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二度目のキス

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 頼まれた仕事が終わらなくて、遥香は残業を買って出た。

 同じチームの中谷は既婚者であまり遅くまで残れないし、任された仕事が間に合わなかったのは遥香の能力不足のせいなので当然だ。

 夕方から会議に出席している弘貴には、あまり遅くならないうちに帰るようにと言われていたが、気がついた時には九時近くで、誰もいなくなったフロアの中で、一心不乱に頼まれていた提案資料と格闘していた。

「まだいたの?」

 資料の最終チェックでディスプレイと睨めっこをしているところへ、少しあきれたような声が聞こえてきて、遥香は顔を上げた。

 会議が終わったのだろう。弘貴がオフィスに入ってくるところだった。

 だが、一緒に会議に出席していた課長やほかのグループ長の姿がない。不思議そうな顔をしていたのか、自分のデスクに向かいながら、弘貴が苦笑交じりに教えてくれた。

「ほかのみんなはその足で飲みに行ったよ。俺は明日の仕事の準備があるからって抜けてきたんだ。それで、あとどのくらい残ってるのかな。あとは俺が引き受けるから、もう遅いし、帰りなさい」

 上司の顔をして言う弘貴に、少しだけ胸が痛くなる。

 遥香は小さく首を振ると「最終チェックだけなので」と答えてディスプレイに視線を戻した。

 つきあってほしいと言う弘貴の申し出は断ったのに、少しよそよそしくされて傷つくとか、どれだけ自分は自分勝手なのだろう。

 情けなくてちょっぴり泣きたくなったが、オフィスでいきなり泣きはじめたら変に思われる。遥香はきゅっと唇をかんで、最終チェックを急ぐことにした。

「相変わらず、わかりやすい資料だね」

 カタン、と小さな音がして驚いて顔を上げると、デスクに片手を乗せて、弘貴がすぐ隣に立っていた。

 その横顔に、笑顔はない。

 それでもトクンと心臓が音を立てるから、遥香は弘貴にばれないようにさりげなく胸を手で押さえた。

 弘貴は遥香からマウスを取ると、スクロールして資料にすべて目を通していく。最後まで見終わると満足そうに頷いた。

「うん、大丈夫だよ。お疲れ様。遅くまでありがとね」

「いえ……」

 弘貴が離れていく。それを淋しく思いながら、遥香はパソコンの電源を落とすと荷物をまとめた。

 立ち上がって肩越しに弘貴を振り返り、デスクに座って書類から顔を上げないとわかると小さく落胆してしまう。

 遥香は弘貴に向かって頭を下げた。

「お疲れさまでした」

 小声になってしまったのは、無視されたときに自分で自分に言い訳するため。聞こえなかつたんだから仕方がない、と。そんなことを考える自分を自嘲したい。

「お疲れ様」

 書類から顔をあげずに弘貴が言う。

 そっけなかったが挨拶を返してくれたことにホッとしつつ、遥香が部屋を出て行こうとした、そのとき。

「少し待って」

 突然弘貴に呼び止められて、遥香は足を止めて振り返った。

 真剣な顔をした弘貴が、デスクから立ち上がってこちらへ歩いてくる。

 自分のデスクの場所とオフィスの入口の中間地点くらいで立ち尽くし、遥香はぼんやりと弘貴がこちらへ歩いてくるのを見上げた。

「ほんとは、こんなことカッコ悪いから言うのはやめようと思ってたんだけど……」

 怒っているのかと思うほど真剣な目をした弘貴が近づいてきて、遥香は反射的に後ずさる。後ろは壁だ。背中が壁に当たって逃げ場のなくなった遥香は、壁に手をついた弘貴にあっさり囲い込まれてしまった。

「経理部の橘君だっけ? 秋月さんがこの前言っていた彼氏って、橘君のこと?」

「―――え?」

 遥香はたっぷりと沈黙し、そのあと目を瞬いた。

(彼氏……、え?)

 真っ白になりそうな思考を何とかつなぎとめて、そういえば以前、弘貴のデートの誘いを断る口実で彼氏がいると嘘をついたことを思い出す。

 おそらく弘貴はそのことを言っているのだろう。

「昨日、親しそうにしていたね。俺と一緒のときよりもずいぶんと楽しそうだったけど」

 そんなことはない。そう言いたいのに声が出ない。

「彼氏、ほんとにいたんだね。嘘かと思ってたよ。この前の土曜日も来てくれたし、マンションまで来てくれて、ちょっとは期待してたのに……」

 こくり、と遥香はつばを飲み込んだ。嚥下する際に動く喉を、弘貴が静かに見つめている。

 怖かった。こんな怖い弘貴は知らない。誤解だと言いたいのに、何を言えば納得してくれるのかも、混乱している遥香の頭ではわからない。

「ねえ、何か言いなよ。真実だから何も言えない? 彼氏がいるのに、俺をからかって遊んでいたのかな。ねえ」

 口調は穏やかなのに、弘貴の沸々とした怒りが伝わってくる。

 言わないといけない。何か、言わないと。遥香は頭が真っ白なまま口を開いた。

「ち、違い、ます……。橘さんは、彼氏なんかじゃ……」

 緊張と恐怖で声がかすれる。それでも聞き取ってくれたらしい弘貴が、「じゃあ、彼は何」と冷淡な声を出すのを、泣きそうになりながら聞いた。

「た、橘さんは、先週、坂上さんたちと飲みに行ったときに知りあった人で……」

「ふぅん、合コン行ったの」

「合コン!? ち、違……っ」

「じゃあなに」

 弘貴はどこまでも鋭く責めてくる。遥香は彼氏に浮気を責められているような気になった。つきあってないのに、どうしてこんなに責められているのだろう。

「の、飲み会、です。橘さんは、坂上さんの彼氏の同期だって……」

「ああ、合コンじゃなくて紹介してもらってたの」

「違う……!」

 どうしたらわかってもらえるのだろう。彼氏ではなくて、合コンでも紹介されていたのでもない。弘貴は恋人ではなくて、誰とどこに出かけようと遥香の自由なはずなのに、弘貴に責められるいわれはないのに、弘貴に責められると身がすくみそうだった。

「秋月さんさ、俺が好きだって言ったの、ちゃんと理解してる? それなのにほかの男と仲良くしてるなんて、どういうつもりなの。俺のこと嘲笑ってる?」

 遥香は勢いよく首を横に振った。嘲笑ってなんて、ない。飲み会だって最初は断るつもりだった。結果、橘はとても面白い人だったけど、遥香にとってはそれだけで、つきあいたいとか思っているわけじゃない。

 頭の中ではいくらでもいいわけを思いつくのに、言葉が出てこない。

「た、ただ、飲みに行っただけ、です」

「ただ? へえ、ただ。俺が誘っても渋るくせに? ひどいよね、秋月さん。俺はあきらめないとは言ったけど、傷つかないわけじゃないんだよ」

 遥香は息を呑んだ。好き勝手なことを言われていると思う。それなのに、じわじわと罪悪感が胸に広がっていく。

 弘貴を見上げると、うっすらと笑っていた。その笑みが怖い。

「君は少し、男の本気を、思い知ればいいよ」

「―――っ」

 弘貴が遥香を押さえつけて、遥香が息を呑んだ瞬間、唇が合わさっていた。

 呼吸すら奪い取られそうなキスに、遥香の思考が停止する。息が苦しくなって、息継ぎをしようと口を開けたその隙間から、弘貴の舌が滑り込んできた。

 からめとられて、吸い上げられる。

 膝が震えて頽れそうになっている遥香の腰を引き寄せて、弘貴はなおも深く唇を重ねた。

 歯列を舌でなぞられて、口蓋を舐められる。

 息苦しくて息をしようとするたびにキスは深くなって、遥香の目のうしろがチカチカしはじめた。

 立っていられなくて、弘貴の腕に縋りつく。弘貴の片腕に腰を抱き寄せられ、頭のうしろに手をまわされて、どうやったって遥香では抜け出せなかった。

 舌を絡める水音が頭の中にじかに響く。呼吸が苦しくて、体に力が入らなくて、口を開きっぱなしのため顎が痛い。

 怖さと苦しさで、盛り上がってきた涙が目じりから零れ落ちた。

 ようやく弘貴が唇を離してくれたとき、遥香の体にはまったく力が入らなくて、弘貴に支えられたまま荒い息を繰り返した。

 震えているのに気がついたのか、弘貴が遥香を抱きしめて、背中をあやすように叩いてくれる。

「……ごめん」

 後悔をにじませた声で謝られて、ようやく体に力が戻りはじめた遥香はカッとした。

 謝るなら、しないでほしい。

 弘貴は身勝手だ。力で押さえつけられて、怖かったのに、そんな小さな「ごめん」の一言で納得できるはずがない。

 気がついた時には、パンッと弘貴の頬を叩いていた。

 手が震えているから、それほど力は入らなかっただろう。

 だが、遥香に平手打ちされると思っていなかったのか、弘貴が目を見開いて硬直していた。

「……ひどいです」

 遥香は消え入りそうな声でそう言うと、目じりに残った涙を袖でぬぐい、踵を返す。

 そのままオフィスを出て行った遥香の背中に、弘貴は何の言葉もかけなかった。
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