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第三十話 〈1〉

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 魔王も完全に消滅したし、魂の共有によってお嬢様も無事に意識を取り戻したし、無事にみんな揃ってハッピーエンド。
 そういう風に収まればよかったのだが、事態はそう簡単には行かないようだった。

 魔硝石の寝台で目を覚ました俺とお嬢様は、すぐに異常事態が起きたことを察した。
 二つの寝台の間、ちょうど視界に入る位置に、緊迫した面持ちの王妃殿下が立っていらっしゃる。ルナ嬢と所長の姿がないのは、恐らく万が一にも耳に入れずに済むように、だろう。

 一難去ってまた一難、というやつである。意識を失う前に声を聞いたような気もしたので、王妃殿下がこの場にいること自体にはさほど驚きはしなかったが、殿下の顔に浮かぶ表情から、状況がかなり不味い方向に転がっていることは察した。

「聖女リーザローズ。魔王討伐直後に申し訳ありませんが、今しばらく貴方の力を借りたいのです」
「殿下がわたくしを必要となさるのならば、無論いつだって力になりますわ」

 力強く答えるお嬢様の声に迷いはなかった。先ほどまでの病的な青白さこそないものの、とても平常通りとは言えない顔色であるにも関わらず、だ。
 勢い任せに寝台から降りようとした結果、重力に逆らい切れずに崩れ落ちかけたお嬢様の身体を、すんでのところで支える。

「起き抜けに無理をしないでください、また倒れますよ」
「別に、無理なんてしていないわ」
「なんと。あれほどの無茶をしておきながら自覚がないとは、恐ろしさに私の方が気絶しそうです」

 あの時、あまりにも肥大化した憎悪を前にして、お嬢様は無意識に魔王を完全に消滅しきる威力まで光魔法の出力を上げたのだろう。魂の限界を、意志の力のみで凌駕した訳だ。
 そして今、魂の共有によって半減したとはいえ、疲労を抱えたままの身体で更に光魔法を使おうとしている。全く困った主人である。いくら心配しても足りねえな。

「言っておくけれど、お前にわたくしを責める権利はなくてよ! 無茶ならば、お前の方が先に仕出かしたのだからね!」
「返す言葉もございませんね。よってこの話は終いです、殿下の要件を伺いましょう」
「に、逃げたわね! 卑怯者!」

 大人は卑怯でずるいのだ。というか、別に俺にお嬢様を責めるつもりなど一切ない。世界を救った英雄の何を責めろというのか。単純に、心配で小言が増えているだけである。
 口調だけは勇ましいが、依然として体調は本調子ではない。立ちあがろうとする度にふらつく身体が見ていられず、とりあえず横抱きにして支えた(多分、この先移動の必要性が出てくるはずだと判断した)ところ、お嬢様は急に静かになった。よし、そのまま安静にしていてくれ。

「何が起こったのか尋ねてもよろしいですか? この通り、お嬢様は魔王戦で疲弊しております、場合によってはお力になれない恐れもあるかと」
「リュナンが倒れました。聖女リーザローズでなければ解決は出来ない事態です」
「…………陛下は何方に?」

 訝しげに目を細めた俺に、王妃殿下は出入り口にさっと視線を走らせてから、殆ど唇を動かすことなく、囁くように答えた。

「地下牢に。リュナンの希望です」

 おっと、果てしなく嫌な予感がしてきたぞ。
 お嬢様の力──つまりは光魔法が必要で、陛下自ら地下牢──身動きと自害を封じる措置の施された場所に赴かなければならない状況。俺の頭の端に、苦悩する陛下の顔が浮かぶ。

 陛下はずっと、得体の知れない不安に悩まされていると言っていなかっただろうか。不安と焦燥。その権化と相対した今、俺の脳裏にはひとつの仮説が浮かんでいた。

 ……この世界で『記憶の持ち越し』の処理が出来るのは女神だけである。ラピスがカコリスにそれを施そうとしていたのだから、当然そうだろう。だが、ラピスの干渉していない状態で、陛下はずっと記憶を保持したまま歴史を繰り返していた。そして、ラピスは陛下の存在自体にあまり重きを置いていない、意識をしていないように見えた。常時ではないとはいえ世界を観測している割に、扱いが不自然だ。

 複製品だろうと、女神は女神である。その女神ラピスと同質の力を持ち、尚且つかの女神の目を欺けるとしたら、それは本来の女神ミアスであるはずだ。……そして、魔王はミアスより切り離され、肥大化した憎悪という力の塊。恐らくだが、ラピスを欺くくらいのことは出来るに違いない。

「魔王に関する事態ですか」
「…………リュナンの身に残滓とも呼べる存在が隠れ潜んでいたわ」

 確信を得るべく尋ねた俺に、王妃殿下は薄らと青ざめた顔で頷いた。そこには陛下の身そのものを案ずる思いと、国王という立場のものに魔の王が侵食していたという事実に対しての懸念と恐怖があった。立場と感情が、忙しなくぶつかり合っているのが抑えた表情からでもよくわかる。

 腕の中のお嬢様を見下ろす。真剣な顔で王妃殿下を見つめていたお嬢様は、不意に俺を見上げると、意志の通った声で告げた。

「ヒデヒサ、地下牢へ急ぎなさい。陛下をお救いせねばならないわ」
「承知しました。一刻も早く向かいましょう。殿下、先導をお願い致します」
「ええ、此方へ」

 頷けば、王妃殿下が足早に研究室を出る。お嬢様を抱え直し、その後を追う。まだ仕事が残っているのだから、余計な体力を使わせる訳には行かない。お嬢様も体力の配分に文句はないのか、移動に適した体勢が取れるように腕が回された。

「……此処まで来て、尚も陛下を苦しめるだなんて、許し難いわ」

 歯噛みしたお嬢様が、悔しげに呟く。そこには陛下の内に隠れ潜む闇の気配に気づけなかった自身への憤りも含まれているように思えた。
 だが、外界に顕現していない魔の王に、此方から干渉する術はない。性質から考えるに最後の保険として残されていたのだろう残滓が、容易に気配を悟らせるとも思えなかった。

 答えを求めての呟きでないことは分かっている。俺に出来るのは救いの一手となるお嬢様を、陛下の元まで無事に届けることだ。

 本来は王家の者しか知らないのだろう通り道を選んで足を進めれば、目的地に近づくほど人気のない暗がりに繋がっていく。王城の一階、倉庫として使われているらしい場所の更に奥へと向かい、錆びた扉に王妃殿下が触れ、隠匿の為に施された魔法を解く。ちょうど、第三資料室の隠し扉と同じ要領のものだ。

「────この先です」

 開かれた扉の向こうはひどく暗く、湿気を帯びた空気が漂っている。記憶としてちらついたのは、公爵家の懲罰室だった。懐かしい思い出だ。別に、一切懐かしみたくはないが。
 石製の階段が、下へと続いている。お嬢様を抱えたまま見下ろしていると、奥の方から微かに声が聞こえてきた。

 呻き声、に近い。獣の唸り声のようにも聞こえる。何にせよ、人のものとは思えない響きのそれが、暗がりから這い出るように響いていた。
 殿下の白い顔から、更に血の気が失せていく。だが、それでも意を決したように足を踏み出した殿下の前に、闇の中から抜け出すように一人の男──旦那様が姿を現した。

「ルヴァ! リュナンは──、」
「君は見ない方がいい」

 端的な進言だった。全ての反論を切り捨てるようにして言い放った旦那様は、戸惑いと共に詰め寄ろうとした王妃殿下の肩をそっと押さえ、静かに押し返した。

「何を言うのです、私は」
「リュナンは君には見られたくない筈だ」

 真剣な顔で告げる旦那様に、殿下は一瞬、何からの言葉を紡ごうと口を開きかけたが、すぐに目を閉じ、小さく頷いた。

「……此処は任せます」
「御意に」

 礼を取った旦那様が、王城内へと戻る王妃殿下を見送る。陛下が不在の今、王妃殿下までが姿を消している訳にはいかないだろう。踵を返した殿下の顔は、既に普段見慣れた慈愛と威厳に満ちた妃殿下の顔へと戻っていた。
 背後で扉が閉まる。隠匿魔法が再び効果を発揮したようで、外の音はすぐに断絶された。此方の音も同様だろう。

 改めて、旦那様が俺たちを見下ろす。制服に身を包んだ身体の至る所に酷い裂傷があるのが見えたが、息を詰めて見つめるお嬢様がその傷に触れるより早く、旦那様は軽く顎をしゃくって俺を促した。

「そのままで良いから付いてこい」

 そのまま、とは。などと聞くまでもない。この様のことである。
 良いとは言われたものの、お嬢様はすぐに腕を解くと、勢いよく俺から降りた。暴れるとまた倒れますよ。足を進めようとするお嬢様を、それとなく、存在感を消しつつ支える。

「じ、自分で歩けますわ」
「リザ、無理はするな。お前には既に十分無理をさせているし、……この後も無茶をさせる」
「問題ありません。陛下をお救いする為ですもの」

 廊下は冷えているが、湿度は高い。じっとりと肌に張り付くような嫌な空気が漂っている。その奥から、人の言葉を成さない呻き声と、時折暴れているのか、牢に身体を打ちつける音が響く。
 三人分の足音がそこに重なり、薄暗く照らされた空の牢がしばらく続いた後、旦那様はある地点で足を止めた。

「此処だ」

 掠れた声が指し示した先では────人の形をした何かが、冷えた石の床を這いずっていた。
 出来る限り拘束したのだろう身体は手足が縛られているが、その手は壁を掻きむしりでもしたのか、爪がほとんど剥がれてしまっている。
 舌を噛まぬようにと用意されている猿轡越しに、唸り声が漏れ聞こえる。その全てが怨嗟の声である、と言葉を聞かずとも分かるのが、どうしようもなく悍ましく、そして、痛ましかった。

 陛下の身体は、最後まで抵抗を続けたのだろう。片腕には、魔王を前にした時の若い騎士団員と同じように、自傷の跡が色濃く残っていた。そのまま放っておいたら後遺症すら残りそうな傷である。

 一刻も早く、魔王の残滓から陛下を救い出さなければならない。
 お嬢様も思いは同じだったのか、陛下の姿を見とめるや否や、ふらつきながらも牢へと駆け寄った。

 その瞬間、拘束を引き千切った・・・・・・陛下が、影に忍ばせていた短刀を握り、お嬢様目掛け、檻の隙間から突き立てた。
 否、突き立てようとした。
 未遂だ。
 俺が陛下の手首ごと蹴り飛ばしたので。

 …………上手いこと短刀だけを吹っ飛ばせたが、本来人間には解きようがない拘束を無理に解いた陛下の腕は、元々の傷と相まって酷い有様になっている。少しの刺激でも痛むだろう。
 ああ、くそ。やっちまったな。もっと上手いこと防げただろうが。届いたところで伝わりはしない謝罪を口にしつつ、お嬢様へと目を向ける。

「……お嬢様、お怪我はありませんか」
「問題ないわ。でも、これ以上手は出さないでちょうだい。陛下のお身体に不要な怪我は負わせたくはないわ」

 反射で身を引いていたお嬢様が、落ちた短刀を拾い上げる。
 恐らくは王家に伝わるものだろう、美しい装飾のついたそれを丁寧な手つきで俺に預けたお嬢様は、唸り声を上げる陛下を、じっと、静かに見つめた。

 俺と同じくお嬢様を庇おうとした旦那様は、しかし、数々の裂傷が痛むのか、鈍く微かに声を漏らすと、不恰好に足を止めた。脇腹を抑えている辺り、肋骨も幾つか折れていると見える。

「旦那様、下がっていて下さい。拘束時に負った傷が酷いでしょう、それ以上動かない方がよろしいかと」
「…………俺は、…………いや、……頼んだ」

 躊躇うように呟いた旦那様は、それでもそれ以上言葉を続けることはなく頷き、壁際へと身を引いた。壁に背を預けて座り込んだところを見るに、旦那様の限界も近かったのだろう。そもそも、此処に来る前も各所で起きた予兆対策への指揮を取っていた筈だ。疲労がない訳がない。

 お嬢様は依然として、暴れ回り、牢を破壊してでも己を殺そうとする陛下の身体を一心に見つめている。恐らく、残滓の所在を確かめようとしているのだろう。
 強く歯噛みしたお嬢様は、あらゆる感情を飲み込むように息を吸い、細く吐き出すと、吐き捨てるように呟いた。

「…………許し難い暴挙ですわ」

 陛下を見つめるお嬢様の横顔には、抑え切れない怒りが浮かんでいた。真紅の瞳が、燃えるように輝いている。というか、実際結構輝いている。いつものことだ。
 身体の両脇で握られた拳は、もはや爪を強く立てすぎて微かに血を滲ませている。全身を怒りに震えさせたお嬢様は、陛下から目を逸らすことなく、恐ろしいほど静かに命じた。
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