上 下
54 / 102

第十八話 〈3〉

しおりを挟む

「申し訳ありません、お嬢様。次からは本気で臨ませて頂きます」
「それはこれまでは本気を出していなかったと言うことかしら? どこまでも舐め腐った執事ですわね!」
「現状での全力は出しておりましたが更に努力致します、という意味でございます」
「嘘よ! お前はどうせ余裕ぶって勝つ気でいたのだわ! だから着替えも用意していなかったのよ! その上あんな格好を見せつけるような真似を!」
「これは本心から申し上げますが、四学年に上がってからお嬢様は確かに見違えるほどお強くなられました。お嬢様が思われているほど余裕があった訳ではございませんし、今日のシャンデュエでも手を抜いた訳ではありません。単に私の気構えの問題でございます」
「ふん! 言葉ではなんとでも言えるわ! 着替えを用意しなかったという態度そのものに出ているのよ! お前の心の底がね! だからあんな格好を見せる羽目になったのだわ!」
「確かに仰る通りです、その点に関しては何の反論もございません。ですのでこれからは心を入れ替えます、と申し上げております。ところで、『あんな格好』とはどの格好のことでしょうか。以後気をつけたく思いますので、教えて頂けませんか」

 そんなに言われるような格好をした覚えはないんだが。地べたに這いつくばったことを指しているのだとしたら、それをしたのはお嬢様である。地に伏せた従者にのしかかって腕まで捻じ伏せているのである。そこまで怒られるような謂れはないと思うんだが。
 単純な疑問から尋ねた俺に、鏡越しのお嬢様がぐっと言葉に詰まるのが見えた。

「…………あんな格好? ど、どんな格好のことかしら。そんなことは言っていないわ」
「二回ほど聞いた覚えがあるのですが」
「わたくしは覚えていないわ。つまり言っていないということよ」

 何処ぞの政治家のようなことを言いよる。が、思い当たる格好がないので、本当に聞き間違いだったのかもしれない。
 もしくは、やっぱり言わなくてもいいようなことだったのかもしれない。

 左様でございますか、と流すことに決めた俺に、お嬢様はしばらくやり場のない感情を逃すように視線を彷徨わせたあと、何か思いついた様子で口を開いた。

「そういえば、お前に敗北を与えた記念すべき日だというのに、わたくしを讃える言葉のひとつも聞いていないわね!」
「お嬢様を敬愛する御令嬢方から散々頂いていたかと思いますが」
「打ち負かした相手から敗北の宣言を受けることこそ勝者の特権であるはずだわ!」

 うーん、やはり当家のお嬢様は性根が曲がっていらっしゃる。

 ご機嫌に鼻を鳴らしたお嬢様は、誇り高き勝者として俺からの敗北宣言を受ける気満々の顔で鏡越しにこちらを見つめていた。
 誇りある勝者が敗北宣言をねだるか否かはさておき、更に言えば動機の不純さも傍に置くとして、これまで欠かさず己を鍛え上げることに注力していたお嬢様の努力は認めるべきところである。

 本当に、動機はともかく、努力家でいらっしゃることは確かなのだ。

「いいでしょう。お嬢様の悪趣味さには辟易しておりますが、勝者の特権であることも確かでございます」

 乾かし終えた髪を絹のリボンでまとめ、軽く横に流す。寝るときに邪魔にならない位置に落ち着けつつ、俺は昼間からうっすらと抱いていた疑問を口にした。

「それで? 敗北の宣言とはどのようにすればよろしいので?」
「ど、どのように、って、何よ」
「散々仰っていたではありませんか。私を這いつくばらせて踏み台にするのがお望みだったのでしょう? 何でしたか、ふん縛って踏みつけて『この憐れなセバスチャンに慈悲を下さいませ』と泣かせてやりたかったとか。では、縛られた方がよろしいですか?」
「はっ!? そん、それは、なっ、何年前の話を持ち出しているのよ!!」
「四年以上前の話ですかね」

 思わず懐かしくなって笑ってしまった俺に、お嬢様は真っ赤な顔で頬を膨らませた。
 明確な発言自体は四年と十ヶ月ほど前であるが、意味合いとしては似たようなことは常々言っていたように思う。勝利者の権利としてやりたいことは変わっていないのだと思って持ち出したのだが、どうやらお嬢様の中では想定にはなかった切り返し方だったらしい。

「しかし困りましたねえ、縄の手持ちがありませんので、倉庫から持って来る他なさそうです。少々お待ちいただけますか?」
「子供の戯言を本気にしないでちょうだい! 縄なんて要らないわよ!」
「では踏みつけるだけで構わないということですね。首を垂れますので好きなようにしてくださいませ」
「ふ、踏むのも別にいいわ! お前はただ、その、わ、わたくしに負けたことを認めればいいのよ!」
「おやおや、あんなに踏みたがっていたではありませんか。どうぞ遠慮なさらずに」
「結構よ!!」

 かつてないほどの大声で叫んだお嬢様は、そこでようやく揶揄われていると察したのか、首まで真っ赤に染まった顔で、きつく眉根を寄せた。眦には涙まで滲んでいる始末である。
 幼少期から高飛車極まりない物言いを繰り返していたお嬢様だが、プライドの高さと性根は変わらずとも、淑女としての恥じらいは持つようになったらしい。

 実際に踏まれたところでそれで気が晴れるならば思うところは一つもなかったのだが、結構だと言われてしまったのならば他の方法を取るべきだろう。別に嬉々として踏まれたかった訳でもないし。

「ではお嬢様、方法は私にお任せくださるということでよろしいですか?」
「…………よろしいわ」

 これ以上何も言葉にしたくない、とでも言いたげな態度で唇を引き結んだお嬢様は、前方に回り込んだ俺が膝をつくのを見ても尚、どこか拗ねたように此方を睨み下ろしていた。
 ちょっとやりすぎたな。俺もなんだかんだで負けず嫌いということだろうか。

 誤魔化しをこめて苦笑を浮かべるも、お嬢様からは胡乱げな視線が返ってくるばかりである。
 せっかくの記念すべき勝利の日に水を差すなんて、とんだ無礼者だわ、と思っているのがありありと分かる視線だった。

「この六年半、私はお嬢様を側で見守っておりました。まあ、見守るというよりしばき倒していたかもしれませんが、ともかく、お嬢様を最も側で見てきたのは私だと自負しております。
 故に、私は誰よりもお嬢様の変化と成長を強く感じています。信じ難いことに、お嬢様は私が予想していたよりも素晴らしい御令嬢へと成長なさっています。
 仮にお嬢様がこの世で最も尊ぶべき聖女ではなかったとしても、公爵家の御令嬢ではなかったとしても、これまで積み重ねてきたお嬢様の努力そのものに敬意を払います。
 お嬢様は間違いなく私の仕えるべき主人であり、私は此処に職務としてだけではなく、リーザローズ・ロレリッタ様に心からの忠誠を誓いましょう。
 以上を持って、私の敗北宣言と致します。
 改めて、おめでとうございます。よもや在学中に私を打ち破る日が来るとは思ってもみませんでした。随分と成長なさいましたね、お嬢様」

 何を話すかは特に決めていなかった。何なら、お嬢様を喜ばせるために適当に無様な敗北宣言をしてもいいか、とすら思っていた。

 だが、口をついて出たのは素直な祝いの気持ちだった。実際、入学してから四年半、そして公爵家からの付き合いでいえば六年半の時を経たお嬢様は、当初からは予想しなかったほどに真っ当に成長していた。

 ここらで本当に尊敬しているのだと示しておいてもいいんじゃないか、と思ったのである。

 常日頃は染み付いた習慣で嫌味の応酬みたくなってしまうので、こうした機会でもなければ改めて想いを伝えることなどできそうになかったのだ。そもそも、信じてもらえそうにもないし。
 まあ、この場面でも信じてもらえるかは怪しいところだが。

 一応は最上級の礼を持って頭を下げた俺に対して、お嬢様はしばらくの間、黙り込んだままだった。
 おっと、もしやドン引きされてしまっているのだろうか。そりゃそうか。縄で縛るだの何だの言い出した後に突然真摯なことを言い出しても『なんだこいつ』でしかないだろう。

 タイミング間違えたな~、と密かに一人反省会を始めていた俺の耳に、微かに強ばった声が届いた。

「顔を上げなさい、ウスノロ」
「は」

 命じられるままに顔を上げる。常にふんぞり返っているお嬢様のことだから今もふんぞり返っているのかと思っていたが、赤い顔で眉を寄せるお嬢様は、何かを堪えるような表情で持って、少しばかり俯いている様子だった。
 揃えられた膝の上に置かれた両手が、何処か居心地悪そうに指同士を遊ばせている。手の甲を引っ掻くように爪で皮膚をなぞっていた左手が落ち着いたころ、お嬢様は喉の奥に小骨でも詰まったかのような口振りで呟いた。

「お前は本当に……本当に、不敬な執事だわ。こんな時にもわたくしを貶めることをやめないくらいだもの、不敬の権化と言ってもいいくらいね」
「はて、何処か貶めておりましたか」
「うるさい。ちょっと黙っていてちょうだい」

 全く心当たりがないなあ、という顔をして見せた俺の膝を、お嬢様の足がやや雑に蹴り飛ばした。
 まあ、カコリスから聞いていた『聖女リーザローズ』からすると本当に信じられない成長だったからなあ、とも思ったが、黙れと言われたので黙っておく。
 一応、先ほど心からの忠誠を誓った身である。

「お前のような無礼者をわたくしの側に置くだなんて今でも許せないし、お前が倒すべき宿敵であることも変わらないし、こんな男が専属執事であることはこの非の打ち所がない高貴なる聖女であるわたくしのたった一つの汚点とすら言えるわ」

 膝に置かれた指先に僅かに力がこもる。
 一度言葉を切ったお嬢様は、細く息を吸い、吐くと、意を決した様子で言葉を吐き出した。

「でも、まあ、小指の爪先ほどは、いえ、髪の毛先ほどは、そうね、……お前がわたくしの執事で良かった、と思う時も、ないことも、ない、こともなくはないわ!」

 ないこともない、こともなくはない。
 えー。
 ないことがない、ので、ある。
 こともない。
 のがない。
 ので、要するにあるということであった。

 理解に十秒近くを要したのは、言葉尻がややこしかったからではなく、単に『お嬢様がそんなことを言う日が来るとは思わなかった』からである。

 今度は俺が完全に予想しなかった言葉を放られた形になったわけだ。
 当たり前のように呆けた顔でお嬢様を見上げてしまった俺の視線の先で、唇に歯を立てたお嬢様が、勢いよく立ち上がる。

「お、お前の敗北宣言はしかと受け取ったわ! ふんっ、ようやくお前にもわたくしの下僕としての自覚が出てきたようで何よりよ! ではっ、高貴なる聖女にして完璧な主人であるわたくしの有難い言葉を噛み締めて眠ることね! わたくしはもう、寝るわッ!!」

 力強い就寝宣言を告げたお嬢様は、そのまま逃げるように背のない椅子を跨いで逆方向へと降りると、なんとも素早い動きでベッドの中へと滑り込んだ。
 掛け布団を引っ被ったお嬢様に呼びかけるか否かしばし迷ってから、素直にドレッサーを片付けて部屋を後にする。

 おやすみなさいませ、と掛けた声には、何故か呻き声だけが返ってきた。猛獣の威嚇音みたいだった。

しおりを挟む

処理中です...