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プロローグ

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「なんですって――――――!」

 都市部からいくらか離れた田舎町でパン屋を営んでいるアダム・ファージは、娘の絶叫で鼓膜が破れるかと思った。

 妻に先立たれて以来、男手一つで育て上げた娘のエリザベス――通称リジーは、同性の母親がいないからか、少々――いや、かなりおてんばだ。

 仕事以外に関しては大雑把なきらいのあるアダムに、淑女たるしとやかさなんて教えられるはずもなく、教育の失敗を悟ったアダムは、リジーが十五のときに慌てて女子修道院に教育と行儀見習いのために行かせたが、久しぶりに会った娘の様子を見る限り、ほとんど功を奏していないらしかった。

 まあ、年に数回ある休暇で帰省する娘を見ていた限り、そんなことはとっくにわかっていたことであるが。

 とにもかくにも、このままでは他界した妻に顔向けできない。

 妻の家は没落ぼつらくしたとはいえ由緒ある伯爵家だった。そんな貴族のご令嬢がどうして町のパン屋に嫁いだかと言えば――、大恋愛の末の駆け落ちだった。家も何もかも捨てて身一つでパン屋に嫁いでしまう豪胆さを考えれば、娘の性格は妻に似ていると言えなくもない。

 しかしだ。

 家を捨ててパン屋に嫁ごうとどうしようと、妻の貴族の血は確実に娘の中に流れている。

 伯爵家は妻が他界するよりも早くに当主の死によってその名を失ったが、どうやら、一人娘であった妻の娘であるリジーには、その伯爵家を継ぐ権利があるらしい。

 今は国王預かりとなっている伯爵家の領地も、エリザベスに男児が生まれれば、それが継ぐことを許されるという。

 貴族社会のルールなんて知る由もないアダムは今までそのことを知らなかったが、エリザベスが成人を迎えた十八の誕生日に、国からの遣いによって知らされた。

 エリザベスはそのときは修道院におり、アダムにだけ告げられたため、彼女はそのことをまだ知らないが、そんなことはどうでもいい。

 このおてんば娘は、町のそこそこ器量がよくて優しい誰かに嫁がせようと思っていたが、伯爵家だの領地だのが絡んできたら、そんなことも言えないのだ。

 さてさてどうしたものか――

 アダムは頭を悩ませたが、どうやらそんな必要もなかったらしい。

 エリザベスが伯爵家の正当な後継ぎ――正確にはその子供が――、とわかるなり、突然あちこちから縁談が舞い込みはじめたのだ。

 その中には実業家や貴族の子弟も多く含まれていた。

 エリザベスはおてんばなところが玉にきずだが、父親の欲目を抜きにしても、器量はいい。それは、彼女の母が大層な美人だったのだが、確実にその血を引いていた。

 そう、黙っていれば美人で、貴族令嬢に充分見える。

 あとはこのおてんばに耐えうるだけの度量を持った男が求婚者の中にいれば――、そう思いながら選別していたアダムは、ついに見つけたのだ。

 フィッツバーグ伯爵家の次男で、現在近衛隊このえたいに所属、年もエリザベスと二つ違いの二十歳で、顔立ちも端正な好青年。手紙だけ送り付けてくるだけのほかの求婚者と違い、わざわざ出向いてアダムに挨拶までしてくれた。狭い家にも嫌な顔一つせず、話した限り性格もいい。

 聞くと、亡き妻の父親と彼の祖父が友人同士だったという。

 彼の父親も、アダムと結婚する前の妻と面識があったらしい。

 アダムは彼のことも彼の親のことも全然知らないが、まったくの赤の他人よりも、多少なりともつながりのありそうなところの方がいいに決まっている。

 そして、少し話しただけで、アダムは彼のことを気に入った。

 そこでアダムは、善は急げと娘を修道院から呼び寄せたのだが――

「なにトチ狂ったこと言ってんのよ! 結婚? ふざけんじゃないわよ!」

 アダムが一番失念していたのは、何よりもよく知る愛娘の反応だろう。

 貴族だ結婚だと舞い上がって、この性格をすっかり忘れていた。

 アダムはおろおろして、娘にお手製のマドレーヌを勧めながら、興奮した水牛をなだめるように両手を前に差し出した。

「落ち着け、少し落ち着くんだ。深呼吸……、まあ、菓子でも食って」

 アダムがここまで慌てるには訳がある。

 なぜならこの狭い居間の中には、アダムとエリザベスのほかに、当のフィッツバーグ伯爵家の次男――レオナードその人がいるのだから!

 アダムはひやひやしながら、つぎはぎだらけのソファに嫌な顔せずに腰を掛けて、優雅な所作で紅茶を口に運んでいるレオナードを見やった。

 アダムが彼に視線を向けると、彼はにこりと微笑んだ。気にしていませんよ――、そう言われているような微笑みにアダムはホッとして、娘に向きなおる。

 しかし、向きなおった娘は、怒り心頭でばくばくとマドレーヌを口に運んでおり、アダムは口から魂が抜けだしそうになった。貴族令嬢どころか、この町に住む年頃の娘でもそんな菓子の食べ方はしないだろう。

 しかし、レオナードの手前、娘の行儀作法について怒っていいのか泣いていいのかもわからず――、なによりこの娘をどう説得したらいいのか策も思いつかずに、アダムは泣きたくなった。

「だってお前……、そろそろ結婚してもおかしくない年だろう」

「だから何よ?」

 じろりと睨まれて、アダムはうっと言葉に詰まる。最近特に妻によく似てきたその顔で睨まれると、妻に怒られているのかと錯覚してしまい、どうにも弱い。

「だから……、せっかく、レオナード様がお前と結婚してもいいとおっしゃってくれているんだし……」

「そのレオナードって誰よ! どこから出てきたのよ!」

 アダムの作戦はさらに失敗した。

 エリザベスの怒りは父親からポッと出のレオナードに向かってしまい、彼女はもぐもぐリスのように口を動かしながら、じろりと彼を睨みつけたのだ。

(ひぃー!)

 アダムは心の中で悲鳴を上げて頭を抱えた。

 終わりだ。何もかも終わりだ。さすがのレオナードもこんな娘は願い下げだろう。

 けれどもアダムの想像よりもはるかにできた人間らしいレオナードは、エリザベスの態度にも気分を害した様子はなく、微笑んで答えた。

「ご挨拶が遅れてすみません。レオナード・フィッツバーグと申します。どうぞレオとお呼びください。突然の求婚で驚かれるのも無理はないかと思いますが、私は本気です。どうか考えてはいただけないでしょうか?」

「はあー?」

「私の出自に疑問がおありでしたら、出生からこれまでの略歴や、なんでしたら我が家の家系図もお持ちいたしますが」

「んなもん誰がいるって言ったのよ」

「そうですか。ではほかに何か問題でも?」

「………」

 エリザベスは信じられないものを見るような目でレオナードを見やった。

 まるで結婚に必要なものは「経歴」「家柄」のみだと言っているようだ。そして、それを信じて疑っていないかのように自信に満ちた目をしている。

 エリザベスは怒りを通り越して、言いようのない脱力感を覚えた。

 そしてソファの背もたれに体を預けると、嘆息しながらこう言った。

「ああ――……、あんたって、なんていうか、馬鹿?」
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