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軍令部次長 伊藤整一の憂鬱
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「どうかね? 再編成の状況は?」
「全く以て、進んでおりません」
東京の霞ヶ関、日比谷公園の近くにある赤レンガと呼ばれる建物、海軍軍令部の一室で上司である軍令部次長伊藤整一中将に尋ねられて佐久田は、あっさりと芳しくないことを白状した。
作戦を担当する第一部に軍令部に席を与えられた佐久田は、第一部長の中沢少将が自由にやれ、と言ってきたので好き勝手に行っている。
海軍でも切れ者とされる中沢少将だが、サイパン陥落により必勝の信念を失い、一時は部長辞職を表明する程だったが、慰留され留まっている。
現在も対米戦への作戦指導意欲はなく、日々の事務処理は行っていたが、今後の作戦計画策定は佐久田に一任していた。
対米戦への意欲はなくなったが第一部の仕事はつつがなく行っており佐久田が専念できる環境を整えてくれたのは有り難い。
それに中沢は人事局長時代の恩人だ。それまで様々な慣習があった海軍人事――同期が上官、部下にならないよう配置する、各期の階級差は二階級まで、という慣行を廃止し実力主義で行われた。
反発はあったが、適材適所の人材配置が行われ、優秀な人材が実力発揮できた。
不満も、海軍の規模が拡大したことによりポストが増えたことである程度、吸収され、中沢の采配は高評価を受けている。
当然、佐久田の人事考課も中沢は知っており、突然やってきた佐久田に即日自由に仕事をさせたのも佐久田の活躍を知っていたからだ。
むしろ、仕事を押しつけられる、と中沢が考えていたからという理由もあった。
また、南遣艦隊参謀を務めたときの上司である小沢中将の口添えもあった。
小沢が連合艦隊参謀長を務めたとき中沢は連合艦隊首席参謀であり、海軍一の戦略家と当時言われた小沢より直接指導を受け、中沢が海軍随一とされる戦略家として開花するきっかけとなった恩師である。
その小沢から佐久田を頼むと言われれば中沢は断ることはなかった。
おかげで佐久田は日々作戦計画を練っているが、圧倒的な米軍の戦力を前に作戦立案は一筋縄ではいかなかった。
「身も蓋もないね」
伊藤は佐久田の返答に溜息を吐くように言う。
昔から伊藤は温厚な事で知られており、兵学校時代、伊藤の分隊では一切鉄拳制裁が行われず、後輩である草鹿龍之介は何度も助けられた。
任官してからも変わらず、温厚な方だ。
唯一殴ったとされるのは、兵学校生徒隊監事を任されたとき、生徒達が夜に兵学校を抜け出し近くの商店街の看板を掛け替える悪戯をしたときだ。
謝りにいった伊藤だったが、商店街の人々はいつも感じの良い生徒達がこんなことをするはずがないと言って信じなかった。兵学校生徒を信じてくれる江田島の人々の心が伊藤に突き刺さった。その夜、伊藤は校舎裏にいたずらに関わった生徒を呼び出し、鉄拳制裁を行った。
一八九センチの高身長である伊藤が般若の顔で現れ、呼び出された生徒達は恐怖に震え、繰り出された鉄拳は一生の中で一番痛かったと、後に述べている。
それ以外は本当に温厚な人だ。
開戦後、日米交換船で帰国した元駐米武官の横山一郎に日米戦の展望について研究するよう命じたところ、日本に勝ち目無し、敗北して日清戦争以前の状態に戻る、と率直に返答したとき、「そうか」と静かに伊藤は聞き入れた。
他の海軍軍人なら「負けるとはなんだ! 必勝の信念がないとは何事か!」と叱り飛ばされるが、何も怒らない伊藤の人格に横山は感心した。
あるいは伊藤も敗戦を確信していたのかもしれない。
佐官時代に米国に派遣された経験のある伊藤も日米の格差はよく知っていた。
だから、佐久田の返答にも驚くこともなく、むしろ同意するような態度だった。
このような伊藤だからこそ、佐久田も自由に仕事が出来た。
「事実ですから。そもそも機材が全く足りませんし」
なので歯に衣を着せぬ意見、事実を言うことさえ佐久田は、はばからず、伊藤も怒らなかった。
実際、打撃を受けた陸上航空艦隊と空母機動艦隊の機材補充が最優先事項とされていたが、それぞれ一千機かそれ以上の機体が必要だ。
「機動艦隊の方は二直制で残っていた方を使って整えられますが、残置する航空隊への機材が手当てできません。結局予備無し、母艦に乗せた艦載機のみでの戦いです。一張羅で何とかするしかありません」
一方が実戦に出ている間に一方は訓練を行うという、サイクルで戦力を常に維持してきたが、そのシステムは破綻した。
マリアナでの損失が大きく、生産数が足りず、必要な航空機が確保出来ない。
何とか機体が生産出来たとしても、空母への着艦には高度な技術が必要であり、レベルの高いパイロットが足りなかった。
「次からは全力投入です。海戦でも起きれば勝っても負けても機動部隊は消滅する事になります」
今後の戦いは予備も含め艦載機部隊は全てを投入。
補充の見込みがないため、壊滅すれば、空母機動部隊は艦載機がなくなり無力化される状態となる。
「どうにかならないかね」
伊藤は珍しく焦ったように尋ねた。
勝たなければならないがその損害を最小限に抑える必要がある。
米軍は補充できるが、日本側は、補充など出来ない。
搭乗員も機材も燃料も、何もかも足りないのだ。
艦底だって損傷したら修理しなければならないが、そのための資材も、ドックも足りない状態なのだ。
伊藤の部下である第一部長中沢佑がサイパン陥落後、必勝の信念を持てなくなり辞表を提出したのも仕方ないことだ。
「陸上の航空艦隊に望みを託すしかありません」
陸攻などを中心とした航空艦隊は艦載機部隊ほど技量が必要とされない。
空母への発着艦が不要な分、訓練は楽で、比較的容易に増員できる。
「マリアナから整備などの人員を救い出せたことが幸いしました。増強なら何とか可能です」
パイロットだけでなく熟練した整備員を救出したことにより、航空艦隊の再編成は順調に進んでいた。
北山の尽力のおかげで航空機の生産は順調であり、小沢の第一航空艦隊だけでなく新たに大西瀧治郎中将を司令長官とする第二航空艦隊が編成されようとしていた。
「それに幸いにして陸軍からも航空隊を送ってくれるとのことですし」
兵力の減った海軍を増強するため、陸軍航空隊から一部、新型陸軍攻撃機飛龍を装備した飛行師団が海軍の指揮下に送られた。
「陸海軍指揮系統の一本化の為に必要な処置でしたから。源田中佐が瀬島中佐と話を進めていてくれたお陰でもありますし」
「全く以て、進んでおりません」
東京の霞ヶ関、日比谷公園の近くにある赤レンガと呼ばれる建物、海軍軍令部の一室で上司である軍令部次長伊藤整一中将に尋ねられて佐久田は、あっさりと芳しくないことを白状した。
作戦を担当する第一部に軍令部に席を与えられた佐久田は、第一部長の中沢少将が自由にやれ、と言ってきたので好き勝手に行っている。
海軍でも切れ者とされる中沢少将だが、サイパン陥落により必勝の信念を失い、一時は部長辞職を表明する程だったが、慰留され留まっている。
現在も対米戦への作戦指導意欲はなく、日々の事務処理は行っていたが、今後の作戦計画策定は佐久田に一任していた。
対米戦への意欲はなくなったが第一部の仕事はつつがなく行っており佐久田が専念できる環境を整えてくれたのは有り難い。
それに中沢は人事局長時代の恩人だ。それまで様々な慣習があった海軍人事――同期が上官、部下にならないよう配置する、各期の階級差は二階級まで、という慣行を廃止し実力主義で行われた。
反発はあったが、適材適所の人材配置が行われ、優秀な人材が実力発揮できた。
不満も、海軍の規模が拡大したことによりポストが増えたことである程度、吸収され、中沢の采配は高評価を受けている。
当然、佐久田の人事考課も中沢は知っており、突然やってきた佐久田に即日自由に仕事をさせたのも佐久田の活躍を知っていたからだ。
むしろ、仕事を押しつけられる、と中沢が考えていたからという理由もあった。
また、南遣艦隊参謀を務めたときの上司である小沢中将の口添えもあった。
小沢が連合艦隊参謀長を務めたとき中沢は連合艦隊首席参謀であり、海軍一の戦略家と当時言われた小沢より直接指導を受け、中沢が海軍随一とされる戦略家として開花するきっかけとなった恩師である。
その小沢から佐久田を頼むと言われれば中沢は断ることはなかった。
おかげで佐久田は日々作戦計画を練っているが、圧倒的な米軍の戦力を前に作戦立案は一筋縄ではいかなかった。
「身も蓋もないね」
伊藤は佐久田の返答に溜息を吐くように言う。
昔から伊藤は温厚な事で知られており、兵学校時代、伊藤の分隊では一切鉄拳制裁が行われず、後輩である草鹿龍之介は何度も助けられた。
任官してからも変わらず、温厚な方だ。
唯一殴ったとされるのは、兵学校生徒隊監事を任されたとき、生徒達が夜に兵学校を抜け出し近くの商店街の看板を掛け替える悪戯をしたときだ。
謝りにいった伊藤だったが、商店街の人々はいつも感じの良い生徒達がこんなことをするはずがないと言って信じなかった。兵学校生徒を信じてくれる江田島の人々の心が伊藤に突き刺さった。その夜、伊藤は校舎裏にいたずらに関わった生徒を呼び出し、鉄拳制裁を行った。
一八九センチの高身長である伊藤が般若の顔で現れ、呼び出された生徒達は恐怖に震え、繰り出された鉄拳は一生の中で一番痛かったと、後に述べている。
それ以外は本当に温厚な人だ。
開戦後、日米交換船で帰国した元駐米武官の横山一郎に日米戦の展望について研究するよう命じたところ、日本に勝ち目無し、敗北して日清戦争以前の状態に戻る、と率直に返答したとき、「そうか」と静かに伊藤は聞き入れた。
他の海軍軍人なら「負けるとはなんだ! 必勝の信念がないとは何事か!」と叱り飛ばされるが、何も怒らない伊藤の人格に横山は感心した。
あるいは伊藤も敗戦を確信していたのかもしれない。
佐官時代に米国に派遣された経験のある伊藤も日米の格差はよく知っていた。
だから、佐久田の返答にも驚くこともなく、むしろ同意するような態度だった。
このような伊藤だからこそ、佐久田も自由に仕事が出来た。
「事実ですから。そもそも機材が全く足りませんし」
なので歯に衣を着せぬ意見、事実を言うことさえ佐久田は、はばからず、伊藤も怒らなかった。
実際、打撃を受けた陸上航空艦隊と空母機動艦隊の機材補充が最優先事項とされていたが、それぞれ一千機かそれ以上の機体が必要だ。
「機動艦隊の方は二直制で残っていた方を使って整えられますが、残置する航空隊への機材が手当てできません。結局予備無し、母艦に乗せた艦載機のみでの戦いです。一張羅で何とかするしかありません」
一方が実戦に出ている間に一方は訓練を行うという、サイクルで戦力を常に維持してきたが、そのシステムは破綻した。
マリアナでの損失が大きく、生産数が足りず、必要な航空機が確保出来ない。
何とか機体が生産出来たとしても、空母への着艦には高度な技術が必要であり、レベルの高いパイロットが足りなかった。
「次からは全力投入です。海戦でも起きれば勝っても負けても機動部隊は消滅する事になります」
今後の戦いは予備も含め艦載機部隊は全てを投入。
補充の見込みがないため、壊滅すれば、空母機動部隊は艦載機がなくなり無力化される状態となる。
「どうにかならないかね」
伊藤は珍しく焦ったように尋ねた。
勝たなければならないがその損害を最小限に抑える必要がある。
米軍は補充できるが、日本側は、補充など出来ない。
搭乗員も機材も燃料も、何もかも足りないのだ。
艦底だって損傷したら修理しなければならないが、そのための資材も、ドックも足りない状態なのだ。
伊藤の部下である第一部長中沢佑がサイパン陥落後、必勝の信念を持てなくなり辞表を提出したのも仕方ないことだ。
「陸上の航空艦隊に望みを託すしかありません」
陸攻などを中心とした航空艦隊は艦載機部隊ほど技量が必要とされない。
空母への発着艦が不要な分、訓練は楽で、比較的容易に増員できる。
「マリアナから整備などの人員を救い出せたことが幸いしました。増強なら何とか可能です」
パイロットだけでなく熟練した整備員を救出したことにより、航空艦隊の再編成は順調に進んでいた。
北山の尽力のおかげで航空機の生産は順調であり、小沢の第一航空艦隊だけでなく新たに大西瀧治郎中将を司令長官とする第二航空艦隊が編成されようとしていた。
「それに幸いにして陸軍からも航空隊を送ってくれるとのことですし」
兵力の減った海軍を増強するため、陸軍航空隊から一部、新型陸軍攻撃機飛龍を装備した飛行師団が海軍の指揮下に送られた。
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