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第二十九話 〈1〉

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 魔王が聖女の一撃によって滅されたのと同時刻──リュナンの身には、明らかな異変が起きていた。
 魔道師団による観測所の一室。要人のみに入室を許されたその部屋で、リュナンはひとり、己の身の内に潜む不安の正体を悟った。

 不安。絶望。恐怖。そして、紛れもない憎悪。
 これはあの厄災と同じものだ。魔の王の一端が、己の身の内に巣食っている。

 胃の腑を内側から焼かれるような痛み。締め付けられるように痛む胸を押さえ、リュナンは呻き声と共に椅子から崩れ落ちた。
 床に片手を突き、激痛に苛まれる胸元を強く握る。近衛を扉の向こうで待機させていたのは良い判断とも言えたし、悪い判断だとも言えた。

 人目を遠ざけたのは、魔王の顕現を前にして取り乱すことがないと断言はできなかったからだ。その存在を感じるだけで、リュナンはみっともなく喚き散らし、全てを放り出してしまいたくなる。
 こんな人生の繰り返しに何の意味がある、と。もう辞めてくれ、他の誰でも良いじゃないか、と。

 どうして私なんだ。どうして。尽きぬ疑問は、これまでもリュナンの思考の片端に常にあった。
 リュナンは自分を特別な才能を持って生まれた人間だとは思っていない。だというのに何故、神に選ばれたかのように記憶を宿して世界をやり直しているのか。その疑問の答えを、今になって理解する。

 あの災厄は、世界を跨ぐものだ。異界より顕れる、超常の存在である。
 その一端がリュナンの身体に隠れ潜んでいたというのなら、存在と共に記憶を引き継ぐ程度は自然と起こりうる事だろう。

 あの災厄の欠片は、リュナンの中でずっと息を潜めていたのだ。これまで存在を顕すことがなかったのは、今までの歴史で一度も魔の王を完全に消滅させていなかったからではないだろうか。
 恐らくだが、永遠にも等しく続く憎悪の権化は、自身が完全に滅された時の保険として、人の身に潜むことを選択したのだ。

 冷や汗が頬を伝い、落ちる。振り返れば、己の影が、嘲笑うかのように大きく口を広げて笑っていた。リュナンの精神を全て飲み込もうとするそれを、なんとしても退けなければならない。

「この……!」

 彼が反射的に懐刀に手を伸ばしたのは、偏に民を、臣下を、そして愛する妻を守る為だった。
 あれは聖女を狙っている。自分を倒す唯一のものを、操ったリュナンを使って殺す気でいる。それを阻む者がいるならば、きっと容赦はしない。

 折角希望を掴んだのだ。聖女は魔の王を討ち倒し、ようやく、此処から新たな歴史を刻む事ができる。
 その希望を、ここで潰えさせる訳にはいかなかった。

 リュナンの意志とは関係なく動き出そうとする身体を、己の左手に刃を走らせることで食い止める。失われかけた正気は、切り裂かれた肉の痛みに一時、理性を取り戻す。

 しかし此処で一人抗い続けたところで結局は飲み込まれるしかあるまい。予兆ならともかく、魔の王を退けられるのは光魔法のみだ。
 聖女がこの城に辿り着くまでにどれほどの時間がかかるかも分からない。

 自害という選択肢が頭の片隅にちらつき、すぐに切り捨てる。魔王が無事に倒された今、国王が自ら命を落とすなど要らぬ混乱を招くだけだ。しかし、この身を使われ、臣下や聖女を傷つけたとしても同じことになる。
 国王がその身に『魔王』を宿していた、などと知られれば、国民の心には不信の影が差すだろう。

 信頼出来る者を呼び、事態を説明し、リュナン自身を拘束してもらう必要がある。荒唐無稽な話を信じてもらえるだけの相手を。
 浮かぶ選択肢は幾つもある。それらを掻き消すのは、これまでに味わった悲惨な歴史の記憶だ。リュナンはこれまでの歴史で、自分の中で『信頼』という感情がどうしようもなく擦り減り、既に使い物にならなくなっていることを察している。

 今更誰に託せばいいのだろうか。
 恐怖に飲まれそうな心は正常な判断力を失っていく。
 このまま飲み込まれ、自我が消えた方が幾らか楽ではないか。疲弊し切った心が弱音を吐きかけたその時、────ふと、真っ直ぐに此方を見つめる緋色の輝きが脳裏に浮かんだ。

 リュナンの代わりに女神の憎悪たる魔王を殴ってくると言い切った少女。これまでの歴史では魔王にも匹敵する災厄だった彼女は、この世界では、信頼に足る聖女となった。

 それが誰によるものかなど、リュナンはもう充分すぎるほどに知っている。この世界は、リュナンの味わってきた絶望に満ちた歴史を辿ることはない。否、辿らせてはならないのだ。
 歯を食い縛り、立ち上がる。扉に向かうまでに呼吸を整え終え、口を開く。

「伝令を頼む。ルーヴァン・ロレリッタと、王妃フレアに、至急この部屋に来るように伝えよ」

 リュナンは平静を装い切った声で告げると、足早に去る兵の足音を聞きながら、正気を保つべく傷の入った左手を強く握り締めた。



 祈るように目を閉じてから、どれほどが経っただろう。扉が開く音が、リュナンの耳へと届いた。駆け寄ってくる足音は二人。

「────リュナン!」

 焦りを含んだフレアの声が響く。リュナンは薄らと目を開き、ぼやけた視界に自身の妻と、親友の姿を捉えた。次いで、目も当てられないほどに切り裂かれた自身の左腕が目に入る。

「一体どうしたのです、これは……!」

 どうやら無意識の内にも抵抗を続けていたらしい。酷い有様だが、リュナンの身体は未だ彼自身の意志の元にあった。
 横たわるリュナンの身体を、ルーヴァンが支える。怪我の状態を正しく見極めた彼は、持ち合わせの道具で軽い止血を試み、止め処なく溢れる血に眉を顰めた。小さく舌打ちが響く。

「俺達は何をすればいい?」

 端的な問いだった。聞きたいことは山程あるだろう。だが、ルーヴァンは全てを飲み込み、ただ静かにリュナンへと問いかけた。

「私を、地下牢へ」

 王城の地下にある牢は、古い歴史では重罪を犯した王族を幽閉するために存在している場所だ。容易く出られるようには出来ていないし、最悪、牢の外から罪人に近づくことなく処刑が出来る。
 いつ精神を乗っ取られ、王の身体を使って殺戮を始めるとも分からない身を閉じ込めるには最適な場所だ。

 青ざめた顔でリュナンを見下ろすフレアが一瞬、信じられない言葉を聞いたように目を見開く。だが、大きく一呼吸置いた彼女は、瞬きの間には冷静さを取り戻した。取り戻したように見せた、とも言えるかもしれない。

「必要なことなのですね?」
「ああ、そうだ」
「分かりました。貴方がそう言うのであれば、そのように致しましょう」

 頷いた彼女は迷いなく立ち上がると、室内に用意された仮眠用の毛布を手に取り、リュナンの身体を包み込むようにそれをかけた。
 体調不良だと言うことにしても、これだけの傷を臣下の目に晒す訳にはいかない。明らかに自傷によるものだと分かっている傷だ。

「…………何も聞かぬのだな」

 ルーヴァンに支えられよろめきながらも立ち上がったリュナンを、フレアが振り返る。

「貴方が話したいと思う時まで待つ覚悟など、とうに出来ております。
 仮にこの先、今際の際に至っても私に伝えたくはないと思ったのでしたら、どうぞそのようになさってください。私と貴方の関係が、その程度のことで揺らぐようなものだとは思っておりません。
 それに、たとえ貴方が私を信頼仕切れなかったのだとしても、そんなことは私からの敬愛と信頼に一つの翳りも齎しませんわ。
 私は、私の信念と意志によって貴方を愛しているのです。貴方から与えられるものがどうかなど、私の意志と愛には関係がありませんの。お分かり?」

 淡々と、まるで条文を読み上げる時のような声音で言葉を紡ぐフレアの瞳は、それでも微かに揺らいでいた。アイスブルーの瞳に、薄い涙の膜が張る。だが、それが雫となって零れ落ちることはない。
 フレアは王族となるに相応しい気位と、民を想う慈悲を持ち合わせた、素晴らしい女性である。欠点がないとは言わないが、少なくともリュナンはそのように感じているし、どの歴史でも己の妻はフレア以外にはいないと思っていた。

 リュナンは間違いなく、心の底からフレアを愛している。
 これまでの歴史によってリュナンの心に揺らぎが生まれていたとしても、その揺らぎすら包み込んで愛してくれる女性だ。彼女は人を愛するという行為に、己の意志と、信念を持っている。

「だから私が貴方に望むことはただ一つ、天寿を全うしてくださることだけですわ」

 きっぱりと言い切ったフレアは、リュナンの言葉を待つことなく人払いを済ませると、ルーヴァンと共に人目を避けるように廊下を進み始めた。凛とした背中を見つめながら、リュナンは静かに、意識もしていない呟きを零す。

「まったく……、私には勿体無い女性だな……」
「よくお似合いかと思いますが? 王都で理想の夫婦を聞かれたら大抵は国王夫妻と答えるそうですからね」

 意識を保たせる為の声かけを兼ねた軽口に、リュナンは小さく苦笑した。ルーヴァンのこういった面を見る時、リュナンは確かに『あの男に似ている』と感じる時がある。ルーヴァンの方が先に生まれているのだから、あの男──カコリスの方が彼に似ているというべきかもしれないが。

 ルーヴァンに言ったところで信じられないものを見る目で「正気ですか?」と言われるのが落ちだろうから、口に出すつもりはない。そういうところが似ているのだ、と笑ってしまう訳だが。
 きっと、彼らは似合いの家族となることだろう。未来に約束された幸福の形の一つに思いを馳せながら、リュナンは改めて、この先の希望を守らなければ、と覚悟を強めた。

 それにしても。自分がこのような頼み事をする日が来るとは思わなかった。朦朧とする意識の中、小さく笑みが浮かぶ。

 脳裏に滲むのは、過去の歴史の記憶だ。過去のフレアは意を決して真実を話したリュナンを気狂いだと断じ、地下牢に閉じ込めた。飢えと不浄、信頼を成せなかった絶望に包まれての死は、未だに思い出すだけで心が乱れ、苦痛に胸を掻き毟りたくなる。

 そんなフレアに、まさか自ら地下牢に閉じ込めてくれ、などという日が来るとは思わなかった。それも、自死のためではなく、希望を繋ぐために。
 込み上げる笑みは自嘲の形を取る。それが決意を秘めたものに変わる頃には、目的地が見え始めていた。
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