国殤(こくしょう)

松井暁彦

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一章 楚の英雄

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 李信りしんは捕虜六万の首を斬り終えた所で、今日の所は切り上げた。主だった将校達を引き連れ、大幕舎に入ると、其処には憤然とする、蒙恬もうてんの姿があった。

「お前は本当に考えなしの愚か者だ!」
 顔を合わすや否や、蒙恬は精悍な顔を歪めて怒鳴った。
 
 李信はやれやれと首を竦めると、仁王立ちする、蒙恬の前に置かれた胡床こしょうに腰を下ろした。

「見せしめは必要だ。見たか、城父じょうふの連中の顔を。恐怖で顔を引き攣らせていやがった」
 李信がせせら笑うと、麾下の部下はつられるように笑い声をあげた。

「お前は何も分かっていない。併呑した、三晋さんしん(韓、魏、趙)同様に俺達は楚土を制圧した後に、治めていかなくてはならない。それ即ち、恤民じゅうみんの心を抱き、綏撫すいぶするということ。制圧後、捕虜達は我等の国の民となる。恩赦を与え、罪人を移住させるだけでは、土地の運営は成り立たない。我々は、解放者であり、侵略者ではないと、寛大な処置を以って知らしめるべきだった」
 蒙恬は拳を固め、振り下ろした。

「なのに。お前ときたらー。あれでは楚人の反骨心を煽るだけだ」

「知るか。俺達はずっとそうやって戦ってきた。恐怖で支配する戦いを」

「もう時代は移り変わろうとしている。もう目先に、天下が見え始めた今だからこそ、我等は軍の有り様を変えなくてはならん。武安君白起ぶあんくんはくきが存命であった頃のような、戦の有り様は求められなくなっている。今、敵の生産力、兵力を如何に消耗させるかではない。如何に巧く支配し、統一後、生産力として生かせるかだ」
 秦の英雄武安君白起を貶めているともとれる言葉は、李信の逆鱗に触れた。
 
 白起は秦の昭襄王しょうじょうおうに仕えた、全勝無敗の常勝将軍である。趙と勃発した長平の戦いでは、二十四万の兵を生き埋めにし、約四十万もの兵を葬り去った。

 二十三歳の李信には、秦の英雄白起は、神のような存在に映っていた。また、白起は赫赫かくかくたる功績を残しながらも、昭王が仲父ちゅうほと呼び重用していた、范睢はんしょの讒言をうけ、死を賜っている。英雄の悲劇的な最期というものは、後世の人を強く惹きつける。若き軍人李信も例外ではなく、白起の儚い生涯に魅了され、彼の前半生をなぞらえようと考えている。

「黙れ!軍の指揮官は、お前ではなく、この俺にある!お前は黙って、俺のやり方に従っていればいい」
 李信は怫然と立ち上がり、同輩の蒙恬に指を突き立てた。

「そうか。なら、勝手にするがいい」
 大いに気色ばむと、蒙恬は佩剣を鳴らし、幕舎を後にした。
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