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怨念の黒い炎
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寺を出て、二人は先ほど突風に遭った所へ戻ってきた。手に持っているのはここへ来るまでの各々の荷物と、住職から借りてきた怪しい聖水。この水であの妖が腹の中で苦しんだのは身を持って知ったが、果たしてこの水だけで太刀打つことは出来るのだろうか。
「さぁ、肇くん。行きますよ。今日であの悪夢ともおさらばです」
「あぁ。そんでさっさと原稿に取り掛かってもらわねぇと……」
「本当、貴方は野暮なことしか言いませんねぇ。そういうの、KYって言うんですよ」
自信たっぷりな由依の背中を見ながら、根津は溜息をついた。相変わらずこの裏山は茂みが多いが、木々や藪の隙間から近所民家がはっきり見える。他の山よりも陽の光もあたり、悪い妖などとは一切縁がなさそうな山に見え、先程の突風など信じられない。それでも二人は、その突風の正体を暴くため、根津が肝試しに使ったルートを辿り、祠へと向かった。
「あぁ、だんだんと……してきましたね、気配」
「……あぁ」
普段見えない根津にもそれはわかった。そこそこに寒い気温だったが、嫌な寒気が身体に纏わりつき、山に入ってからずっと背後に視線を感じていた。根津の心臓も、だんだんと脈拍を増やす。黙々と歩く度に、緊張で吐き気までした。
石段手前で由依は足を止めた。ここを上がれば、祠はもう直ぐそこだ。
「肇くん、荷物をお願いします」
由依は持っていた鞄を根津に押し付ける。一体何が入っているのか分からないが、やたらと重くて根津は思わず眉を寄せた。
「それから……。絶対に私から離れないでください」
「そういうのはイケメンのセリフなんだろ」
「容姿端麗天才小説家なら有りよりの有りですよ」
くすくすと笑い、根津に持たせている鞄から四合瓶を取り出した。
「万が一の場合は、私からこの瓶を取り上げて全力で逃げなさい」
いつになく真剣な目で由依は言った。それが余程おかしかったのか、根津は吹き出した。
「そうさせないように、アンタが頑張るんだろ」
「だからって笑うのは酷いですよ、まったく……」
由依は一瞬ふざけて頬を膨らませたが、直ぐにくすくすと楽しそうに笑うと、石段を上り始めた。その後を根津は黙ってついていく。万が一が起きたら、一人でなんて逃げやしない。どうにかこの鼻につく自惚れ屋を、引き摺ってでも連れ帰る策を練っておかなければ……。
石段を上がり切ると、祠が現れ、黒い影がうねうねと動きながらその上を円を描くように飛んでいた。
『やっと来たな肇……。オレが今日、ここで全部お前から取り上げてやる……!』
蠢く黒い影が揺れる。何を言っているかはっきりと根津の耳にも入ってくる所から、結構な妖力の持ち主相手らしい。
「それは困りますね。私の肇くんは渡せません」
「アンタの物になった覚えはないけどな」
根津は鼻で笑い、持っていた荷物を乱雑に地面に置く。ピクリと由依の眉が動いたが、今は目の前の得体の知れない妖に集中することにしたらしい。
「それで……貴方は何を肇くんに奪われたんです?」
『さっきから煩いヤツだな……お前には関係ない』
「おやおや……。仕方ありませんね」
由依は瓶を持ってない方の手を開きながら黒い影に向け、手のひらから青白い炎を出した。あの時はただの光に見えたが、綺麗な青い炎が由依の手のひらで揺らめいている。
「穏便に終わらせてあげようとしたのを拒んだ貴方がいけないのですよ」
『お前は……!あの時の!!』
高い子供の声が、低く唸る。黒い影は祠を囲うようにして黒い炎へと変化した。根津の脳裏にあの日が蘇る。
「もう一度聞きますよ。肇くんに執着している理由はなんです?」
『そいつが……そいつがオレの大事な物を持っていったのが悪い!あれはオレの物だったのに……!オレの大事な……大事な物だったのに!』
黒い炎は低い唸り声をあげ、大きな炎と変化する。あたり一帯を焼き付くしそうな大きさだが、木々に燃え移る様子が見えない。
「肇くん、身に覚えありますか?」
「……いや。祠から取ったのは他のやつが肝試しのために置いてきた蝋燭で」
『違う!蝋燭ではない!あれはオレの大事な面だ!失くさない様に、祠に置いておいたのに!お前が奪った!人間はそうやって全部オレたちから奪うんだ!』
何がどう違うのかは、根津の記憶の中では皆目検討がつかない。まずその面があったかさえも今の所ハッキリと覚えていないのだ。
ただの蝋燭に手を伸ばした……はずだ。俺が間違えて別の物に触ったというのか……?
でも確かにあの時『それ、お前のじゃないだろ』というこの黒い炎と同じ声がしたのを思い出す。
「ふむ……なるほど。どうやら当時のやんちゃな肇くんが勘違いで触ってしまったとしか思えませんが」
『だとしてもだ!お前が触ってどこかにやってしまったことに違いない!もうあの面は……主の形見は戻って来ないんだ!!』
黒い炎が劈くような声をあげ、由依に向かって来た。由依は青い炎を出した腕を一振りすると、瞬時に大きな薄い壁を作り出し、黒い炎を跳ね除けた。
「落ち着きなさい!」
『煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い!』
黒い炎は再び体勢を整えると、由依の作った青白く光る壁に向かって突進する。
「まったく……埒があかない……!肇くん、この聖水をやつに!」
「は?」
「早く!」
「ったく!」
根津は由依の片手から四合瓶を奪うと、壁に突進し続けている黒い炎に向けて聖水を浴びせた。
『っうあああああああああああ!!』
たった数滴かかっただけだったが、効果は抜群のようだ。黒い炎は勢いを止め、地面の身体を擦り付ける様、のたうち回っている。由依は根津に駆け寄ると、根津と黒い炎の間に立ち、苦しみながら蠢く黒い影をじっと見つめた。
『あああああああああっ!』
耳を塞ぎたくなる様な声が響く。禍々しく、嫌な感じがして気分も悪くなっていきそうなその声。次第に頭の中にキーンとする痛みが走り、とうとう根津も由依も耳を塞いだ。
だんだんと黒い炎は小さくなり、その中心から黒い獣の姿が見えてきた。とんがった耳は赤く、目尻や大きく裂けた口元も赤い。所々が不思議な毛色をしたその獣は少し離れて見ても狐のように見えた。
「……狐?」
根津は不思議そうに呟いた。よく神社などのお祭りで見かける黒い仙狐面に似ている。
これが……あの夢魔の正体……?
「まだですよ」
近づき、その姿をよく見ようとした根津を制して由依は着ていた羽織の懐からビッシリと仰々しい文字が切れた札を取り出した。
「勘違いにしろ、彼から何かを奪っていたかもしれませんからね。ここはゆっくりと話を聞いてやりましょう」
そう言い、由依は黒狐の額に札を貼りその小さな身体を抱き上げた。
目が覚めると、良い匂いがした。
あぁ……。この匂い、知ってる。
主がよく、煮てくれた油揚げの匂い。
染み込んだつゆが塩っぱくて、くせになる、大好きなあの匂い……。
人間は良いものを沢山持っている。
主もそうだった。
主は妖の友達も、人間の友達も多かった。
良いなぁ、羨ましいなぁ。
オレは山で一人で住んでいたから、大勢で騒げる主は凄いと思っていた。
主はいつも楽しそうだった。
人間は繋がりを作るのが上手なのを、主を見て知った。
でも、いつだか主の周りから人間は消えていった。
主はいつも誰かといたのに。
急に一人になった。
時々誰か来たけれど、何かを渡してすぐに帰っていく事が多かった。
人間は主から離れていった。
主は寂しそうだった。
縁側に座って空を眺める日と、布団に包まり、ぼんやりと空を眺める日ばかりになった。
だからオレは主が寂しくないように毎日主の側にいた。
毎日、毎日。
主の名前を傍らで呼び続けた。
「君に良いものをあげよう」
主はそう言って、よろよろと弱った身体で箪笥から白い狐の面を取り出した。
「これはね、君の様な不思議な力を少しだけ制御できるものだ。これを被れば、村の子と同じ姿になることができる。人の姿を借り、誰かに優しさを分けてあげれば、君のもとにもきっと素敵な友人がやってくるはずだよ」
細くてひょろひょろの腕がふわりと俺の頭を撫でた。
冷たくて気持ちの良い。
もっとして欲しかったけど、主は数回撫でて、また横になった。
主は最後に言った。
「もう私は眠るから。君も他所に行くと良い。いつか生まれ変わったら、また君に会いに行く。きっと今度は、君と野を駆けれるように丈夫な身体で生まれて来るから。それはまでは気の許せる友人と一緒にいるんだよ」
そう言って、主は優しくふわりと笑うと、静かに目を閉じて眠ってしまった。
動けなくなった主に会いに来ていた人間はきっと主に何かしていたのだろう。
主は嬉しそうに何かを貰っていたけれど、それを口にしては咳込んで、苦しそうにもがいていた。
きっと、人間が主を奪っていったんだ。
きっとそうだ。
主は人間に奪われたんだ……。
そのうちに悪戯をしたり、人間を呪ったりするようになった。
沢山の人間が怒って、俺を山の中に閉じ込めた。大事に持っていた主から貰った面を、祠に括り付けられ、その場から何年も動けなくなった。
何年も、何年も。
ずっと一人。
だけどある時やってきた人間の子どもが面をどこかにやってしまった挙句、強い力の人間が俺を祠に閉じ込めた。
あぁ、今度は本当に一人だ。
主のくれた面もない。
寂しい。
一人は嫌だ……。
返して、返してよ俺の大事な物を。
返してよ、俺の自由を。
返してよ、俺の……主を。
すん、と鼻を掠める。
さっきもしたこの良い香り。
懐かしい。寂しい。会いたい。
じわりと目が熱くなる。
「あぁ、きっと貴方は……色々と勘違いをなさっていたんですね」
くすくすという優しい笑い声が聞こえた。主と同じ、色んな妖と人間の匂いがする。
誰だろう……。
「うぅ…………」
薄らと目を開ける。ぼんやりとした視界に自分を覗き込む人間の男の顔が入り込む。
「あ……るじ?」
「ふふふ。あぁ、起こしてすみません。申し遅れましたが、私は由依千歳。こちらは……貴方も知っている通り根津肇くんです」
くすくすと由依が笑いながらそう言うと、目をぱっちりと開いた黒狐は飛び起きた。
「なっ!なん、なに」
「おや、元気ですねぇ。ご住職に頼んだら油揚げ沢山用意して貰えましたよ。良かったですね」
由依は油揚げの沢山乗った皿を、お盆から取り上げると「食べますか?」とにこにこと笑いながら言った。
「そ、そんな餌付けで誑かされるか!」
「おい、落ち着け」
根津が由依に飛びかかりそうになった黒狐の首根っこを掴む。
「んあああっ!はなせぇえ!」
尻尾を逆立て、ジタバタと手足を動かし、根津の手からどうにか離れようともがいていたが、先程の札のせいでか力が上手く入らず、数秒暴れて諦めた様に大人しくなった。
「くっそぉ……」
逆立っていた尻尾を垂らし、耳もへたりと垂らす。油揚げの良い香りも混じり、上手く力が出せそうにない。
「少しお札の力が強すぎましたね。私、生憎手加減を知らなくて……申し訳ありません」
悪びれもなくそう言うと、由依はお盆から箸をとり、油揚げを口に運んだ。
「ああっ!ずるいぞ!」
キャンキャンと吠えながら黒狐は由依の周りを駆け回る。それを軽くかわしながら由依は一枚の油揚げを食べ切った。
「あああ……!」
「ふふふ。私の肇くんを呪った罰です」
しおしおと更に萎れていく耳と尻尾を見て、根津はため息をついた。
「ったく……お前のせいで飛んだ目にあった。油揚げの前にこれだろ。ほら、探してたもの」
根津は上着のポケットから白い狐の面を取り出した。かなり年季が入り、所々が黒ずんで汚れている。裏返すと中心部に『鬼』という文字が彫られていた。紐も汚れて茶色く変色しており、長年放置されていたのにも関わらず、亀裂や欠けているところがなく、汚れているだけというのは、どう考えても普通の人間が持つようなの物ではない。
「あぁっそれは!やっぱりお前が持っていたんだなっ!」
黒狐は根津の差し出した面を引っ手繰ると、その場でまた威嚇体勢をとる。喉がグルグルと鳴り、野生の獣そのものだ。噛みつかれたら酷い怪我を負いそうだと、二人は眉を寄せる。
「違いますよ」
由依はやれやれ、とため息を吐く。
「貴方が倒れた後、肇くんが探して来てくれたんです。不思議なお面なので、貴方の呪いを受けてる彼だから探せたのありますが……。あの日、騒いだ貴方がどこかにすっ飛ばしたのでしょう。あの時の肇くんはちゃんと友達が用意した蝋燭だけを手にしていたんですよ」
「……そう、なのか?」
黒狐は疑り深そうに根津の顔を見上げた。根津の着ていた服の裾や膝に土が付いているのが見え、嘘ではないことがわかった。
「……あぁ。その面は不思議な力がないとそもそも見れないらしい。今の俺はお前の呪いのせいだから見えるらしいが……。そんな怪しい面、記憶にないの方がおかしいだろ」
黒狐は納得したのか、複雑な顔を見せる。
「……あ、主が……知ったら……どうしよう……」
ずっと勘違いをして、関係ない人間に危害を加えていた。人間は主の仲間で、同じ種族だ。彼が居なくなってもそれは違わない。きっと、こんな馬鹿馬鹿しい勘違いで人を呪っただなんて知られたら…………。
「お前、名前は?」
「……黒楼(くろう)」
「見たままかよ」
「煩い、主がつけてくれたんだっ!」
「それで、その主という方は?」
由依の質問に黒楼は一瞬黙ったが、久々に見た主との夢を、彼との別れを二人に話した。
「……きっと、主は誰かに苦しめられていたんだ。人間からもらったものを口にするといつも渋い顔をして、咳き込んでいた。だから、人間はオレの大事なものを盗っていくやつらばかりだって……」
すると由依と根津は揃って大きなため息を吐いた。
「お前なぁ……。人間をなんだと思ってるんだ」
「えぇ。心外にも程がありますよ」
「なんだと!」
由依は黒楼の頭をゆっくりと撫でた。
「貴方のご主人、きっと病と戦っていたんですよ。良薬は口に苦しというでしょう。私も肇くんも薬を飲むとだいたい咳き込みますし……」
「くすり?」
黒楼は小さな頭を傾げた。
あれは主を苦しめていたものではないというのか……?
「えぇ。病気を治すものです。だから、貴方のご主人に何かを渡していた方は、ご主人の味方、良い人間ですよ」
味方……。
由依のその言葉に、黒楼の目頭が熱くなった。
あの時から人間は大事なものを奪っていく悪いやつらだとばかり思っていた。そのせいで多くの人間を呪ってきた。悪戯も沢山した。今回もそうだった。肇が祠から持ち去ろうとしたのは蝋燭だった。勘違いを起こし、自らの手で失くしていたものを、肇のせいだと思い込み、長い年月ずっと肇を探して見つけ出し、夢の中で祠の封印を解かせ……呪った。
それも全部…………。
「オレの……思い違い?」
ぽろぽろと床に涙が溢れた。黒楼の目からきらきらと光る涙がこぼれ落ちる。
「えぇ。肇くんも、ご主人の周りにいた方々も貴方の大事なものは何も奪っていませんよ」
「本当か……?」
「疑り深いな……。このセンセーは胡散臭いけど嘘は言わねぇよ」
「酷いですねぇ、胡散臭いは余計です」
わざとらしく頬を膨らませる由依を見て、根津は小さな舌打ちをした。
「……肇」
「なんだ」
「……お面、ありがとうな……。あと、脅かしてごめんなさい……。」
「あぁ……」
根津は黒楼の頭を静かに撫でた。
「千歳っ!肇っ!」
いつからいたのか分からないが、由依と根津が戻ると、とさやが玄関まで走って出迎えにきた。
「おや、来ていたんですか」
「遊びに来たら、いないんだもん。寂しかった」
さやは荷物を降ろした由依に抱きついた。座敷童子は重さが殆どない。そもそもが大して食べれずに命を落とした子どもだ。それでも抱きつかれた反動でよろめいた由依を背後で根津が支えた。
「すみませんでした。お詫びにこちら、肇くんの地元で有名な芋羊羹を買ってきましたよ。後で一緒に食べましょうね」
「うん!あれ……?」
「どうかしましたか?」
さやは由依の首に腕を回しながら根津をじっと見つめた。
「肇の黒いもやもや、消えたね。でも、どうしてあっちに置いてこなかったの?」
「あー……」
さやは首を傾げながら根津の足元を指さし、由依に尋ねた。もう黒楼の呪いからは解放された根津だったが、また一人になるのは嫌だと駄々を捏ねた黒楼を振り切ることが出来ず、仕方なく連れ帰ってきてしまったのだ。
「不良少年と捨て犬は切っても切れない関係ですから」
根津の足元で広い玄関を眺め見ていた黒楼は「オレは犬じゃないっ!」とキャンキャン声で吠えた。
「弱い犬ほどよく吠えるって諺があるの、知ってますか?」
「なにぃっ!」
「おい、クロ。そこにいるならこの人に構うな……面白がってるだけだから」
根津は溜息を吐きながら言った。怨念を消した黒楼は根津には視えないため、黒楼の反応を想像して諭す。
「そうだ、早いとこ渡しておきますね」
由依は手にぶら下げていた巾着から、小さな箱を取り出した。
「こちらをどうぞ」
「なんだよ」
訝しげな顔をして、恐る恐る根津が箱を受け取る。手のひらサイズのそれをまじまじと見つめ、ゆっくりと開いた。
「……は?」
中身を確認した根津は眉を寄せ、由依の顔を見上げた。開いた箱にはシンプルなシルバーリングがこぢんまりと収まっていたのだ。
「エンゲージリングですよ」
「ざっけんな、気色悪ぃ。返す」
「返さないでください。これがあれば、私の力を使わなくてもさやさんとクロくんの姿が視えるようになりますよ。もちろん、私からの愛はたっぷりと……」
由依が全て言い切る前に、根津はそのリングを右手の中指にはめた。すると、先程まで視界にいなかったはずのさやと黒楼が、はっきりと根津にも視え始めた。
「オレ達、ちゃんと見えてるのか?」
黒楼とがおずおずと根津の顔を覗き込む。
「……あぁ」
根津は屈んで手を伸ばし、黒楼の頭を優しく撫でた。
「ちゃんと視える」
さやの方へも視線を向け、根津は言った。由依はその様子を横目に見ながら、静かに微笑むと居間へ向かう。さやを優しく床へ下ろすと、こたつのスイッチを入れ、石油ストーブの電源を入れた。灯油のつんとした匂いが部屋に漂う。
「さて、お茶を飲みながら咲さんを呼び出しましょうか」
「本当?もう、お母さんに会えるのっ」
「えぇ。肇くんが本を持ち帰ってきてくれましたから」
「肇、ありがとう」
さやはにこりと笑って根津の足に抱きついた。根津は小さく返事をしてさやの頭を優しく撫でる。
「さや、遅くなって悪かったな」
「ううん。大丈夫。肇の事も大事だもの」
えへへ、と照れ臭そうに笑うと、今度は黒楼の方に向き直る。
「こんにちは黒狐さん。わたし、さやっていうの」
「黒楼だ」
スンスンと鼻をさやの着物の匂いを嗅ぐ。くすぐったいと言ってさやがじゃれついた。
「ふふふ。仲良くなってくれて良かったですねぇ」
「そうだな。んで、咲を呼び出したらそっからは仕事の時間だ」
「まさか……!肇くんってば、私がこのか弱い身体を張ってまで助けてあげたというのに……」
「それとこれとは別の話だろ、センセー」
根津はニヤリと笑う。由依は下唇を突き出しながら頬を膨らませた。
「芋羊羹は全部終わった後のご褒美だな」
わざとらしいその膨れっ面が鼻についたのか、眉をぴくんと動かした根津は、由依が先程ルンルンと持ち運んでいた紙袋を取り上げた。
「なっ!肇くんの意地悪……!」
「なんとでも。アンタ、天才作家なんだろ」
「んもぅ!そうやって揚げ足ばっかり取って!」
「次の締切こそギリギリを回避してもらうからなァ!」
バタバタと広い平屋に大人の足音と、微かに小さな笑い声がふたつ。交わる事のない世界がこの屋根の下で一つに重なった。
「さぁ、肇くん。行きますよ。今日であの悪夢ともおさらばです」
「あぁ。そんでさっさと原稿に取り掛かってもらわねぇと……」
「本当、貴方は野暮なことしか言いませんねぇ。そういうの、KYって言うんですよ」
自信たっぷりな由依の背中を見ながら、根津は溜息をついた。相変わらずこの裏山は茂みが多いが、木々や藪の隙間から近所民家がはっきり見える。他の山よりも陽の光もあたり、悪い妖などとは一切縁がなさそうな山に見え、先程の突風など信じられない。それでも二人は、その突風の正体を暴くため、根津が肝試しに使ったルートを辿り、祠へと向かった。
「あぁ、だんだんと……してきましたね、気配」
「……あぁ」
普段見えない根津にもそれはわかった。そこそこに寒い気温だったが、嫌な寒気が身体に纏わりつき、山に入ってからずっと背後に視線を感じていた。根津の心臓も、だんだんと脈拍を増やす。黙々と歩く度に、緊張で吐き気までした。
石段手前で由依は足を止めた。ここを上がれば、祠はもう直ぐそこだ。
「肇くん、荷物をお願いします」
由依は持っていた鞄を根津に押し付ける。一体何が入っているのか分からないが、やたらと重くて根津は思わず眉を寄せた。
「それから……。絶対に私から離れないでください」
「そういうのはイケメンのセリフなんだろ」
「容姿端麗天才小説家なら有りよりの有りですよ」
くすくすと笑い、根津に持たせている鞄から四合瓶を取り出した。
「万が一の場合は、私からこの瓶を取り上げて全力で逃げなさい」
いつになく真剣な目で由依は言った。それが余程おかしかったのか、根津は吹き出した。
「そうさせないように、アンタが頑張るんだろ」
「だからって笑うのは酷いですよ、まったく……」
由依は一瞬ふざけて頬を膨らませたが、直ぐにくすくすと楽しそうに笑うと、石段を上り始めた。その後を根津は黙ってついていく。万が一が起きたら、一人でなんて逃げやしない。どうにかこの鼻につく自惚れ屋を、引き摺ってでも連れ帰る策を練っておかなければ……。
石段を上がり切ると、祠が現れ、黒い影がうねうねと動きながらその上を円を描くように飛んでいた。
『やっと来たな肇……。オレが今日、ここで全部お前から取り上げてやる……!』
蠢く黒い影が揺れる。何を言っているかはっきりと根津の耳にも入ってくる所から、結構な妖力の持ち主相手らしい。
「それは困りますね。私の肇くんは渡せません」
「アンタの物になった覚えはないけどな」
根津は鼻で笑い、持っていた荷物を乱雑に地面に置く。ピクリと由依の眉が動いたが、今は目の前の得体の知れない妖に集中することにしたらしい。
「それで……貴方は何を肇くんに奪われたんです?」
『さっきから煩いヤツだな……お前には関係ない』
「おやおや……。仕方ありませんね」
由依は瓶を持ってない方の手を開きながら黒い影に向け、手のひらから青白い炎を出した。あの時はただの光に見えたが、綺麗な青い炎が由依の手のひらで揺らめいている。
「穏便に終わらせてあげようとしたのを拒んだ貴方がいけないのですよ」
『お前は……!あの時の!!』
高い子供の声が、低く唸る。黒い影は祠を囲うようにして黒い炎へと変化した。根津の脳裏にあの日が蘇る。
「もう一度聞きますよ。肇くんに執着している理由はなんです?」
『そいつが……そいつがオレの大事な物を持っていったのが悪い!あれはオレの物だったのに……!オレの大事な……大事な物だったのに!』
黒い炎は低い唸り声をあげ、大きな炎と変化する。あたり一帯を焼き付くしそうな大きさだが、木々に燃え移る様子が見えない。
「肇くん、身に覚えありますか?」
「……いや。祠から取ったのは他のやつが肝試しのために置いてきた蝋燭で」
『違う!蝋燭ではない!あれはオレの大事な面だ!失くさない様に、祠に置いておいたのに!お前が奪った!人間はそうやって全部オレたちから奪うんだ!』
何がどう違うのかは、根津の記憶の中では皆目検討がつかない。まずその面があったかさえも今の所ハッキリと覚えていないのだ。
ただの蝋燭に手を伸ばした……はずだ。俺が間違えて別の物に触ったというのか……?
でも確かにあの時『それ、お前のじゃないだろ』というこの黒い炎と同じ声がしたのを思い出す。
「ふむ……なるほど。どうやら当時のやんちゃな肇くんが勘違いで触ってしまったとしか思えませんが」
『だとしてもだ!お前が触ってどこかにやってしまったことに違いない!もうあの面は……主の形見は戻って来ないんだ!!』
黒い炎が劈くような声をあげ、由依に向かって来た。由依は青い炎を出した腕を一振りすると、瞬時に大きな薄い壁を作り出し、黒い炎を跳ね除けた。
「落ち着きなさい!」
『煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い!』
黒い炎は再び体勢を整えると、由依の作った青白く光る壁に向かって突進する。
「まったく……埒があかない……!肇くん、この聖水をやつに!」
「は?」
「早く!」
「ったく!」
根津は由依の片手から四合瓶を奪うと、壁に突進し続けている黒い炎に向けて聖水を浴びせた。
『っうあああああああああああ!!』
たった数滴かかっただけだったが、効果は抜群のようだ。黒い炎は勢いを止め、地面の身体を擦り付ける様、のたうち回っている。由依は根津に駆け寄ると、根津と黒い炎の間に立ち、苦しみながら蠢く黒い影をじっと見つめた。
『あああああああああっ!』
耳を塞ぎたくなる様な声が響く。禍々しく、嫌な感じがして気分も悪くなっていきそうなその声。次第に頭の中にキーンとする痛みが走り、とうとう根津も由依も耳を塞いだ。
だんだんと黒い炎は小さくなり、その中心から黒い獣の姿が見えてきた。とんがった耳は赤く、目尻や大きく裂けた口元も赤い。所々が不思議な毛色をしたその獣は少し離れて見ても狐のように見えた。
「……狐?」
根津は不思議そうに呟いた。よく神社などのお祭りで見かける黒い仙狐面に似ている。
これが……あの夢魔の正体……?
「まだですよ」
近づき、その姿をよく見ようとした根津を制して由依は着ていた羽織の懐からビッシリと仰々しい文字が切れた札を取り出した。
「勘違いにしろ、彼から何かを奪っていたかもしれませんからね。ここはゆっくりと話を聞いてやりましょう」
そう言い、由依は黒狐の額に札を貼りその小さな身体を抱き上げた。
目が覚めると、良い匂いがした。
あぁ……。この匂い、知ってる。
主がよく、煮てくれた油揚げの匂い。
染み込んだつゆが塩っぱくて、くせになる、大好きなあの匂い……。
人間は良いものを沢山持っている。
主もそうだった。
主は妖の友達も、人間の友達も多かった。
良いなぁ、羨ましいなぁ。
オレは山で一人で住んでいたから、大勢で騒げる主は凄いと思っていた。
主はいつも楽しそうだった。
人間は繋がりを作るのが上手なのを、主を見て知った。
でも、いつだか主の周りから人間は消えていった。
主はいつも誰かといたのに。
急に一人になった。
時々誰か来たけれど、何かを渡してすぐに帰っていく事が多かった。
人間は主から離れていった。
主は寂しそうだった。
縁側に座って空を眺める日と、布団に包まり、ぼんやりと空を眺める日ばかりになった。
だからオレは主が寂しくないように毎日主の側にいた。
毎日、毎日。
主の名前を傍らで呼び続けた。
「君に良いものをあげよう」
主はそう言って、よろよろと弱った身体で箪笥から白い狐の面を取り出した。
「これはね、君の様な不思議な力を少しだけ制御できるものだ。これを被れば、村の子と同じ姿になることができる。人の姿を借り、誰かに優しさを分けてあげれば、君のもとにもきっと素敵な友人がやってくるはずだよ」
細くてひょろひょろの腕がふわりと俺の頭を撫でた。
冷たくて気持ちの良い。
もっとして欲しかったけど、主は数回撫でて、また横になった。
主は最後に言った。
「もう私は眠るから。君も他所に行くと良い。いつか生まれ変わったら、また君に会いに行く。きっと今度は、君と野を駆けれるように丈夫な身体で生まれて来るから。それはまでは気の許せる友人と一緒にいるんだよ」
そう言って、主は優しくふわりと笑うと、静かに目を閉じて眠ってしまった。
動けなくなった主に会いに来ていた人間はきっと主に何かしていたのだろう。
主は嬉しそうに何かを貰っていたけれど、それを口にしては咳込んで、苦しそうにもがいていた。
きっと、人間が主を奪っていったんだ。
きっとそうだ。
主は人間に奪われたんだ……。
そのうちに悪戯をしたり、人間を呪ったりするようになった。
沢山の人間が怒って、俺を山の中に閉じ込めた。大事に持っていた主から貰った面を、祠に括り付けられ、その場から何年も動けなくなった。
何年も、何年も。
ずっと一人。
だけどある時やってきた人間の子どもが面をどこかにやってしまった挙句、強い力の人間が俺を祠に閉じ込めた。
あぁ、今度は本当に一人だ。
主のくれた面もない。
寂しい。
一人は嫌だ……。
返して、返してよ俺の大事な物を。
返してよ、俺の自由を。
返してよ、俺の……主を。
すん、と鼻を掠める。
さっきもしたこの良い香り。
懐かしい。寂しい。会いたい。
じわりと目が熱くなる。
「あぁ、きっと貴方は……色々と勘違いをなさっていたんですね」
くすくすという優しい笑い声が聞こえた。主と同じ、色んな妖と人間の匂いがする。
誰だろう……。
「うぅ…………」
薄らと目を開ける。ぼんやりとした視界に自分を覗き込む人間の男の顔が入り込む。
「あ……るじ?」
「ふふふ。あぁ、起こしてすみません。申し遅れましたが、私は由依千歳。こちらは……貴方も知っている通り根津肇くんです」
くすくすと由依が笑いながらそう言うと、目をぱっちりと開いた黒狐は飛び起きた。
「なっ!なん、なに」
「おや、元気ですねぇ。ご住職に頼んだら油揚げ沢山用意して貰えましたよ。良かったですね」
由依は油揚げの沢山乗った皿を、お盆から取り上げると「食べますか?」とにこにこと笑いながら言った。
「そ、そんな餌付けで誑かされるか!」
「おい、落ち着け」
根津が由依に飛びかかりそうになった黒狐の首根っこを掴む。
「んあああっ!はなせぇえ!」
尻尾を逆立て、ジタバタと手足を動かし、根津の手からどうにか離れようともがいていたが、先程の札のせいでか力が上手く入らず、数秒暴れて諦めた様に大人しくなった。
「くっそぉ……」
逆立っていた尻尾を垂らし、耳もへたりと垂らす。油揚げの良い香りも混じり、上手く力が出せそうにない。
「少しお札の力が強すぎましたね。私、生憎手加減を知らなくて……申し訳ありません」
悪びれもなくそう言うと、由依はお盆から箸をとり、油揚げを口に運んだ。
「ああっ!ずるいぞ!」
キャンキャンと吠えながら黒狐は由依の周りを駆け回る。それを軽くかわしながら由依は一枚の油揚げを食べ切った。
「あああ……!」
「ふふふ。私の肇くんを呪った罰です」
しおしおと更に萎れていく耳と尻尾を見て、根津はため息をついた。
「ったく……お前のせいで飛んだ目にあった。油揚げの前にこれだろ。ほら、探してたもの」
根津は上着のポケットから白い狐の面を取り出した。かなり年季が入り、所々が黒ずんで汚れている。裏返すと中心部に『鬼』という文字が彫られていた。紐も汚れて茶色く変色しており、長年放置されていたのにも関わらず、亀裂や欠けているところがなく、汚れているだけというのは、どう考えても普通の人間が持つようなの物ではない。
「あぁっそれは!やっぱりお前が持っていたんだなっ!」
黒狐は根津の差し出した面を引っ手繰ると、その場でまた威嚇体勢をとる。喉がグルグルと鳴り、野生の獣そのものだ。噛みつかれたら酷い怪我を負いそうだと、二人は眉を寄せる。
「違いますよ」
由依はやれやれ、とため息を吐く。
「貴方が倒れた後、肇くんが探して来てくれたんです。不思議なお面なので、貴方の呪いを受けてる彼だから探せたのありますが……。あの日、騒いだ貴方がどこかにすっ飛ばしたのでしょう。あの時の肇くんはちゃんと友達が用意した蝋燭だけを手にしていたんですよ」
「……そう、なのか?」
黒狐は疑り深そうに根津の顔を見上げた。根津の着ていた服の裾や膝に土が付いているのが見え、嘘ではないことがわかった。
「……あぁ。その面は不思議な力がないとそもそも見れないらしい。今の俺はお前の呪いのせいだから見えるらしいが……。そんな怪しい面、記憶にないの方がおかしいだろ」
黒狐は納得したのか、複雑な顔を見せる。
「……あ、主が……知ったら……どうしよう……」
ずっと勘違いをして、関係ない人間に危害を加えていた。人間は主の仲間で、同じ種族だ。彼が居なくなってもそれは違わない。きっと、こんな馬鹿馬鹿しい勘違いで人を呪っただなんて知られたら…………。
「お前、名前は?」
「……黒楼(くろう)」
「見たままかよ」
「煩い、主がつけてくれたんだっ!」
「それで、その主という方は?」
由依の質問に黒楼は一瞬黙ったが、久々に見た主との夢を、彼との別れを二人に話した。
「……きっと、主は誰かに苦しめられていたんだ。人間からもらったものを口にするといつも渋い顔をして、咳き込んでいた。だから、人間はオレの大事なものを盗っていくやつらばかりだって……」
すると由依と根津は揃って大きなため息を吐いた。
「お前なぁ……。人間をなんだと思ってるんだ」
「えぇ。心外にも程がありますよ」
「なんだと!」
由依は黒楼の頭をゆっくりと撫でた。
「貴方のご主人、きっと病と戦っていたんですよ。良薬は口に苦しというでしょう。私も肇くんも薬を飲むとだいたい咳き込みますし……」
「くすり?」
黒楼は小さな頭を傾げた。
あれは主を苦しめていたものではないというのか……?
「えぇ。病気を治すものです。だから、貴方のご主人に何かを渡していた方は、ご主人の味方、良い人間ですよ」
味方……。
由依のその言葉に、黒楼の目頭が熱くなった。
あの時から人間は大事なものを奪っていく悪いやつらだとばかり思っていた。そのせいで多くの人間を呪ってきた。悪戯も沢山した。今回もそうだった。肇が祠から持ち去ろうとしたのは蝋燭だった。勘違いを起こし、自らの手で失くしていたものを、肇のせいだと思い込み、長い年月ずっと肇を探して見つけ出し、夢の中で祠の封印を解かせ……呪った。
それも全部…………。
「オレの……思い違い?」
ぽろぽろと床に涙が溢れた。黒楼の目からきらきらと光る涙がこぼれ落ちる。
「えぇ。肇くんも、ご主人の周りにいた方々も貴方の大事なものは何も奪っていませんよ」
「本当か……?」
「疑り深いな……。このセンセーは胡散臭いけど嘘は言わねぇよ」
「酷いですねぇ、胡散臭いは余計です」
わざとらしく頬を膨らませる由依を見て、根津は小さな舌打ちをした。
「……肇」
「なんだ」
「……お面、ありがとうな……。あと、脅かしてごめんなさい……。」
「あぁ……」
根津は黒楼の頭を静かに撫でた。
「千歳っ!肇っ!」
いつからいたのか分からないが、由依と根津が戻ると、とさやが玄関まで走って出迎えにきた。
「おや、来ていたんですか」
「遊びに来たら、いないんだもん。寂しかった」
さやは荷物を降ろした由依に抱きついた。座敷童子は重さが殆どない。そもそもが大して食べれずに命を落とした子どもだ。それでも抱きつかれた反動でよろめいた由依を背後で根津が支えた。
「すみませんでした。お詫びにこちら、肇くんの地元で有名な芋羊羹を買ってきましたよ。後で一緒に食べましょうね」
「うん!あれ……?」
「どうかしましたか?」
さやは由依の首に腕を回しながら根津をじっと見つめた。
「肇の黒いもやもや、消えたね。でも、どうしてあっちに置いてこなかったの?」
「あー……」
さやは首を傾げながら根津の足元を指さし、由依に尋ねた。もう黒楼の呪いからは解放された根津だったが、また一人になるのは嫌だと駄々を捏ねた黒楼を振り切ることが出来ず、仕方なく連れ帰ってきてしまったのだ。
「不良少年と捨て犬は切っても切れない関係ですから」
根津の足元で広い玄関を眺め見ていた黒楼は「オレは犬じゃないっ!」とキャンキャン声で吠えた。
「弱い犬ほどよく吠えるって諺があるの、知ってますか?」
「なにぃっ!」
「おい、クロ。そこにいるならこの人に構うな……面白がってるだけだから」
根津は溜息を吐きながら言った。怨念を消した黒楼は根津には視えないため、黒楼の反応を想像して諭す。
「そうだ、早いとこ渡しておきますね」
由依は手にぶら下げていた巾着から、小さな箱を取り出した。
「こちらをどうぞ」
「なんだよ」
訝しげな顔をして、恐る恐る根津が箱を受け取る。手のひらサイズのそれをまじまじと見つめ、ゆっくりと開いた。
「……は?」
中身を確認した根津は眉を寄せ、由依の顔を見上げた。開いた箱にはシンプルなシルバーリングがこぢんまりと収まっていたのだ。
「エンゲージリングですよ」
「ざっけんな、気色悪ぃ。返す」
「返さないでください。これがあれば、私の力を使わなくてもさやさんとクロくんの姿が視えるようになりますよ。もちろん、私からの愛はたっぷりと……」
由依が全て言い切る前に、根津はそのリングを右手の中指にはめた。すると、先程まで視界にいなかったはずのさやと黒楼が、はっきりと根津にも視え始めた。
「オレ達、ちゃんと見えてるのか?」
黒楼とがおずおずと根津の顔を覗き込む。
「……あぁ」
根津は屈んで手を伸ばし、黒楼の頭を優しく撫でた。
「ちゃんと視える」
さやの方へも視線を向け、根津は言った。由依はその様子を横目に見ながら、静かに微笑むと居間へ向かう。さやを優しく床へ下ろすと、こたつのスイッチを入れ、石油ストーブの電源を入れた。灯油のつんとした匂いが部屋に漂う。
「さて、お茶を飲みながら咲さんを呼び出しましょうか」
「本当?もう、お母さんに会えるのっ」
「えぇ。肇くんが本を持ち帰ってきてくれましたから」
「肇、ありがとう」
さやはにこりと笑って根津の足に抱きついた。根津は小さく返事をしてさやの頭を優しく撫でる。
「さや、遅くなって悪かったな」
「ううん。大丈夫。肇の事も大事だもの」
えへへ、と照れ臭そうに笑うと、今度は黒楼の方に向き直る。
「こんにちは黒狐さん。わたし、さやっていうの」
「黒楼だ」
スンスンと鼻をさやの着物の匂いを嗅ぐ。くすぐったいと言ってさやがじゃれついた。
「ふふふ。仲良くなってくれて良かったですねぇ」
「そうだな。んで、咲を呼び出したらそっからは仕事の時間だ」
「まさか……!肇くんってば、私がこのか弱い身体を張ってまで助けてあげたというのに……」
「それとこれとは別の話だろ、センセー」
根津はニヤリと笑う。由依は下唇を突き出しながら頬を膨らませた。
「芋羊羹は全部終わった後のご褒美だな」
わざとらしいその膨れっ面が鼻についたのか、眉をぴくんと動かした根津は、由依が先程ルンルンと持ち運んでいた紙袋を取り上げた。
「なっ!肇くんの意地悪……!」
「なんとでも。アンタ、天才作家なんだろ」
「んもぅ!そうやって揚げ足ばっかり取って!」
「次の締切こそギリギリを回避してもらうからなァ!」
バタバタと広い平屋に大人の足音と、微かに小さな笑い声がふたつ。交わる事のない世界がこの屋根の下で一つに重なった。
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