国殤(こくしょう)

松井暁彦

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一章 楚の英雄

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 幕舎を出ると、副官が小走りで駆け寄ってくる。

「将軍。どうかなされましたか?」
 副官は、怒りで赤黒く変色する、蒙恬の顔を見遣って問うた。

「いいや。何でもない」
 一拍の間、瞼を閉じ、肚の底に蟠る怒りを鎮めていく。

「四方に哨戒を放っておけ。それと、陣の包囲に二重の塁壁を築かせるのだ」

「御意」
 副官が駆けて行く。
 
 李信はすでに城父じょうふの地を手に入れた気でいるが、蒙恬は妙な胸騒ぎを覚えていた。奪った寝丘の楚軍は脆弱だった。李信は有頂天になっているから、彼が攻めた平輿へいよも同様だったのだろう。城父の守将も、何の動きも見せないことから、凡愚であるに違いない。実際、楚の名将であった、項燕が退役してから、楚にこれはという軍人はいない。

 楚はかつて包囲五千里を超える、広大な領土を有していながら、公卿の力が絶大で、尚且つ政事を顧みない暗君が続いたことから、国の基盤が脆い。故に汚職が蔓延し、軍隊においては、銭で官職を購う者も少なくなく、軍の練度は著しく下っている。

 南下するに至って、幾度も楚軍とはぶつかってきたが、討ち払うのは、筆を洗うより容易かった。現状、楚は西土の大分を秦に奪われ、余喘よぜんを保っているに過ぎない。だが、なんなのだろうか。この茨に締め付けられたような、胸の不快感は。
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