国殤(こくしょう)

松井暁彦

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三章 陰火

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 戦備を整えた王翦軍二十万は、南へと軍を進めた。
 
まずは函谷関で補給を受け、二十万が合流する。後にかつての韓土で更に二十万が合流を果たし、総勢六十万の大軍勢となる。行程として、東に進路を変え、三晋の地を通り、楚に入る。楚の西は、旧都であるえい、陳を含め対秦最前線であった黽溢びんいつといった要衝の数々が、悉く秦の支配下にある。その為、咸陽から楚の都である寿春まで約二千里は離れているが、行程の大分を無人の野を駆けるが如く、軍を進めることができる。

「父上」
 大軍の先頭で馬を並べる、息子の王賁が険しい顔を向ける。

「言いたいことが幾つかあるようだな」
 紅顔の若者は、短い逡巡の後、馬を近くへと寄せた。


「申してみよ」
「父上は何故、あれほどまでに、戦の恩賞として田宅、園池を請うたのですか?俺の知る所、どの軍人よりも恬淡な御方です。大王に恩賞を請う、父上の御姿はまるで物乞いのようでありました」
 怫然と捲し立てる、息子からは突き放すような冷たい気配が放たれている。
 
 息子の憤りは理解できる。王翦は出陣前、灞水はすいの畔まで自ら見送りに出向いた、秦王政に対して、執拗に報酬として田宅、園池を請うた。多くの軍人は恩賞より、武名を轟かせることに命を懸ける。日夜、戦場を駆ける、軍人達には、賤しい文官共には理解できない、矜持と誇りがある。 しかし、秦王政に繰り返し報酬を請う王翦の姿は、軍人達が毛嫌いする卑しい文官のそれと同じであった。

「お前はまだ大王という御方を理解しておらんな」
 王翦は鷹揚に笑う。

「どういう意味です?」
 王賁は苛立ちを隠さない。

狡兎死こうとしして良狗煮りょうくにらる。という言葉がある」
 王賁の目容に困惑が見える。

「すばやい兎を狩る、優秀な猟犬は獲物の兎が死にいなくなることで、不要なものとなり、煮て殺されてしまう。つまり、役目を果たせば、わしも良狗のような末路を辿ることになるかもしれんということだ」
 まさかと王賁は笑い飛ばす。

「大王は孤独で猜疑心の強い男だ。人を信じるということを知らぬ。考えてみよ。今は二十万であるが、楚を攻める頃には、秦の国内は空となり精兵六十万の兵がわし一人の麾下となる。大王に軍人の矜持や誇りなど理解できん。欲の塊のような男なのだ。だからこそ、わしはあえて報酬を執拗に請うた。あの大王は、人は利で動くものと決め込んでおるからな」
 秦王政は項燕の名を出して、王翦の興味を喚起し、再び戦場に引き摺り出すことに成功したが、実の所、項燕と己の因縁など露ほども理解できないのである。

 宮中に蔓延る佞臣の中には、一時的にでも、軍人としての枠を越えた、実権を握る、己を快く思わない者も多い。
すれば、佞臣共の中には讒言する者も現れてくる。だが、莫大な恩賞の確約を得た今、叛旗を翻す可能性は低いと、秦王政は見る。謀反はいつだって、不平不満が募り起こるものである。

「お前も大王に仕えるなら、大王の性質を良く理解しておくことだ。一度の嫌疑が、家に禍を齎すことになる」

「どうやら考えが甘かったのは俺のようです」

 王賁が纏っていた剣呑な気配が解けていく。

「まだ何か含む所があるのではないか?」
 水を向けてやると、王賁は酷薄な視線を半馬身遅れてついてくる従者に向けた。

「何故、あの男を従軍させたのです?利き腕を潰された暴虎馮河ぼうこひょうがの士など、役に立つとは思えませんが」
 兜を目深に被った、李信に王賁の声は聞こえているはずだが、彼はまっすぐ黄塵万丈こうがばんじょうを見遣っている。
 
 李信は秦王政の寵愛を受けてはいたが、傲岸不遜な態度を取り続けていた為、将校からの評判は悪く、嫌われていた。王賁は三十三歳で、十ほど李信より年上になるが、王賁は若く生意気な李信を嫌っている一人であった。四十年もの間戦場で生きてきた王翦からすれば、息子も軍人としてまだまだ未熟である。だが、王賁は一年前に魏を滅ぼしている。王賁は魏の都である大梁だいりょうに続く、河水からの灌漑水路かんがいすいろを決壊させた後、大梁に水を引き込み水攻めにした。之により大梁は陥落。魏王は捕虜となり、連綿と続いた社稷しゃしょくを断ったのである。
 
 
「ああいう男は、ここぞという場面で役に立ったりするものだ」

「俺には父上の御考えが理解できませんが」
 王賁が口吻を歪め言った。

「わしもお前も、戦場を眼で見て、頭で考え、行動する軍人だ。しかしな、時に戦場の息吹を肌で感じ、瞬く間に戦場を支配してしまう者がいる」

「それは項燕のような男を言っておられるのですか?」

「そうだ」

「父上を二度も敗かした男とあの若造が同じであると?」

「どうだろな。だが、李信は誰も傷すら付けることが叶わなかった、項燕の利き腕を斬り落としている」

「偶然と思いますが」

「わしの買い被りかもしれん。しかし、あの若造―。何処で役に立つとわしは思っている」

「そうですか。なら、俺はもう何も言いませんよ」
 釈然としないまま、王賁は閉口して離れて行った。
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