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六章 決別

三十九.墨俣〔一〕

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  多雨が続く六月。
 翔隆の下に、美濃の頭領である矢佐介やさのすけ(四十八歳)が来ていた。
柴田勝家が、美濃の墨俣すのまたに築城せんが為に六千の兵を連れ出立したというのだ。
〈墨俣か…稲葉山のすぐ側ではないか〉
確かに、そこに砦を造れたら有利だ。しかし…。
「それで今は?」
「既に築城に取り掛かっておりますが、夜襲が毎日のように続き、あと一日もつかどうか…」
矢佐介が顔に憂色ゆうしょくを浮かべて言った。
「すぐに行く。半兵衛に、後で会いに行くと伝えておいてくれ」
「はっ!」
矢佐介が風と共に消えると、樟美が寄ってきた。
「父上、我々は勉学に励みますのでご心配なく」
「…済まんな、樟美。すぐに戻る…頼んだぞ」
「はい!」
樟美は笑顔で頷く。それに頷き返して、翔隆はすぐに誰かを探した。
〈家康様はお忙しい…誰か伝えてくれるような人は…〉
探して、本多忠勝を見付けたので、尾張に行く事を伝えて貰う事にする。
「…分かった。そう、お伝えしておこう」
「かたじけない」
深く一礼して、翔隆は走り出した。


  美濃にある墨俣とは、長良川、木曽川、揖斐川いびがわが集まる低湿地帯にある。
長良川の西岸に位置しており、北東三里程には稲葉山城があり、尾張との国境にも近かった。
つまり、そこを拠点にさえ出来れば美濃侵略への足掛かりともなる重要な場所でもあるのだ。
 ここに城砦さえ造ってしまえば、守りに固く攻めるに最適。
しかしそれは、斎藤家にも分かっていた。
だからこそ、勝家の前に佐久間信盛が出城を造ろうと材料を運び込もうとした時には、すぐに攻めてきて何も出来なかったのだ。

 その日は朝から豪雨で、いつ長良川が氾濫するか分からなかった。
しかも夜になるのに、土台の一つもまともに造れていない事に焦っていた。
ただ布陣して戦うのではなく、戦いながら砦の基礎から造っていくのは至難の業だ。
 柴田勝家は焦心し、うろついていた。
〈ええい! たかが砦一つ造れんとは……あんな大口を叩くんじゃなかったわ…!!〉
つくづく、悔やんだ。
〝次こそは砦を造って見せまする!〟…なあに、自分ならば造れる!
などと笑い飛ばして意気揚々と来た自分が恥ずかしい…。
 そんな事を考えている間に、また斎藤軍が現れた。
「槍隊前に出い!! 農夫は作業を続けよ!」
そう怒号した時、川下からも敵が回り込んで来るのが見えた。
…地の利を知り尽くした豪将・長井衛安の一軍である。
「守りを固めい!! 農夫でも構わん! 戦ええい!!」
勝家が力の限り叫びながら、戦う。
しかし、見事な奇襲に圧倒されて、兵までもが逃げ出していた。
「戻れええ!! 戻らんと叩っ斬るぞ!!」
無茶な檄を飛ばしながら、己も危うくなるのを感じていた。
 …敵が逃亡口として用意しているのは川上……。
そこへ逃げれば、必ず伏兵が居よう。
しかし兵は川上に逃げて行ってしまう…。
しかも、勝家自身も敵に囲まれて窮地に追い込まれていた。
〈もはやこれまでかっ!?〉
勝家は寄ってくる兵を倒しながら叫ぶ。
「逃げよ!! 出来る限り逃げて尾張へ戻れええ!!」
そう叫んで、討ち死にする覚悟でその場に留まった。
…せめて信長の兵を一人でも多く、故郷に帰したいと思った。
だから、目立つ自分はその場に残った…。
大将が居れば、雑魚が殺される確率も低くなる………そう、考えたのだ。
 死を間近に感じて戦う内に、勝家の脳裏にある言葉がぎる。

   「私の分も生きよ」―――――。

手を握り、そう言った前主君、信成……。
その手の温もりを思い出し、勝家は歯を食いしばって刀を振るった。
〈生きねばならん!! 打ち首となってもいい! 大殿の前に出るまで、生きねば…!!〉
そう決意するも、完全に孤立して敵に四方を囲まれた。
〈駄目かっ!!〉
 もう、討たれる!!
そう直感した、正にその瞬間とき
勝家に斬り掛かろうとした兵が、バタバタと倒れた。
「…?!」
混乱していると、左右に人が現れた。
「!! お主っ!!」
「親父殿、お逃げ下され!!」
そう言って敵を倒していくのは、解任となって出て行った翔隆であった。
もう一人は矢佐介やさのすけで、勝家の馬を持ってきていた。
「なっ、何故…」
「今はそんな場合ではありません! 矢佐介、勝家殿を!」
「はっ!」
答えて矢佐介は、勝家を持ち上げて馬に乗せると、すぐに轡を取って走り出した。
「ま、待て…!」
勝家は、翔隆を見つめながら見えなくなっていった…。
それを見送りながら、翔隆は残りの味方の兵士を助けていく…。


  空が白み、雨後の泥道を走って、勝家は尾張領まで来ていた。
配下の者達の姿があちらこちらに見える。皆、泥だらけで座り込んだり仲間の無事を確かめ合い、喜んだりしている。
「…そなたは…?」
勝家が冷静になって尋ねる。
「くれぐれも、翔隆様の事はご内密に…」
矢佐介はそう言い、走り去ってしまった…。
〈翔隆……済まぬ…!〉
勝家は心中で詫びて、残った兵士四千弱と共に小牧山に戻った。
 あれだけの包囲の中、三分の一の兵を失っただけで済んだのは、一重に翔隆の助力のお陰であろう。


  小牧山城に戻った勝家は、信長の前でただただ平伏していた。
「……権六」
「ははーっ!」
声を掛けると、勝家は更に震えて頭を畳に擦り付けた。
そんな姿を見て、信長はフッと苦笑して扇子で勝家の頭をペシッと軽く叩いた。
「お主には似合わん。下がって休むが良い」
「―――はっ!!」
勝家は涙を流しながら、深く深く平伏し、退出した。
 …猪武者の勝家の事だ。この責任を重く受け止め、切腹し兼ねない。
信長はそんな気性を見抜いて、敢えて叱責せずにそう言って帰したのだ。
その心内を判っているから、勝家も辛く切ない思いを抱えながら、館を後にした。

 とぼとぼと歩いていると、利家(二十八歳)が駆け寄ってくる。
「親父どの、よくご無事で…」
そう言って涙を滲ませる利家を見て、勝家は嬉しさでじんと胸が熱くなった。
「うむ……もう一人の、のお陰だ…」
「息子…?」
「うむ。久しく会っておらぬ、大切なせがれだ…」
勝家は切なげに、曇り空を見上げた。
…その言い方から、利家はすぐに血縁ではなく〝父〟と呼ばれている方の〝息子〟と断定出来た。
―――となれば、そう呼ぶ者は限られる。
 思い当たるのは、ただ一人。
「もしや翔―――」
言い掛けると、すぐに口を塞がれた。
勝家は、ニッと笑う。
「あ奴の部下に、内密にしろと言われた」
「そ、それで?」
利家は嬉笑して尋ねる。
「もう、死を覚悟した時に現れてな…嬉しかった…。暗くとも、はっきりと分かった…前よりも頼もしゅうなって、ずっと男らしくなっていた。お陰で、兵の損失も少なかった……」
勝家が涙ぐみながら言うと、利家は満面に笑みを浮かべる。
「そうでしたか…あ奴らしい……」
二人は空を見上げて、何処かに居る翔隆の事を想った。



 一方、翔隆は去年から近江の琵琶湖畔にある長命寺山の麓に隠棲している竹中重治しげはる(二十三歳)の下を訪れていた。
この頃から、重虎から重治、と名を改名している。
 重治は、茶を注いで翔隆に出す。
「どうぞ」
「ん…。短刀やくないは、死体と共に置いてきてしまった…済まん」
「そんな事をいちいち気になされますな。怪我はありませんか?」
「大丈夫だ」
そう答えて翔隆は茶をすする。側には、矢佐介が居た。
外からは鳥のさえずりと木々の揺れる音が聞こえる。
「静かだな」
「はい、隠棲にはちょうどいい所で。それよりも、これからどうするおつもりで?」
「う…む。どうするか…」
問われて、翔隆は言葉を詰まらせる。
「まさか、何も考えておられぬのでは…」
「いや…考えてはいるのだが、どうも……」
それを聞いて、重治はクスリと笑った。
「…全く、変わられませんな。考えるより先に体が動くのでしょう?」
「ん…」
恥ずかしいがその通りだ。重治はそんな翔隆を、愛おしげな眼差しで見つめて頷く。
「では、こうしてはいかがかな…。百姓に扮して、田畑を増やすのです。まだ無い場所は沢山あります。その分だけ兵糧も増えるでしょう。無論、信長公の気性ではそんな事だけでは満足されぬでしょう。街道の整備にも力を入れている、との事…道が整っていれば、商人も移住してくる者も喜びます。ついでに自軍の武器の手入れもなさればいい。まずはそれらを内密に成して、再士官への足掛かりとしなされ」
全てを悟られずにやるのは、至難の業だ。
しかし、その程度が出来なければ、これからの美濃侵略の手助けなど出来ない…。
 翔隆は真顔で頷く。
「分かった」
その返事がおかしくて、重治は声を立てずに笑う。
まるで、我が子が親の言う事を素直にきいているように見えたのだ。
側で聞いていた矢佐介も忍び笑いをして、茶のおかわりを出した。


あれから翔隆は、重治に〝美濃の森林伐採を、命じればすぐに出来るようにしておくよう〟にと告げて、姿を消した…。
理由は分かっている。墨俣すのまたの砦の材料だろう。
重治は嬉笑して、淡海あふみ(琵琶湖)を見つめた…。
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