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二章 変転

十八.太郎義信

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  すっかり元気になり、四郎のお守りに慣れたのは六月になってからだった。
長雨で気が滅入るような天候が続いたが、今日は久し振りにカラッと晴れた、良い天気だった。

家臣になった以上は何かしなくてはならないと思い、翔隆は台所の調理の手伝いをしていた。
ここでの身分はまだ無いのだが、晴信はまだ体調を気遣ってくれているらしく、ゆっくり休養するように、と言われているのだ。
 手伝いも終えて、翔隆は縁側からぼーっと庭を見つめる。
〈…ここには、一族が来ないようで安心だな〉
安心なのはいいのだが、武田の皆に無視されて何やら淋しい。
そこに、ズカズカと足音を立てた若者が小姓らしき者を二人引き連れてやってきた。
「お前か! 織田の細作というのは!」
「あ、はっ、いえ…あの……」
突然の言葉に戸惑うと、若者は目を吊り上げて言う。
「わしは武田太郎義信。晴信が嫡男じゃ!」
「太郎様……!」
名こそ聞いてはいたが、会うのは初めてだ。
義信は厳しい顔をして、まじまじと翔隆を見て言った。
「成る程、父上が好みそうな小姓じゃ」
その言葉に、翔隆はカッとして反論する。
「俺は小姓じゃありません!!」
「では、色小姓か」
「なっ」
「それだけの美男ならば、夜の相手もさぞ疲れように」
「………!」
ここまで言われて、腹の立たぬ者はいない。翔隆は、言葉より先に手を出してしまった。
 バシッ… 平手打ちである。
怒りにまかせ、拳で殴る前に平手に留めたのだが…どちらにしろ、手を挙げた事に変わりはない。
「…貴…様ぁ…!!」
義信も自尊心が高い。言うが早いか刀を抜いて、切り付けた。
―――だが、翔隆はヒラリとそれを躱して、庭に降り立つ。
「! この…っ! 鼠のようにちょろちょろと!」
 その騒ぎを聞き付けて馬場信房のぶふさ(後の馬場信春)と、丁度 小諸城から来ていた春日虎綱とらつながやってきた。
「何事にござりまするか?!」
「うるさいっ!!」
そう怒鳴り、義信は尚も翔隆に斬り掛かる。
〈…なんだか、まるで〝だだ〟をこねる子供のようだな…〉
翔隆はそう思い、諌めるつもりで義信の虚を衝いて腹を思いきり殴った。
「げぶっ…!!」
途端に、義信は前のめりに倒れて吐く。
「何と無礼な!」
馬場信房が蒼白して駆け寄ろうとするが、虎綱がそれを制する。
様子を見ろ、と言いたいのだろう。
翔隆は、激しく咳き込む義信の前に跪く。
「太郎様、申し訳ござらん。されど、これも貴方様の為。嫡子たる者、何時如何なる時でも冷静であり、やたらと感情に左右されてはならぬという事、お分かり下され! お館様の御子として、堂々となさりませ!!」
「……!」
見ていた者達は、言葉を失い立ち尽くした。その内、義信は立ち上がり口元を拭く。
そしてニヤリと笑った。
「お主、やるな。…見かけ通りのじゃ」
「お褒め戴き、光栄です」
「さようかっ!」
バキッ 言った瞬間、義信は翔隆の顔を殴った。
倒れずにその場に踏み留まると、翔隆は口の端から流れた血を拭う。
「………」
「………」
二人共何も言わずに、ひきつったような笑みを浮かべて見据え合う。
と、いきなり大声で笑い手を握り合った。
「何と……」
馬場信房が呆気に取られて呟くと、横で春日虎綱がくすっと笑う。
「何がおかしい!」
「いや、失礼。…馬場どのは、あの男の本質がお分かりでないと思うたら、つい。いずれ、時があれば…一度ゆるりと、あの者と話したいものですな」
「……お主は…」
「されば、ご免!」
そう言って春日虎綱は立ち去った。
「酒でも飲むか。…四郎の端午の折に手に入れた越後の極上の酒がある」
「それは馳走になります」
義信と翔隆はもう仲良く肩を並べて、笑い合って歩いていった。
信房は、溜め息を吐いてその場を後にした。



 東曲輪の、義信の屋敷。
二人は月を見ながら酒を酌み交わしていた。
「済まんな」
ふいに義信が口にしたのは、謝罪の言葉だった。
「いえ…」
翔隆は、首を振って微笑んで答える。
すると義信は、苦笑しながら月を見上げた。
「―――わしは、この武田を率いれるかの…」
「太郎様…何を弱気な!」
「今川の娘をな、この二月に娶ったのじゃ」
「今川の…っ!」
「うむ。政略結婚―――…同盟の証
だ。だがな…今川や北条と同盟を結んだとて…いや、今はいい。だが…次の代になれば、それは無意味になるような気がしてならんのだ」
「それは……」
「聞けば北条の嫡子、新九郎氏政は政にばかり秀でており、今川嫡子の彦五郎氏真は玩具に夢中との事。いかに相模守、治部大輔じぶたいふが優れていようとも、死した後は、どうなると思う…?」
痛い所であろう。嫡子が立派な者であれば、そんな心配はいらない。
…が、全くそのままに成長した場合は…?
〈…そう、か…。氏真うじざね蹴鞠けまりばかりしていると聞く。だからこそ…義成を……〉
さもなければ義元の死後、氏真がそのままであれば…それこそ狭霧の思う壷であって…。
嫌でも考えさせられる。
「恐れながら、若さま」
後ろから義信の目付家老であり、飯富おぶ源四郎昌景(後の山県昌景)の兄である飯富兵部少輔ひょうぶしょうゆう虎昌が言った。
「何だ」
「はっ。胸中の苦しみはお察し至しまするが、これもお家の為。同盟は無益な血を流さぬ為にござる。何とぞ姫さまを大事に…」
「…分かっておる。兵部は心配性で困る」
そう言って義信は苦笑した。そして、真面目な顔をして翔隆を見る。
「しかし、不思議よのぉ…」
しみじみとした言葉に、翔隆はハッと現実の世界に引き戻される。
「…何が、でしょうか…?」
「わしは今まで、この兵部にしか心底を明かした事がなかった。だが…お主には、何故か安心して話せるのだ」
「それは光栄で…」
「織田家臣、と聞いたが〝織田〟という名は初めて聞く。いかな武将か、教えてくれ」
「はっ…そう、ですね…」
翔隆は急に優しい表情をして、懐かしい主君を心に想い描いた。
「今は、まだ尾張という小国の大名にすぎませぬが……いつかは、必ず世に名を馳せるお方です」
その言葉に、義信は苦笑する。
「ほお…また随分な買い被りだな。して、どのような人柄なのじゃ?」
「…いつも野を駆け、山を越え、川で泳ぐ…とても明るく、大胆で…。時に〝能〟を舞い、家臣と共に楽しまれておりまする」
「能とは?」
「幸若の〝敦盛〟がお好きです。小唄なども…」
「ふむ…お主、舞えるか?」
「はあ、〝敦盛〟の一番だけならば…、何とか覚えているかと…」
とはいえ、信長は〝敦盛の一番〟しか舞った事がないのだから当然なのだが…。
「なれば、七夕の節句の折に舞うてくれぬか?」
「は?」
「父上に、そう進言しておく故。…楽しみじゃな」
そう言うと、義信は悪戯っぽい笑みを浮かべて、酒を呑み干した。
これでは、断りようがない。
〈不安だが、仕方ないな…〉
こうなったら間違った舞を踊る訳にも、失敗する訳にもいかない。
翔隆も酒を呑み干しながら、懸命に信長の舞っていた〝敦盛〟を思い出していた。
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