白狼 白起伝

松井暁彦

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王星

 十三

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 母と暮らした家は炭と化していた。
 
 白起の腰を抱くように、馬の鞍上にあった魏翦は、馬の背から飛び降りた。だが、魏翦よりも早く、白起は馬肚を蹴り、家屋の前に倒れる母の元へ、馬を駆けさせた。白起は跳躍し、馬から降りると、母を抱き上げた。
 
 剝がされた衣服。そして、鳩尾の辺りから血が流れ出ている。

柚蘭ゆらん
 白起が母の名を告げた。自身の外衣を払い、母の露わになった躰を包んだ。

「し、将軍」
 母の息はあった。しかし、胸の鼓動は、今にも絶えてしまいそうなほど弱い。
 一刻も早く、母の元へ駆け寄りたい衝動がある。しかし、母と白起という男が創り出す、空間には割って入れない静謐さがあった。

「これも一つの因果なのかもしれませんね」
 色を失くした、母の唇が綻ぶ。震える手には、軟玉の首飾りが握られている。

「まだこんなものを持っていたのか」

「秦に来て初めてできたお友達からもらったものですもの」
 怜悧を保っていた、白起の眼許に穏やかな皺が刻まれる。

「俺を友などと呼ぶのは、お前くらいのものだ」

「将軍。翦はもう一人前の男です。だから、あの子に道を選ばしてあげて下さい」

「あいつは父や俺と同じ道を行くだろう。あいつには戦人として天稟がある」

「そうですかー。私は懸命に戦場からあの子を遠ざけようとしてきました。だけど、運命は既に定まっていたのかもしれませんね」
 母の瞳から涙が零れていく。

「将軍。あの子を守って」

「ああ。約束する」
 母が顔を立ち尽す、魏翦に向けた。
 瞬間。二人を覆っていた静謐が解けた。魏翦は涙を流し、駆け寄る。
 
 母は笑って、震える指先で、魏翦の頬を撫ぜた。

「翦。選びなさい。自分の生きる道を。あなた自身の意志で」
 風前の灯であった、母の命に強烈な炎が灯った。

「あなたはもう自由です。さようなら。私の愛しい子」
 一陣の風が吹いた。刹那、母が握りしめていた首飾りが地に落ちた。
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