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二章 変転
二十.甲虫
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晴天の続く八月始め。
暑くて座っているだけでも、汗がだらだらと流れ出てくる。
翔隆は手持ち無沙汰で落ち着かず、何かやる事を探して歩いていた。
―――と、庭の方から声が聞こえてきたので、そちらに行ってみる。
すると庭の一角で、真田源太左衛門尉信綱(十六歳)と三枝勘解由左衛門尉昌貞(十六歳)がしゃがんで何やらやっていて、それを縁側から春日虎綱が呆れた様子で見つめていた。
〈…何だろう……?〉
何かあったのかと思い、近付いて見てみる。
すると二人は手を叩いたり拳を振り上げたりして、虫を戦わせていた。
「それ、そこじゃ!」
「角を下に回せ!」
よく見ると、二人は甲虫を戦わせていた。
〈…昔やった事があるなぁ……〉
翔隆は微笑して見つめる。
と、三枝解由左衛門尉《かげゆざえもんのじょう》昌貞が立ち上がって喜ぶ。
「良し! わしの勝ちじゃ!」
「もう一度勝負だ!」
真田源太左衛門尉信綱が悔しげに言う。
すると三枝昌貞は手を差し出す。
「その前に、約束のものを出せ」
「ぬう…」
唸って信綱は懐から銭袋を取り出して、昌貞に銭を渡した。
〈…賭けをしていたのか!〉
翔隆は驚いて目を丸くした。
虫で賭け事をするとは、思いも寄らなかったのだ。
「今日の酒代が浮いたな。では、もう一勝負といくか!」
そう言って昌貞は、再びしゃがんで甲虫を持った。
「楽しそうよな」
後ろから声がして翔隆が振り向くと、そこには晴信が居た。
「お館様…」
「源太と勘解由は、同じ歳でな。毎年夏になると、ああして遊んでおる…」
「…そうでしたか」
仲の良い友垣なのだな…と思うと、賭け事も納得出来る。
次の勝負も、昌貞が勝ったようだ。
と、そこに四郎が駆け寄っていった。
「わたしもやりたい」
「四郎さま…。では、まず甲虫を取ってこなくてはなりませんな」
「…それは、貸してくれんのか?」
「これは、それぞれに取ってきた、いわば兵にござる。これも立派な合戦なのですぞ」
「……そうなのか?」
四郎が寂しそうに言うと、晴信が歩み寄って苦笑する。
「勘解由、変な事を教えるでない。………まあ、似たようなものか」
どちらなのか分からない言い方に、四郎は戸惑っている。
すると昌貞が甲虫を四郎に差し出した。
「これで、お屋形さまと勝負をなされませ。負け知らずの強者ですぞ!」
「では、わしは負け続けている源太のものを使うのか?」
晴信が苦笑して言うと、信綱が慌てて辺りを見回す。
「恐れ多い! 今、別のものを………」
言い掛けて、ふと翔隆と目が合った。
「そこの! …し、し……篠蔦!」
急に名前を呼ばれて、翔隆は驚愕して背を伸ばす。
「はい!?」
「早うお屋形さまの甲虫を取って参れ! 透破ならば早いであろう!」
「あ、はい!」
よく分からないままに、翔隆は走った。
〈……そういえば、初めて名を呼んで頂けたな……〉
森の中で甲虫を選びながら、翔隆は名前を覚えていて貰えた嬉しさを噛み締める。
いつも疎まれているので、名前など覚えて貰えていないとばかり思っていたが……ちゃんと名字の方を覚えてくれていたとは意外だ。
〈他の方も、覚えて下さっておられるのかな…〉
小さな期待を胸に抱きながら、翔隆は甲虫を何匹か捕まえて館に向かった。
「それ! そこじゃ」
「おっ、仲々やりおるわ」
夕暮れの中で、四郎と晴信が甲虫を戦わせて遊んでいる。
何とも微笑ましい光景だ。
……だが、翔隆は見ていて胸が苦しくなった。
これを…義信と四郎がやっていたら…―――…。
そう思った時、ふと視線を感じて屋敷の方を見ると、陰から義信が見ていた。
〈……そうか…〉
交ざりたくても、そんな童遊びをしたいなどとは〝嫡男〟として言い出せない…。
そんな心境を察して、翔隆は甲虫を持って義信の側に行く。
「…やりませぬか?」
「いや、わしは……」
断ろうとする義信に、翔隆は無理矢理甲虫を持たせた。
「久方振りにやってみたいのですが、相手がいないのです。…夕餉までの、暇潰しに…」
「………ん」
義信は苦笑して頷き、翔隆と共に庭に出て遊んだ。
「…済まんな」
ぽつりと義信が言う。翔隆は微笑んで首を横に振る。
「こちらこそ、押し付けてしまい…」
あくまでも〝義信の為にやった〟とは言わない翔隆の計らいに、義信の心も安寧に包まれていた。
暑くて座っているだけでも、汗がだらだらと流れ出てくる。
翔隆は手持ち無沙汰で落ち着かず、何かやる事を探して歩いていた。
―――と、庭の方から声が聞こえてきたので、そちらに行ってみる。
すると庭の一角で、真田源太左衛門尉信綱(十六歳)と三枝勘解由左衛門尉昌貞(十六歳)がしゃがんで何やらやっていて、それを縁側から春日虎綱が呆れた様子で見つめていた。
〈…何だろう……?〉
何かあったのかと思い、近付いて見てみる。
すると二人は手を叩いたり拳を振り上げたりして、虫を戦わせていた。
「それ、そこじゃ!」
「角を下に回せ!」
よく見ると、二人は甲虫を戦わせていた。
〈…昔やった事があるなぁ……〉
翔隆は微笑して見つめる。
と、三枝解由左衛門尉《かげゆざえもんのじょう》昌貞が立ち上がって喜ぶ。
「良し! わしの勝ちじゃ!」
「もう一度勝負だ!」
真田源太左衛門尉信綱が悔しげに言う。
すると三枝昌貞は手を差し出す。
「その前に、約束のものを出せ」
「ぬう…」
唸って信綱は懐から銭袋を取り出して、昌貞に銭を渡した。
〈…賭けをしていたのか!〉
翔隆は驚いて目を丸くした。
虫で賭け事をするとは、思いも寄らなかったのだ。
「今日の酒代が浮いたな。では、もう一勝負といくか!」
そう言って昌貞は、再びしゃがんで甲虫を持った。
「楽しそうよな」
後ろから声がして翔隆が振り向くと、そこには晴信が居た。
「お館様…」
「源太と勘解由は、同じ歳でな。毎年夏になると、ああして遊んでおる…」
「…そうでしたか」
仲の良い友垣なのだな…と思うと、賭け事も納得出来る。
次の勝負も、昌貞が勝ったようだ。
と、そこに四郎が駆け寄っていった。
「わたしもやりたい」
「四郎さま…。では、まず甲虫を取ってこなくてはなりませんな」
「…それは、貸してくれんのか?」
「これは、それぞれに取ってきた、いわば兵にござる。これも立派な合戦なのですぞ」
「……そうなのか?」
四郎が寂しそうに言うと、晴信が歩み寄って苦笑する。
「勘解由、変な事を教えるでない。………まあ、似たようなものか」
どちらなのか分からない言い方に、四郎は戸惑っている。
すると昌貞が甲虫を四郎に差し出した。
「これで、お屋形さまと勝負をなされませ。負け知らずの強者ですぞ!」
「では、わしは負け続けている源太のものを使うのか?」
晴信が苦笑して言うと、信綱が慌てて辺りを見回す。
「恐れ多い! 今、別のものを………」
言い掛けて、ふと翔隆と目が合った。
「そこの! …し、し……篠蔦!」
急に名前を呼ばれて、翔隆は驚愕して背を伸ばす。
「はい!?」
「早うお屋形さまの甲虫を取って参れ! 透破ならば早いであろう!」
「あ、はい!」
よく分からないままに、翔隆は走った。
〈……そういえば、初めて名を呼んで頂けたな……〉
森の中で甲虫を選びながら、翔隆は名前を覚えていて貰えた嬉しさを噛み締める。
いつも疎まれているので、名前など覚えて貰えていないとばかり思っていたが……ちゃんと名字の方を覚えてくれていたとは意外だ。
〈他の方も、覚えて下さっておられるのかな…〉
小さな期待を胸に抱きながら、翔隆は甲虫を何匹か捕まえて館に向かった。
「それ! そこじゃ」
「おっ、仲々やりおるわ」
夕暮れの中で、四郎と晴信が甲虫を戦わせて遊んでいる。
何とも微笑ましい光景だ。
……だが、翔隆は見ていて胸が苦しくなった。
これを…義信と四郎がやっていたら…―――…。
そう思った時、ふと視線を感じて屋敷の方を見ると、陰から義信が見ていた。
〈……そうか…〉
交ざりたくても、そんな童遊びをしたいなどとは〝嫡男〟として言い出せない…。
そんな心境を察して、翔隆は甲虫を持って義信の側に行く。
「…やりませぬか?」
「いや、わしは……」
断ろうとする義信に、翔隆は無理矢理甲虫を持たせた。
「久方振りにやってみたいのですが、相手がいないのです。…夕餉までの、暇潰しに…」
「………ん」
義信は苦笑して頷き、翔隆と共に庭に出て遊んだ。
「…済まんな」
ぽつりと義信が言う。翔隆は微笑んで首を横に振る。
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