こえたが、聞こえなかったふりをする。

隆文が「分かりました」と頷いて、箸で運んでくるご飯を口だけ開けて待つ。

「隆文さんは、いつもお姫さまの食事の手伝いをしてるの?」

 あくまで興味本位とでもいうような顔をして、嘲笑うような口調で尋ねる奴がいる。こんな質問わざわざ答えなくていいのに、隆文は「いえ。そういうわけでは……」と首を振る。

「お姫さまの世話役なんて可哀想」
「隆文、真面目だから…」
「毎日、大変だよね?」

 こちらが聞こえないふりを続けているのをいい事に、周りが好き勝手言い始める。

隆文は感情の読めない硬い表情で「いいえ、そんなことは」と、呟く。周りにもイラつくが、隆文のそんな態度にもイライラする。

「隆文、喉が渇いたっ」と詰るように言うと、隆文がすぐさま水のコップを差し出す。

「…嫌ッ!お茶が飲みたいの!」
 勢いよく払った手が意図せず、コップを掴んでいた隆文の手に当たって、次の瞬間派手に水が飛び散った。

「雪さんっ。申し訳ございません!」

 思いきり水がかかったのは隣の雪だった。隆文が咄嗟に僕を押しのけて、胸から膝にかけて濡れた雪の浴衣に懐から取り出した手ぬぐいを押し当てる。

隆文の対応は、間違ってはいない、けど、後ろから雪の世話役の男がタオルを持って駆けてきても「本当に、すみません」と二人がかりで雪の相手をしてやることはない。

「隆文ッ」

 僕は立ち上がって、わずかに水滴のかかった左足を突き出す。

「僕の足も濡れたんだけど」

 隆文は素早く目を伏せ「申し訳ございません、憐さん」と、頭をさげる。

「舐めて」

 足を手ぬぐいで拭こうとした隆文が一瞬固まる。周りの男娼達が一斉に静まり返って、僕ではなく膝をついている隆文に視線が集まる。

見下ろしている僕からは隆文がどんな表情をしているのか見えなかった。ただ隆文は黙って手ぬぐいを畳の上に置き、踵に手を添え躊躇うことなく舌で舐め始めた。

足の甲を這う隆文の舌の感触に、頭にのぼっていた血が、するすると引いて逆に身体が冷えきっていくのを感じる。なんでこんなことを言いつけてしまったんだろう。

こんなのワガママじゃなくて、ただの嫌がらせだ。

「もういい」

 小さく呟いて隆文の両手から足を振りきる。それから誰かの顔も見ず「憐さん…っ」と飛んできた声にも耳を貸さずに食堂から駆け足で飛び出した。

脳裏に足を舐める隆文の姿がこびり付いて離れない。

階段をのぼる足が重い。隆文が僕を追いかけてきてくれたら、謝れる気がするのに。後ろは振り返らず、部屋までゆっくり足を進めたが、追いかけてくる足音は聞こえてこなかった。

 敷きっぱなしだった布団に一度座りこんだが、立ち上がり自分で畳んで重ねて押入れまで運ぶ。押入れの襖を閉めた時、廊下の床がきしむ足音が聞こえる。隆文だ、と振り返って、手持ち無沙汰に両手を後ろで組む。

「たかふみ…」
「と、思っただろうな。ごめんな、俺で」

 と、襖を開けて入ってきたのは龍也だった。

「隆文は来ないよ。俺が引き止めたから。俺がお姫ちゃんと二人で話したいことがあるってね」

 龍也は、隆文に持っていくように頼まれたと、食べかけの僕のご飯ののったお盆を机の上まで運び、そのまま座布団の上に胡座をかく。

「話って…」

 僕はなるべく龍也から離れた部屋の壁のぎりぎりまで下がって腰を下ろす。

「お姫ちゃんが隆文のこと大好きだよなって話」
「はあ?」

 睨みつける僕の目を龍也は笑顔を浮かべたまま見つめ返す。

「お姫ちゃんは、好きな相手ほど無茶なことを言って困らせるよな。いつもオーナーにくっついて、わざと怒られるようなことをしたり、構って欲しいんだよな」
「そんなんじゃ…っ」

 怒りか、羞恥心からか、頬が熱くなっていく。もっと強く否定したいのに言葉が出て来なくて唇を強く噛む。龍也は僕のことなど構わず、一人頷きながら腕を組んで机に寄りかかる。

「まあ俺としては、お姫ちゃんに世話役をとっかえひっかえされるよりかは、好きなら好きでいてくれた方がいいんだけど、ただ一つお姫ちゃんに忠告しておこうと思ってな」

 聞きたくない。龍也がわざわざ言いにくることなんて、きっとろくなことじゃない。

でも意味ありげに見つめられると、気になってしまう。

結局「忠告ってなに?」とこちらから催促すると、龍也は勿体ぶって腕を組み替えたあとやっと口を開く。

「誰にでも優しいのが隆文だから、勘違いするなよってこと。隆文はお前にも優しいかもしれないが、なにもお前が特別なわけじゃない。本気の恋愛はご法度だしな」

「そんなこと……僕は自分が特別だなんて思ってないし、特別になんてなりたくない」

 声が震える。隆文はただの世話役で、隆文から何かを期待したことなんてない。

ただ今までの世話役たちとは、少し違っているってだけ。

これからもずっと、僕の一番は秋彦で、秋彦以外の特別なんていらないんだ。

「話がそれだけなら、早く出てって」

 龍也とこれ以上話していると、頭がごちゃごちゃになりそう。

難しい感情なんて僕には必要ない。僕にあるのは、不快感も悲しさも辛さも、感情は全部押し殺して秋彦のために稼ぐだけの毎日なんだから。

 龍也が消えたあと、入れ替わるように襖が開いて隆文が部屋に戻ってくる。

僕は座ったまま膝を抱え、膝小僧の上で組んだ腕に顔を伏せて、腕の間から隆文の足元を見ていた。

「このご飯は、もう、食べませんか?」

 机の上のお盆には近づきもせず蹲っている僕を見て隆文はまず、そう声をかけてきた。しばらく返事を待つように、部屋の中に沈黙がただよう。

「あと、今日のクロのご飯を、持ってきたのですがどうしますか? 雨ですし、私があげてきましょうか」

 隆文は机の前に両膝をついている。

「とりあえず、クロのお皿だけここに置いて、あとは片付けてしまいますね」

 隆文はまるで独り言を聞かせるように言うと、お盆を持って立ち上がる。襖が閉まるのを音で確認して顔を上げる。

僕が気まずい思いでいるのを気遣っているのは確かだ。

クロのご飯をあげに行くのだって、いつもは二人で行くことが多いのに。机の上に置かれたお皿を持って、様子を伺いながら階段を降りる。

やっぱり一緒にあげに行こうと、隆文が行ったはずの調理場に寄ろうかと一瞬考えたが、結局辞めて一人で庭へ向かう。

外廊下に出て雨が降っていることを思い出し、傘を玄関まで取りに行くのは億劫でそのまま下駄を突っかけて外に出る。小降りの雨で浴衣の袖をかざせば気にならない。

ただ長い間降り続いているらしく、地面はぬかるんでいて下駄が泥に沈みこむ。

今日はとりあえずクロがまだ来てなかったら、裏木戸を少し開けてお皿だけ置いて帰ろう、と決めて裏庭に着いたとき、雨音に混じってちょうどクロの鳴き声がする。

「クロ、今あけるね」

 隆文が居る時は恥ずかしくて話しかけられないが、久しぶりに声をかけた。

雨の溜まった葉を揺らさないように慎重に避けていると、びしゃびしゃと水たまりを跳ね飛ばす足音と「コタロウ。どこにいるの、コタロウ」という、高い女の子の声が聞こえてくる。

足音はどんどん近づいてくると、僕のいる場所と木戸を挟んだ向かいのあたりまで移動してきて、僕は思わず息をつめる。

「コタロウ。ここに居たの」

 みゃあ、と返事をするような鳴き声が聞こえてくる。

「お家から抜け出したらダメじゃない。戻ろう、コタロウ」

 思わず、閂をはずして扉を押し開く。

黄色の傘をさした小さな女の子が、両腕に黒猫を抱えて立っていて、目を丸くして僕を見つめる。女の子に抱かれた、真っ黒の毛並みに飛び出している前足だけが白いその猫は紛れもなくクロだったが、その黒い首には真っ赤な首輪が巻かれていた。

「その猫……僕の、クロ……」
「クロじゃないよ、コタロウっていうの!あたしの猫だよ!昨日から、飼い始めたんだもん」

 女の子は、明らかに不審に思っている目で僕を見つめたま、じりじりと後ずさる。

「でも、僕、ずっと前から…餌をあげてて……」

 僕が無意識に手を伸ばすと、女の子は「ダメッ」と声をあげて、わっと黄色の傘を放り出してクロを抱えたまま走り出した。

「待っ……て……」

 ずる、っと足元が泥に滑って、アスファルトの地面に前のめりに倒れこむ。両手で庇うのが間に合わず、額を地面に勢いよくぶつけて、一瞬目の前が真っ暗になる。

「……っ」

 どろ、と額から赤いものが垂れてきて、目にかかる。反射的に抑えた手に、真っ赤な血がべっとりついていた。

「うっ………」

 手についた雨に流されていくのを見つめる。クロ、僕のクロが…。赤い首輪をつけて、女の子の手に抱かれていたクロ。

僕を見つめる女の子の両目。

全身が痙攣し、両手の感覚が消える。胸が押しつぶされているような感覚に、息がうまく吸えない。

僕は、僕は……。

胃のあたりから一気に気持ちの悪さがこみ上げてくる。だめだ、このままだと…っ。

両手で口を強く押さえつける。

けれど手についた血の匂いにさらに誘発されるように、僕は我慢できずにそのまま両手とアスファルトの地面に思いきり吐いた。

口から、ぼたぼたと食べたばかりのものが、どろどろになって溢れている。口内に広がる不快感と共に、

一気にぐたりと身体の力が抜けていく。こんなところで、吐いてしまって……どう、しよう。

両手がこんなに汚れて……。

「………っ…」

 ぼろ、と両目から涙が溢れてくる。こぼれ出してきた涙は止められず、両手では拭うことができずただ流れおちていく。

降り注ぐ雨が、凍えてしまいそうなほど冷たい。

「うっ……ぅ……っ」

 額から流れてくる血と涙と雨で、アスファルトの地面が歪んで見える。

まるで、まるで夢に見ていた光景と一緒だ。

汚れた僕はここに一人取り残されて、永遠に一人ぼっちのようだ。

「隆文っ!たかふみっ!たかふみっ!」

 出せる限界の大声で呼ぶ。僕を、僕を一人にしないで…っ。僕を、助けにきてよっ。

「隆文ッッ」
「憐、さん?…憐さん?」

 遠くで、声がする気がする。それとも、ただの幻聴か。

「憐さん、傘を持たずに行ったのではないかと思って……。…っ!……憐さん、何がッ」

 こちらに、走ってくる足音が聞こえる。

「たか、ふみ……っ」

 身体に降り注いでいた冷たい雨粒が、遮られて、目の前に影ができる。そして、ぎゅっと汚れた両手を掴まれる。

「憐さんッ」
「だめ…手、汚い……っ」

「大丈夫です。もう、大丈夫ですよ」

「たか、ふみ…っ……」

 全身が激しく震える。隆文が、大丈夫ですよ、と繰り返す声が聞こえる。

ざあっと、身体が一気に冷たくなって、僕は冷たい暗闇の中に溺れるように、意識を失った。
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