楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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田斉

 七

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 ぽつぽつと不規則に打つ雨が、ひさしを打つ。
 瞼を閉じ、雨音に意識を傾ける。醇乎じゅんこたる闇に、波紋が浮かぶ。どれほど、瞼の裏で絶えず、生まれる波紋を追っていただろうか。篠突く雨に変わり、潜在意識が生み出す、波紋が煩わしくなった。
 
 瞼を開く。少し微睡まどろんでいたようだ。近頃、まんじりもできない日が多い。
 
 瞬間。神経を刺すような痛痒が走った。
 跳ね起き、衝立の剣を抜く。

「誰だ!?」
 眼を眇める。戸が開いたような音はなかった。
 だが、眼の前には見知らぬ、黒衣を纏った男が独り立っていた。

「間者か」
 楽毅は剣尖を向ける。男は微動だにしない。
 肌で感じる。相当な手練れだ。それも、暗闘に特化している。くらい雰囲気を纏っている。

「田単からの言付けを預かっている」

「田単だと」
 まさか田単が、暗に潜ませた、己の意図を汲み取ったのか。

「なるほど。流石、俺の弟弟子だ。孫師そんしに伝えていたつもりではあったが」

「孫師は昨年、死去された」
 男は淡々とした、調子で告げた。
 楽毅は驚愕を飲み込んだ。今は詳しく問うている場合ではない。

「そうか。逝かれたか。で、田単に現状を覆すだけの権力はあるのか」

「いや。田単にはそれほどの力はない。だが、奴は頑固な王を説き伏せるつもりでいる」

「王に近付けるのか?」

「斉の影として生きる、俺達が奴の連枝れんしとして付いている。奴を王に近付ける程度、訳もない」
 楽毅は剣をおさめた。同時に室内に充満した、殺気が引いていく。

「田単が伝えて欲しいと。何としても斉王を説き伏せてみせる故、今、しばし軍を抑えて欲しいと」
 楽毅から思わず、苦笑が漏れた。

「簡単に言ってくれる。七十万の狼達が、涎を垂らして、虎視眈々と略奪の機を窺っている。俺に制御できるのは、直属の麾下一万程度だ」

「だが、田単はあんたなら可能だと信じている」

「善処はする。俺とて臨淄を血の海に沈めたくはない。田単に伝えてくれ。猶予はないと」

「ああ。承知している」

「それと」
 警戒心なく、黒衣の男の元へ歩み寄る。燭台の炎に照らされて、男の顔が光に浮かび上がる。
 無感情に結んだ唇。だが、鋭い眼の奥には、信念の光輝が見える。
 楽毅は懐から包みを取り出した。

「之を田単に返してやってくれ。我等、師の形見だ。之は俺ではなく、最期まで師の元にいた、彼が肌身離さず持っておくべきものだ」
 広げた掌。白い二本の指が包みを摘む。

「必ず届ける」

「ならば行け。もう話すことはない」
 頷いたのか、男の双眸の奥の光輝が揺れた。黒衣が視界を覆った。瞬間、男の姿はもうなかった。
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