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時計屋の兎(ラビット)
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「ラビット、君のところにドルバー教授が来たんだってね」
ウィルバードに拾われて十年。
誕生日を知らないから、実際の年はわからなかったが、拾われたときに七歳くらいだろうとウィルバードがあたりをつけたので、ラビットは十七歳を数えていた。
二年前に時計屋を与えられたが、生活の拠点は変わらず、王都にあるウィルバードの邸である。十年で貴族というものがどういうものかを何となく理解したラビットである。貴族というものは、シーズンと呼ばれる社交の季節以外は領地にある邸ですごすことが多いというが、どうもウィルバードはその領地の邸が嫌いらしい。彼が年中王都の邸で暮らすから、ラビットももれなく王都から出ることはない。
ウィルバードは過保護で、ラビットが店に向かう朝と、店にクローズの札をかける夕方に、必ず送迎の馬車を出す。時間があるときはウィルバード自身が馬車に乗って迎えに来ることもしばしばだ。今日もどうやら時間があったらしく、ラビットを迎えに来た彼は、彼女が馬車に乗り込むなりそう切り出した。
「うん。時計を水に沈めて壊しちゃったんだって」
「なるほど、また魂の研究とやらか」
「そうみたい。いい迷惑だって教授の時計が言ってた」
十年たった今、二十九歳になる伯爵は、ラビットの言うことにいちいち驚いたりしない。時計が言ったと言っても、そうかと目を細めて頷いてくれる。
ウィルバードは来年三十歳になるとは思えないほど、十年前と同じようにキラキラしている。俗にいう「童顔」とは少し違う気もするが、二十九歳にはとても見えないほどに若々しい。
二十九歳が年だと言えば、ウィルバードの執事の三十五歳のショーンが悲しそうな顔をするから言わないが、一回りも年が離れているラビットからすれば「おじさん」である。
「ところでラビット」
ウィルバードはふと真顔になって、ラビットの姿を見下ろした。
「どうして君は、何度言っても、そんな風に男の子みたいな服を着るんだろう」
ラビットは自分自身の姿を見下ろした。
白いシャツにチェック柄のジャケット。ダークブラウンの細めのズボン。これが現在ラビットが身に着けている服である。
「俺があげたドレスはどうしたのかな?」
ウィルバードが背後に見えない黒い靄のようなものを漂わせながら微笑む。ラビットはぎくりとして目をそらした。
ここのところウィルバードは忙しくて、送り迎えのときにいなかったから油断していた。彼はラビットが男の子のような服を着るのを嫌う。言い訳をしても怒られると判断したラビットは素直にごめんなさいと謝ることにした。
ウィルバードはやれやれと嘆息して、
「まったく。せっかくかわいいのに、どうして君はそうなんだろう」
「だって……、僕は別にお姫様になりたいわけじゃ……」
「ほら、また僕っていう」
ウィルバードが手袋をした手を伸ばして、ラビットの鼻を軽くつまんだ。
「デビュタントだった、自分は貴族じゃないって言って断っちゃうし、どうしたら君は言うことを聞いてくれるんだろう」
「……ロードは僕を特別扱いしすぎだと思う」
「何か文句でも? 君は俺が拾ったんだから、特別扱いして何が悪いのかな?」
確かにラビットはウィルバードに拾われた。しかし、事前時活動の一環で孤児を拾う貴族はいるが、たいていは使用人に面倒を見させたり、邸の使用人見習いにするくらいで、ラビットのように家族の一員として扱われることはないという。
ラビットがウィルバードを「酔狂」と言うのはこのためだ。
ウィルバードはラビットの鼻から手を離すと、にやりと笑った。
「言うことを聞けない悪い子にはお仕置きだよ。今度のパーティーに俺のパートナーとして出席しなさい」
またか、とラビットは嘆息した。
ウィルバードは女性にとても人気があるのに、どうしてか特定の恋人を作らない。もちろん婚約者もいなければ結婚もしていない。文字通り、独身貴族と言うやつだ。そのせいで、どうしても出席しなければいけない夜会があるときは、いつもラビットを連れ歩く。デビュタントをすすめられた二年前からずっとだ。
ラビットはドレスもコルセットも苦手なので、できれば遠慮したいのだが、こういう言い方をしたときのウィルバードは許してはくれない。
(早くお嫁さんもらえばいいのに)
貴族には後継ぎ問題などいろいろ面倒な事情があるだろうに、いつになったらウィルバードは奥さんをもらう気になるのだろう。
「それで、どこのお宅のダンスパーティーなの?」
ウィルバードはにっこりと微笑んだ。
「レマニエル侯爵だよ」
レマニエル侯爵は、くるんとカールした口ひげのダンディな紳士である。
ヴィラーゼル伯爵家にも何度か来たことがあるので、ラビットも面識があった。
「レマニエル侯爵ってあれだよね、最近、娘のアザリーが、なんとかっていう伯爵から婚約破棄されたっていう」
就寝前にメイドのドリーに髪を梳かれていたラビットが言えば、途端にドリーは顔をしかめた。
ドリーは四十手前のメイド頭で、ラビットとは母子ほど年が離れているせいか、幼いころからラビットをかわいがってくれている。
「お嬢様、また新聞を読みましたね? あれほど新聞は殿方の読むもので、ご令嬢が読むものではございませんと申し上げたのに」
「だって、ロードは読んでいいって……」
ウィルバードに拾われたときにはぼさぼさ頭だったラビットの髪は、ドリーが丁寧に梳ってくれるため、今ではさらさらと音を立てそうなほどに滑らかに腰に流れる。
長い髪は鬱陶しいので短く切りたくて仕方がないのだが、ドリーもウィルバードも許してくれない。
「まったく、旦那様はお嬢様に甘くていらっしゃる……」
ドリーはぶつぶつ言いながらも、なんだかんだとラビットに甘いので、「仕方がありませんね」と言ってラビットの好奇心を満たしてくれた。
「ポールマー伯爵ですよ。レマニエル侯爵令嬢より八歳年上の二十六歳で、実業家でもいらっしゃいます。婚約破棄についての詳細は存じませんが、確かに二か月ほど前にそう言った噂をお聞きしましたね」
「すると、今度のダンスパーティーはご令嬢の次の婚約者探しかなぁ?」
「それはわかりませんが、お嬢様、好奇心旺盛なのは結構ですが、パーティーでは淑女らしく、おとなしくしておいてくださいませ」
「う、うん。それはもちろん……」
どうせ過保護なウィルバードのことだ。ラビットを片時もそばから離さないだろうから、おとなしくしておくしかない。
(ロードも、アザリーの次の婚約者候補で呼ばれたのかなぁ?)
だが、そうであれば、ラビットをパートナーとして連れて行くのはまずいのではなかろうか。
ラビットがそう言えば、ドリーはおかしそうに笑った。
「まあまあ、旦那様がレマニエル侯爵令嬢の次の婚約者ですか? それはあり得ませんわ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「それはだって、ねえ?」
ふふふ、とドリーはおかしそうに笑う。
ラビットにはドリーがどうして笑うのかわからなかったが、彼女は理由は教えてくれる気はないらしい。ラビットの髪を梳き終えると、彼女をベッドに押し込んで、お休みなさいませと言って部屋を出て行った。
「あ、パーティーがいつか、ロードに聞き忘れちゃった」
今から訊きに行こうかと思ったが、ウィルバードは寝る前に酒を飲む。酔った彼はいろいろ面倒くさいから、ラビットはまた明日にしようと目を閉じた。
ウィルバードに拾われて十年。
誕生日を知らないから、実際の年はわからなかったが、拾われたときに七歳くらいだろうとウィルバードがあたりをつけたので、ラビットは十七歳を数えていた。
二年前に時計屋を与えられたが、生活の拠点は変わらず、王都にあるウィルバードの邸である。十年で貴族というものがどういうものかを何となく理解したラビットである。貴族というものは、シーズンと呼ばれる社交の季節以外は領地にある邸ですごすことが多いというが、どうもウィルバードはその領地の邸が嫌いらしい。彼が年中王都の邸で暮らすから、ラビットももれなく王都から出ることはない。
ウィルバードは過保護で、ラビットが店に向かう朝と、店にクローズの札をかける夕方に、必ず送迎の馬車を出す。時間があるときはウィルバード自身が馬車に乗って迎えに来ることもしばしばだ。今日もどうやら時間があったらしく、ラビットを迎えに来た彼は、彼女が馬車に乗り込むなりそう切り出した。
「うん。時計を水に沈めて壊しちゃったんだって」
「なるほど、また魂の研究とやらか」
「そうみたい。いい迷惑だって教授の時計が言ってた」
十年たった今、二十九歳になる伯爵は、ラビットの言うことにいちいち驚いたりしない。時計が言ったと言っても、そうかと目を細めて頷いてくれる。
ウィルバードは来年三十歳になるとは思えないほど、十年前と同じようにキラキラしている。俗にいう「童顔」とは少し違う気もするが、二十九歳にはとても見えないほどに若々しい。
二十九歳が年だと言えば、ウィルバードの執事の三十五歳のショーンが悲しそうな顔をするから言わないが、一回りも年が離れているラビットからすれば「おじさん」である。
「ところでラビット」
ウィルバードはふと真顔になって、ラビットの姿を見下ろした。
「どうして君は、何度言っても、そんな風に男の子みたいな服を着るんだろう」
ラビットは自分自身の姿を見下ろした。
白いシャツにチェック柄のジャケット。ダークブラウンの細めのズボン。これが現在ラビットが身に着けている服である。
「俺があげたドレスはどうしたのかな?」
ウィルバードが背後に見えない黒い靄のようなものを漂わせながら微笑む。ラビットはぎくりとして目をそらした。
ここのところウィルバードは忙しくて、送り迎えのときにいなかったから油断していた。彼はラビットが男の子のような服を着るのを嫌う。言い訳をしても怒られると判断したラビットは素直にごめんなさいと謝ることにした。
ウィルバードはやれやれと嘆息して、
「まったく。せっかくかわいいのに、どうして君はそうなんだろう」
「だって……、僕は別にお姫様になりたいわけじゃ……」
「ほら、また僕っていう」
ウィルバードが手袋をした手を伸ばして、ラビットの鼻を軽くつまんだ。
「デビュタントだった、自分は貴族じゃないって言って断っちゃうし、どうしたら君は言うことを聞いてくれるんだろう」
「……ロードは僕を特別扱いしすぎだと思う」
「何か文句でも? 君は俺が拾ったんだから、特別扱いして何が悪いのかな?」
確かにラビットはウィルバードに拾われた。しかし、事前時活動の一環で孤児を拾う貴族はいるが、たいていは使用人に面倒を見させたり、邸の使用人見習いにするくらいで、ラビットのように家族の一員として扱われることはないという。
ラビットがウィルバードを「酔狂」と言うのはこのためだ。
ウィルバードはラビットの鼻から手を離すと、にやりと笑った。
「言うことを聞けない悪い子にはお仕置きだよ。今度のパーティーに俺のパートナーとして出席しなさい」
またか、とラビットは嘆息した。
ウィルバードは女性にとても人気があるのに、どうしてか特定の恋人を作らない。もちろん婚約者もいなければ結婚もしていない。文字通り、独身貴族と言うやつだ。そのせいで、どうしても出席しなければいけない夜会があるときは、いつもラビットを連れ歩く。デビュタントをすすめられた二年前からずっとだ。
ラビットはドレスもコルセットも苦手なので、できれば遠慮したいのだが、こういう言い方をしたときのウィルバードは許してはくれない。
(早くお嫁さんもらえばいいのに)
貴族には後継ぎ問題などいろいろ面倒な事情があるだろうに、いつになったらウィルバードは奥さんをもらう気になるのだろう。
「それで、どこのお宅のダンスパーティーなの?」
ウィルバードはにっこりと微笑んだ。
「レマニエル侯爵だよ」
レマニエル侯爵は、くるんとカールした口ひげのダンディな紳士である。
ヴィラーゼル伯爵家にも何度か来たことがあるので、ラビットも面識があった。
「レマニエル侯爵ってあれだよね、最近、娘のアザリーが、なんとかっていう伯爵から婚約破棄されたっていう」
就寝前にメイドのドリーに髪を梳かれていたラビットが言えば、途端にドリーは顔をしかめた。
ドリーは四十手前のメイド頭で、ラビットとは母子ほど年が離れているせいか、幼いころからラビットをかわいがってくれている。
「お嬢様、また新聞を読みましたね? あれほど新聞は殿方の読むもので、ご令嬢が読むものではございませんと申し上げたのに」
「だって、ロードは読んでいいって……」
ウィルバードに拾われたときにはぼさぼさ頭だったラビットの髪は、ドリーが丁寧に梳ってくれるため、今ではさらさらと音を立てそうなほどに滑らかに腰に流れる。
長い髪は鬱陶しいので短く切りたくて仕方がないのだが、ドリーもウィルバードも許してくれない。
「まったく、旦那様はお嬢様に甘くていらっしゃる……」
ドリーはぶつぶつ言いながらも、なんだかんだとラビットに甘いので、「仕方がありませんね」と言ってラビットの好奇心を満たしてくれた。
「ポールマー伯爵ですよ。レマニエル侯爵令嬢より八歳年上の二十六歳で、実業家でもいらっしゃいます。婚約破棄についての詳細は存じませんが、確かに二か月ほど前にそう言った噂をお聞きしましたね」
「すると、今度のダンスパーティーはご令嬢の次の婚約者探しかなぁ?」
「それはわかりませんが、お嬢様、好奇心旺盛なのは結構ですが、パーティーでは淑女らしく、おとなしくしておいてくださいませ」
「う、うん。それはもちろん……」
どうせ過保護なウィルバードのことだ。ラビットを片時もそばから離さないだろうから、おとなしくしておくしかない。
(ロードも、アザリーの次の婚約者候補で呼ばれたのかなぁ?)
だが、そうであれば、ラビットをパートナーとして連れて行くのはまずいのではなかろうか。
ラビットがそう言えば、ドリーはおかしそうに笑った。
「まあまあ、旦那様がレマニエル侯爵令嬢の次の婚約者ですか? それはあり得ませんわ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「それはだって、ねえ?」
ふふふ、とドリーはおかしそうに笑う。
ラビットにはドリーがどうして笑うのかわからなかったが、彼女は理由は教えてくれる気はないらしい。ラビットの髪を梳き終えると、彼女をベッドに押し込んで、お休みなさいませと言って部屋を出て行った。
「あ、パーティーがいつか、ロードに聞き忘れちゃった」
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