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怨念の黒い炎
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「肇くん、肇くん。起きてください」
身体を揺さぶられ、根津はゆっくりと目を開けた。酷く身体が怠く、目が回る。視界が定まっているのに歪んでいるように見えて気持ちが悪い。
「起き上がれますか。お水を飲んでください」
由依に助けられながら起き上がるのがやっとで、背中を支えてもらいながら差し出されたグラスに口をつけた。
「すみません……。少し長くやりすぎました」
「頭……痛い」
「えぇ、横になっててください。出版社へは私が連絡しておきますから」
こたつ布団を被せ、由依はグラスを受け取ると、いそいそと玄関に置いてある固定電話に向かっていった。
根津は先程の記憶を思い返す。全く覚えがない。肝試しに行くまでの記憶は確かに覚えがあった。祠の前まで行った覚えも。ただ、その先の記憶は全く覚えのないものだった。
ゆっくり、手を伸ばして自分の首をさする。つい最近夢で見た苦しい悪夢と同じような締め付け方だった。ギリギリと爪を立て、突き刺すような鋭さに全体重をかけて締め上げられる。喉仏のすぐ下の窪みに、指が入り込み、深い苦しさに恐怖を感じたのを思い出した。そして、あの青年が引っかかる。
あれは、絶対…………。
「肇くん、兼田さんが午後を有休にしてくださいましたよ」
電話を終えた由依が居間に戻って来た。
「……余計なお世話だっつーの」
心配そうに横になった根津の顔を覗き込む。顔を近づけていくと、不意に手首を掴まれた。
「わっ」
華奢な身体の由依は簡単に組み敷かれた。根津は片手で両手を押さえつけ、もう片方の手で自分のこめかみを摩った。ガンガンと響く痛みが和らぐ兆しが見えない。
「ちょ、何するんですかっ」
「逃げそうだからな」
「何を」
バタバタと足を動かし、身体を捻って逃れようとするが力の差は歴然で全く歯が立たない。
「アンタだろ。俺を助けたのは」
「な、何を言って……。私はもっと美少年でしたっ!」
「あんな怪しい術を使える奴がそんじょそこらに居てたまるかよ。吐け、何をしてた」
手首を掴む力を入れられ、由依は歯をくいしばる。
「わ、わかりましたっ。言います、言いますからぁっ!」
足をバタつかせ、由依が叫ぶと根津は手を離した。
「もぅ、乱暴は嫌ですよ、まったく……。私が美青年だからってお昼から盛らないでもらえますか?」
「うるせぇよ、アラサーじじぃ。頭に響く」
根津は由依の上から身体を退かし、こたつに座り直すと、テーブルに両肘をついて指でこめかみを揉む。
「あーもぅ、皺になったじゃないですか。後でアイロン掛けてくださいよっ」
「へいへい」
生返事をする根津の向かいの座り直すと、由依は襟を正しながら口を開いた。
「黙っていたことは悪かったですけど、私も色々確信が持てなかったんです。肇くんがあんまり覚えてないと言うし、助けた男の子はまだ幼い感じがあって可愛らしかったので。まさか彼が肇くんだったとは思いませんでした……」
「そうかよ」
根津はいつもよりも強めに睨んだ。
「ちなみに、記憶を消したのは私ではありませんよ。あの時はあまり力も使い切れていませんし、修行の身でしたので」
「修行?」
「ええ。私、あの頃はあまり自分の力を制御出来ていなくて……」
由依は先程脱ぎ捨てたどてらを手繰り寄せ、肩にかけて羽織ると、お茶を淹れ直しながら話を続けた。
「昔も今のように妖に関する相談事を請け負っていたんですよ。あの時は全て一人で対応していたので、件数はこなせていませんが……。あの日、私は妖退治で近くのお寺に呼ばれていました。あの祠の山を管理しているというお寺の住職さんに。お話を聞いて、様子を伺いに行ったところで襲われている貴方達を見かけたのです」
「近くの寺……?」
根津は地元の地形を頭に浮かべる。確かに、あの山の近くには寺があったが、あの山が私有地だとは聞いたことがなかった。
「ええ。あの山の反対側に小さなお寺があるんですよ。学校からは見えにくいかと思いますが。実はそこで、あの山の祠の話があがっていて。昔から近づいてはいけない、という言い伝えがあるから気味が悪い、でも誰も理由をしらない。管理を請け負っていても、いつか何かありそうで恐ろしい……って」
「あぁ、近づいてはいけないってのは確かに言われていた。あの祠で間違いねぇよ。鬼が出るとか、山姥が出るとか、そうやって昔から脅かされてはきていたけどな」
子どもの頃、よく学校の先生や親に「あそこへは行ってはだめ」と言いつけられた経験は誰しもがあっただろう。理由は様々だが、不審者が出そうなほど暗いだとか、整備されていない獣道だからとか。安全性が低く、人目も少ないのが主な理由がだいたいだと言える。しかし、中には「昔からあそこには」といった枕言葉が使われるような曰く付きの場所も存在した。根津の地元がまさにそれで、誰一人としてその理由を知る者がいない。当時はどうせ、子ども達を早く家に帰らせるための言い聞かせの一つだと思っていたが、そうではないのはすでに身をもって知った。書物などに残っていない言い伝えは途中から途切れてしまう、なんてのは良くあることだったが、そういう形としても残ってもいないのに、誰も近づきたがらない場所だった。
「だからあそこに居たのは偶然です。まぁ、偶然というか必然というか。この世に偶然なんてないとも言われてますし」
由依は淹れ直したお茶を根津の前にも置いた。
「で、あの黒い炎の奴はどうしたんだ」
「もちろん、あの当時に出来る限りの事をしたつもりでした」
「つもりって何だよ」
「ですから、封印はした筈だったんです。あの後、お寺に戻って更に強いまじないもかけましたが……。誰かが解いてしまったのでしょうね……」
静かにお茶を啜る音が部屋に響く。先日直ったばかりの時計の音がやたらと煩く感じた。
「誰かって、誰だ」
「さぁ、そこまでは……。封印が解け、あの黒い炎を操る妖が、肇くんの周りをウロウロしていることは違いなさそうですね」
「……もう一度封印することは可能なのか?」
「出来なくはないと思います。そのためにはもう一度あの祠を確認する必要があるかと……」
由依の言葉に、根津は物凄く嫌そうな顔をした。家を出てからというものの、何年も帰っていない。今更な里帰りで気が引ける上に、理由が理由だ。黙って帰ったとしても、管理者以外にあの山に向かう者がいたら噂になるのはまず間違いない。
「……アンタだけで行ってくれ」
「それは出来ません。私がいない間に、貴方が襲われたら誰が助けるんですか」
「俺には仕事もある」
「有休を延ばせばいいでしょう。どうせ、ろくに消化もしていないんですから、これを機に使ってしまうのはどうですか?」
誰のせいで使う暇がないというのだ、と喉元で出かけたが、根津は代わりに大きな溜息をつくと、渋々と承諾の返事を返した。
相変わらずのド田舎だ……。
無人駅を降りた根津は、周りの山々を見上げた。家の何処からか引っ張り出してきたかわからないが、デジタルカメラでその辺りをやたらと撮り回る目の前の小説家はさて置き、昔から何も変わらない地元の風景を見て、胸の辺りが少しだけ温かく感じる。
「おい、旅行じゃねぇんだぞ」
「良いじゃないですか。二人で遠出なんて久々なんですから」
そう言いながらカメラを根津に向け、仏頂面を一枚収める。
「ったく……。土地勘ねぇんだから、逸れんなよ」
「はぁい」
何を言っても、何処へ行ってもこの男のマイペース加減は変わらないことに呆れながら、根津はカメラに夢中な由依の腕を引き、駅のホームを離れた。
高台になっている駅から見えた畑や田んぼの続く田舎道を歩き、舗装された道に出る。舗装されているとはいえ、すぐ隣には薮が広がり、街灯も相変わらず少ない道だった。そこを暫く進んでいくと、古い学校が見えてくる。根津は目的地が近付いたことを由依に伝えた。
「祠があるのはあの学校の裏の山だ」
根津は腕時計を確認する。山の管理をしている寺の住職との約束まではまだ少し時間があるようだった。
「おや、ご両親にご挨拶は良いのですか?」
足を止めない根津に、由依は声をかける。山や田畑にカメラを向け、懲りずに写真を撮っていた。
「何年も会ってないし、今更だろ」
「息子が顔を出すのに理由も今更もないと思いますが」
「良いんだよ。行くぞ」
先を歩く根津が早足になる。大学進学で上京してからというもの、殆ど帰省をしていない。別に家庭環境が悪い訳でもなんでもないが、車を持たない自分が都会からここへ来るのに半日は掛かってしまう。面倒くさがった結果、何年も帰省せずそのままになってしまった。
「まったく、遅れてきた反抗期ですかねぇ」
「うるせぇ」
理由を説明したところで、この男はもっと面倒くさそうな事を言い出すだろう。第一、この面倒くさい男は自分の締切日が迫っているのもわかっているのだろうか。有休を取った自分にくっついて遠出をしている事が編集部に知られてしまうのは厄介だ。と言っても、自分が休んだため、進捗確認に出向くことになった兼田にはすぐバレてしまうのだろうが。懐かしさに寄り道をして、帰りが遅くなってしまう事を考えると、どんどん兼田に申し訳なくなって、根津は黙って先を急ぐ他なかった。
中学校の横を通り、裏山へ続く道を真っ直ぐ歩く。古く錆びたフェンスから見える校舎は、平日の昼間にしてはやけに静かだった。
「この学校……廃校でしょうか?」
「あぁ……一昨年でな。隣町と統合したってよ」
「疎遠なくせに、そういうのは知ってるんですね」
由依のその一言に根津は舌打ちを返す。一昨年、同窓会の案内が実家から転送されたのを思い出した。たぶん、あれがこの校舎でやれる最後の同窓会だったのだろう。卒業してから一度も参加したことはないし、もうあの頃の記憶はぼんやりとしか覚えていない。
「繋がりを疎遠にばかりしていると、貴方の方が消えてしまいますよ」
「……どういう事だよ」
「人との繋がりは人にしか持てない、大事なものだと言ったんです」
周りの木々が風に揺れる。由依の笑い声が後ろから聞こえた。
ったく、調子が狂う……。
「……先に寺へ行く」
「そうしましょう」
根津が小さな溜息を吐き、裏山への入口を横切ろうとした時だった。裏山から根津と由依の歩く田舎道の方へ、突風がまるで一直線上を駆ける様に走った。
「うわっ」
目も開けていられないその強風に、二人は身を屈めた。踏ん張る体力がそもそも皆無だった由依は、その場に膝から崩れ落ちる。手を貸そうにも、根津は自分が立っているのがやっとだった。
「くっそ……!」
両腕で顔を風から守り、薄く開いた目で、周りの様子を伺うと、おかしな事に由依と根津の立っている範囲外に風が吹いている様子が見えなかった。突風に煽られ揺れているはずの木々は静かに凪いでいて、草も対して揺れている様子がない。
どういう……ことだ?
『遅いよ肇。待ちくたびれた』
同時にあの夢で聞いた声が、山の奥から聞こえて来る。
「は、はじ、めくんっ!聞い、てはだめ、です!」
由依にもその声が聞こえたのだろう。耳を傾けてはダメだと、言いたかったが、風が強くて上手く口を開ける事が出来ない。
『ダメだよ肇。もう逃がさない。返してくれるまで帰さない』
再び聞こえた声は、先程の声よりも禍々しく、低くて重い。
何を返せだって……?俺が、何を取ったって……。
その時だった。黒い影が山から勢いよく走り、根津の身体に思いっきりぶつかった。
「うっ!」
妙な浮遊感と吐き気がした。口に手を当てた根津はその場に倒れ込んだ。
「肇っ!!」
由依が叫んだと同時に、ぴたりと強風が止んだ。風が当たってぐしゃぐしゃになった髪を振りながら由依は根津の方へ駆け寄る。顔色が真っ青だ。
「大丈夫ですかっ」
「う……あぁ……」
根津は頭を押さえながらゆっくりと身体を起こす。倒れた時の打ち所は悪くなかったが、まだ目が回っている気がして、焦点が定まらない。
「ご気分は?」
「最悪だ……」
小さな唸り声を漏らしながら根津は答える。立ち上がることはできたが、頭がふらつき、咄嗟に由依に身体を預けた。
「……肇くん、貴方軽すぎですよ」
「アンタが重すぎるんだよ……」
まだ軽口を返せる余裕はあるようだった。由依は根津の肩に手を回し、彼を支える形を取ると、なるべくゆっくり足を動かして裏山へ続く山道から距離をとる。こんなのは気休めだ。また襲われる可能性も高い。さっきの黒い影はきっと……。
「とにかく、お寺に向かいましょう」
「……あぁ。頼む」
「これはこれは……」
住職は、由依に引き摺られるようにして運ばれた根津の顔色を見ると、敷地内にある自宅へと招き入れた。横になれるよう、布団を敷いてくれたのだが、根津は首を横に振り断った。
「どうせすぐに出るだろ」
「全く……イヤイヤ期のお子ちゃまより聞き分けないんですから」
由依は腰に手を当てわざとらしく軽口を叩くが、眉はハの字に寄せられており、心配していることは誰が見てもわかる。
「私がご住職と話をする間ぐらい、横になっていてください」
そう言われるが、頑なに根津は首を横に振った。どうにも先の黒い影が身体中を這いずり回っている感覚が抜けない。もしかしなくてもそうなのだろうが、はっきりとした感覚がやけに気持ち悪く、横にでもなれば更にそれを強く感じ取りそうだった。
「仕方ない人ですね……。ご住職、失礼ではありますが彼の姿勢だけ崩させてください」
「えぇ、構いませんよ」
由依の申し出に住職は心配そうに根津の顔色を見ながら答えた。由依は根津を自分の横に座らせると、その頭を肩にもたれかかせる。
「悪い……」
「お家に帰ったら肇くん特製のおしるこで手を打ちましょう。さて、本題に移りますが……。ご住職、私の事を覚えていらっしゃいますか」
由依の質問に住職は「もちろん」と答えた。
「あなたの様な不思議な力をお持ちの青年を忘れる方が難しいですよ」
「ええ。以前、こちらに伺い、あの祠の妖を封印したはず……でした」
そう言いながら由依は自分に体重を預ける根津に視線を投げる。
「あの山はあれから立ち入り禁止に?」
「いいえ。でも、あの騒ぎの後でしたから、祠に近づく者はほとんどおりません。ですから……今日のようなことは、あの日以来まったくありませんでした」
「……なるほど」
由依はウーン、と小さく唸る。
あの日、封印道具である小さな壺に妖を封印したはずだった。その土地の妖だろうからと、祠の中にその壺を入れお札を貼り、力の持たない人間に解くことができないように厳重な封をした記憶がある。
考えられるのは、何かの拍子にその封印の札が剥がれかけ、閉じたところが緩くなったか……。或いは、閉じ込めた妖の力が想定上のものだったか……。
「そういえば、貴方があの日置いていったものも、まだありますよ」
「あぁ、それは良かった」
由依の顔が晴れる。住職は急に思い出したと言って、部屋から出て行った。ほんの数分経つと、住職は四合瓶を持って戻ってきた。
「こちらです」
「ありがとうございます」
由依は住職からその瓶を受け取ると、蓋を開け中の匂いを嗅ぐ。直ぐ横にいた根津も鼻をぴくんと動かした。酒の香りはしない。由依は試しに手の甲に一雫垂らし、それを舐めた。
「肇くん。こちらを飲んでください」
「……毒味かよ」
「違いますよ。私が残した聖水です」
「聖水……?」
「えぇ。万が一のために。あの時の妖は随分と何かに執着している様子もありましたから」
由依は「さぁ」ともう一声かけて根津に瓶を持たせる。青白い顔で渋々と受け取った根津は瓶に口を付けて中の聖水を飲んだ。喉が一度鳴り、身体の中へ聖水が入る。飲み込んで数秒後に身体中が沸々と熱を持ち始めた。
「うぅ……あっ……なん、これ……」
根津は胸と腹を抑え、倒れ込んだ。熱くて、焼けそうで、苦しい。
「大丈夫ですか!?」
「我慢してください。これで中に入ったモノを追い出します」
「が、がまんって……アン、タなァ…!」
眉間に薄らと青筋を立て、根津は転がり苦しみながら由依を睨む。その隣で住職は不安そうに目の前の二人を交互に見つめた。
何かが身体中で蠢いて、背中はゾクゾクと嫌な寒気さえする。次第に吐き気が喉の方まで昇り詰め、手を口で押さえた。
「肇くん、ダメですっ。ここで出します」
由依は咄嗟に根津の両手を押さえつけた。
「う、あぁ……っ!んぁっ!」
大きく口を開けたその時。根津の背中から黒い影が出始める。先の突風と共に根津へ向かったあの影に違いない。
「出ていきなさい。これは貴方の身体ではありませんよ」
由依は苦しさに暴れる根津の手首を力強く押さえつける。
『こいつはオレのモノを盗った。だから許さない。オレも奪って……こいつに苦しんでもらうんだ……!』
黒い影が動きながら徐々に身体から出てきている。根津の呻き声は先程よりも落ち着いてきていた。
「肇くんが何を盗ったと言うんです?」
『煩い煩い煩いお前には関係ない!!こいつがダメならお前から奪ってやる!!』
黒い影は完全に根津の身体から抜けきると、由依に向かって飛びかかる。
しまった……!
そう思い、由依が根津の手首から手を離した時だった。咄嗟に手を伸ばした根津が、由依の襟を掴み、畳に頭を叩きつけ、黒い影をかわした。
「痛っ……ら、乱暴な人ですねぇ……!」
「アンタも大概だろっ」
『許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないっ!!』
避けられた黒い影は、部屋をごおっという音を立てながら勢いよく一周すると、そのまま外へと飛んでいき、祠のある裏山の方へと消えていった。
「……あれは……一体なんなんでしょうか」
腰を抜かした住職は、黒い影が消えた方向を、見つめながらぼそりと言った。
「今からそれを確認してきます。やられっぱなしはうちの肇くんも黙ってられませんから」
「あぁ。まったくだ……」
少なくとも撒いてしまった種は自分にある。自分に執着する理由はあの時、無意識に何かを奪ってしまったからなのだろう。だったらそれを返してやらなければならない。
「なので、これを……お借りしますね」
由依は聖水の入った四合瓶を拾いあげると、住職に礼をした。
「さて、再戦を挑みに行きますか」
身体を揺さぶられ、根津はゆっくりと目を開けた。酷く身体が怠く、目が回る。視界が定まっているのに歪んでいるように見えて気持ちが悪い。
「起き上がれますか。お水を飲んでください」
由依に助けられながら起き上がるのがやっとで、背中を支えてもらいながら差し出されたグラスに口をつけた。
「すみません……。少し長くやりすぎました」
「頭……痛い」
「えぇ、横になっててください。出版社へは私が連絡しておきますから」
こたつ布団を被せ、由依はグラスを受け取ると、いそいそと玄関に置いてある固定電話に向かっていった。
根津は先程の記憶を思い返す。全く覚えがない。肝試しに行くまでの記憶は確かに覚えがあった。祠の前まで行った覚えも。ただ、その先の記憶は全く覚えのないものだった。
ゆっくり、手を伸ばして自分の首をさする。つい最近夢で見た苦しい悪夢と同じような締め付け方だった。ギリギリと爪を立て、突き刺すような鋭さに全体重をかけて締め上げられる。喉仏のすぐ下の窪みに、指が入り込み、深い苦しさに恐怖を感じたのを思い出した。そして、あの青年が引っかかる。
あれは、絶対…………。
「肇くん、兼田さんが午後を有休にしてくださいましたよ」
電話を終えた由依が居間に戻って来た。
「……余計なお世話だっつーの」
心配そうに横になった根津の顔を覗き込む。顔を近づけていくと、不意に手首を掴まれた。
「わっ」
華奢な身体の由依は簡単に組み敷かれた。根津は片手で両手を押さえつけ、もう片方の手で自分のこめかみを摩った。ガンガンと響く痛みが和らぐ兆しが見えない。
「ちょ、何するんですかっ」
「逃げそうだからな」
「何を」
バタバタと足を動かし、身体を捻って逃れようとするが力の差は歴然で全く歯が立たない。
「アンタだろ。俺を助けたのは」
「な、何を言って……。私はもっと美少年でしたっ!」
「あんな怪しい術を使える奴がそんじょそこらに居てたまるかよ。吐け、何をしてた」
手首を掴む力を入れられ、由依は歯をくいしばる。
「わ、わかりましたっ。言います、言いますからぁっ!」
足をバタつかせ、由依が叫ぶと根津は手を離した。
「もぅ、乱暴は嫌ですよ、まったく……。私が美青年だからってお昼から盛らないでもらえますか?」
「うるせぇよ、アラサーじじぃ。頭に響く」
根津は由依の上から身体を退かし、こたつに座り直すと、テーブルに両肘をついて指でこめかみを揉む。
「あーもぅ、皺になったじゃないですか。後でアイロン掛けてくださいよっ」
「へいへい」
生返事をする根津の向かいの座り直すと、由依は襟を正しながら口を開いた。
「黙っていたことは悪かったですけど、私も色々確信が持てなかったんです。肇くんがあんまり覚えてないと言うし、助けた男の子はまだ幼い感じがあって可愛らしかったので。まさか彼が肇くんだったとは思いませんでした……」
「そうかよ」
根津はいつもよりも強めに睨んだ。
「ちなみに、記憶を消したのは私ではありませんよ。あの時はあまり力も使い切れていませんし、修行の身でしたので」
「修行?」
「ええ。私、あの頃はあまり自分の力を制御出来ていなくて……」
由依は先程脱ぎ捨てたどてらを手繰り寄せ、肩にかけて羽織ると、お茶を淹れ直しながら話を続けた。
「昔も今のように妖に関する相談事を請け負っていたんですよ。あの時は全て一人で対応していたので、件数はこなせていませんが……。あの日、私は妖退治で近くのお寺に呼ばれていました。あの祠の山を管理しているというお寺の住職さんに。お話を聞いて、様子を伺いに行ったところで襲われている貴方達を見かけたのです」
「近くの寺……?」
根津は地元の地形を頭に浮かべる。確かに、あの山の近くには寺があったが、あの山が私有地だとは聞いたことがなかった。
「ええ。あの山の反対側に小さなお寺があるんですよ。学校からは見えにくいかと思いますが。実はそこで、あの山の祠の話があがっていて。昔から近づいてはいけない、という言い伝えがあるから気味が悪い、でも誰も理由をしらない。管理を請け負っていても、いつか何かありそうで恐ろしい……って」
「あぁ、近づいてはいけないってのは確かに言われていた。あの祠で間違いねぇよ。鬼が出るとか、山姥が出るとか、そうやって昔から脅かされてはきていたけどな」
子どもの頃、よく学校の先生や親に「あそこへは行ってはだめ」と言いつけられた経験は誰しもがあっただろう。理由は様々だが、不審者が出そうなほど暗いだとか、整備されていない獣道だからとか。安全性が低く、人目も少ないのが主な理由がだいたいだと言える。しかし、中には「昔からあそこには」といった枕言葉が使われるような曰く付きの場所も存在した。根津の地元がまさにそれで、誰一人としてその理由を知る者がいない。当時はどうせ、子ども達を早く家に帰らせるための言い聞かせの一つだと思っていたが、そうではないのはすでに身をもって知った。書物などに残っていない言い伝えは途中から途切れてしまう、なんてのは良くあることだったが、そういう形としても残ってもいないのに、誰も近づきたがらない場所だった。
「だからあそこに居たのは偶然です。まぁ、偶然というか必然というか。この世に偶然なんてないとも言われてますし」
由依は淹れ直したお茶を根津の前にも置いた。
「で、あの黒い炎の奴はどうしたんだ」
「もちろん、あの当時に出来る限りの事をしたつもりでした」
「つもりって何だよ」
「ですから、封印はした筈だったんです。あの後、お寺に戻って更に強いまじないもかけましたが……。誰かが解いてしまったのでしょうね……」
静かにお茶を啜る音が部屋に響く。先日直ったばかりの時計の音がやたらと煩く感じた。
「誰かって、誰だ」
「さぁ、そこまでは……。封印が解け、あの黒い炎を操る妖が、肇くんの周りをウロウロしていることは違いなさそうですね」
「……もう一度封印することは可能なのか?」
「出来なくはないと思います。そのためにはもう一度あの祠を確認する必要があるかと……」
由依の言葉に、根津は物凄く嫌そうな顔をした。家を出てからというものの、何年も帰っていない。今更な里帰りで気が引ける上に、理由が理由だ。黙って帰ったとしても、管理者以外にあの山に向かう者がいたら噂になるのはまず間違いない。
「……アンタだけで行ってくれ」
「それは出来ません。私がいない間に、貴方が襲われたら誰が助けるんですか」
「俺には仕事もある」
「有休を延ばせばいいでしょう。どうせ、ろくに消化もしていないんですから、これを機に使ってしまうのはどうですか?」
誰のせいで使う暇がないというのだ、と喉元で出かけたが、根津は代わりに大きな溜息をつくと、渋々と承諾の返事を返した。
相変わらずのド田舎だ……。
無人駅を降りた根津は、周りの山々を見上げた。家の何処からか引っ張り出してきたかわからないが、デジタルカメラでその辺りをやたらと撮り回る目の前の小説家はさて置き、昔から何も変わらない地元の風景を見て、胸の辺りが少しだけ温かく感じる。
「おい、旅行じゃねぇんだぞ」
「良いじゃないですか。二人で遠出なんて久々なんですから」
そう言いながらカメラを根津に向け、仏頂面を一枚収める。
「ったく……。土地勘ねぇんだから、逸れんなよ」
「はぁい」
何を言っても、何処へ行ってもこの男のマイペース加減は変わらないことに呆れながら、根津はカメラに夢中な由依の腕を引き、駅のホームを離れた。
高台になっている駅から見えた畑や田んぼの続く田舎道を歩き、舗装された道に出る。舗装されているとはいえ、すぐ隣には薮が広がり、街灯も相変わらず少ない道だった。そこを暫く進んでいくと、古い学校が見えてくる。根津は目的地が近付いたことを由依に伝えた。
「祠があるのはあの学校の裏の山だ」
根津は腕時計を確認する。山の管理をしている寺の住職との約束まではまだ少し時間があるようだった。
「おや、ご両親にご挨拶は良いのですか?」
足を止めない根津に、由依は声をかける。山や田畑にカメラを向け、懲りずに写真を撮っていた。
「何年も会ってないし、今更だろ」
「息子が顔を出すのに理由も今更もないと思いますが」
「良いんだよ。行くぞ」
先を歩く根津が早足になる。大学進学で上京してからというもの、殆ど帰省をしていない。別に家庭環境が悪い訳でもなんでもないが、車を持たない自分が都会からここへ来るのに半日は掛かってしまう。面倒くさがった結果、何年も帰省せずそのままになってしまった。
「まったく、遅れてきた反抗期ですかねぇ」
「うるせぇ」
理由を説明したところで、この男はもっと面倒くさそうな事を言い出すだろう。第一、この面倒くさい男は自分の締切日が迫っているのもわかっているのだろうか。有休を取った自分にくっついて遠出をしている事が編集部に知られてしまうのは厄介だ。と言っても、自分が休んだため、進捗確認に出向くことになった兼田にはすぐバレてしまうのだろうが。懐かしさに寄り道をして、帰りが遅くなってしまう事を考えると、どんどん兼田に申し訳なくなって、根津は黙って先を急ぐ他なかった。
中学校の横を通り、裏山へ続く道を真っ直ぐ歩く。古く錆びたフェンスから見える校舎は、平日の昼間にしてはやけに静かだった。
「この学校……廃校でしょうか?」
「あぁ……一昨年でな。隣町と統合したってよ」
「疎遠なくせに、そういうのは知ってるんですね」
由依のその一言に根津は舌打ちを返す。一昨年、同窓会の案内が実家から転送されたのを思い出した。たぶん、あれがこの校舎でやれる最後の同窓会だったのだろう。卒業してから一度も参加したことはないし、もうあの頃の記憶はぼんやりとしか覚えていない。
「繋がりを疎遠にばかりしていると、貴方の方が消えてしまいますよ」
「……どういう事だよ」
「人との繋がりは人にしか持てない、大事なものだと言ったんです」
周りの木々が風に揺れる。由依の笑い声が後ろから聞こえた。
ったく、調子が狂う……。
「……先に寺へ行く」
「そうしましょう」
根津が小さな溜息を吐き、裏山への入口を横切ろうとした時だった。裏山から根津と由依の歩く田舎道の方へ、突風がまるで一直線上を駆ける様に走った。
「うわっ」
目も開けていられないその強風に、二人は身を屈めた。踏ん張る体力がそもそも皆無だった由依は、その場に膝から崩れ落ちる。手を貸そうにも、根津は自分が立っているのがやっとだった。
「くっそ……!」
両腕で顔を風から守り、薄く開いた目で、周りの様子を伺うと、おかしな事に由依と根津の立っている範囲外に風が吹いている様子が見えなかった。突風に煽られ揺れているはずの木々は静かに凪いでいて、草も対して揺れている様子がない。
どういう……ことだ?
『遅いよ肇。待ちくたびれた』
同時にあの夢で聞いた声が、山の奥から聞こえて来る。
「は、はじ、めくんっ!聞い、てはだめ、です!」
由依にもその声が聞こえたのだろう。耳を傾けてはダメだと、言いたかったが、風が強くて上手く口を開ける事が出来ない。
『ダメだよ肇。もう逃がさない。返してくれるまで帰さない』
再び聞こえた声は、先程の声よりも禍々しく、低くて重い。
何を返せだって……?俺が、何を取ったって……。
その時だった。黒い影が山から勢いよく走り、根津の身体に思いっきりぶつかった。
「うっ!」
妙な浮遊感と吐き気がした。口に手を当てた根津はその場に倒れ込んだ。
「肇っ!!」
由依が叫んだと同時に、ぴたりと強風が止んだ。風が当たってぐしゃぐしゃになった髪を振りながら由依は根津の方へ駆け寄る。顔色が真っ青だ。
「大丈夫ですかっ」
「う……あぁ……」
根津は頭を押さえながらゆっくりと身体を起こす。倒れた時の打ち所は悪くなかったが、まだ目が回っている気がして、焦点が定まらない。
「ご気分は?」
「最悪だ……」
小さな唸り声を漏らしながら根津は答える。立ち上がることはできたが、頭がふらつき、咄嗟に由依に身体を預けた。
「……肇くん、貴方軽すぎですよ」
「アンタが重すぎるんだよ……」
まだ軽口を返せる余裕はあるようだった。由依は根津の肩に手を回し、彼を支える形を取ると、なるべくゆっくり足を動かして裏山へ続く山道から距離をとる。こんなのは気休めだ。また襲われる可能性も高い。さっきの黒い影はきっと……。
「とにかく、お寺に向かいましょう」
「……あぁ。頼む」
「これはこれは……」
住職は、由依に引き摺られるようにして運ばれた根津の顔色を見ると、敷地内にある自宅へと招き入れた。横になれるよう、布団を敷いてくれたのだが、根津は首を横に振り断った。
「どうせすぐに出るだろ」
「全く……イヤイヤ期のお子ちゃまより聞き分けないんですから」
由依は腰に手を当てわざとらしく軽口を叩くが、眉はハの字に寄せられており、心配していることは誰が見てもわかる。
「私がご住職と話をする間ぐらい、横になっていてください」
そう言われるが、頑なに根津は首を横に振った。どうにも先の黒い影が身体中を這いずり回っている感覚が抜けない。もしかしなくてもそうなのだろうが、はっきりとした感覚がやけに気持ち悪く、横にでもなれば更にそれを強く感じ取りそうだった。
「仕方ない人ですね……。ご住職、失礼ではありますが彼の姿勢だけ崩させてください」
「えぇ、構いませんよ」
由依の申し出に住職は心配そうに根津の顔色を見ながら答えた。由依は根津を自分の横に座らせると、その頭を肩にもたれかかせる。
「悪い……」
「お家に帰ったら肇くん特製のおしるこで手を打ちましょう。さて、本題に移りますが……。ご住職、私の事を覚えていらっしゃいますか」
由依の質問に住職は「もちろん」と答えた。
「あなたの様な不思議な力をお持ちの青年を忘れる方が難しいですよ」
「ええ。以前、こちらに伺い、あの祠の妖を封印したはず……でした」
そう言いながら由依は自分に体重を預ける根津に視線を投げる。
「あの山はあれから立ち入り禁止に?」
「いいえ。でも、あの騒ぎの後でしたから、祠に近づく者はほとんどおりません。ですから……今日のようなことは、あの日以来まったくありませんでした」
「……なるほど」
由依はウーン、と小さく唸る。
あの日、封印道具である小さな壺に妖を封印したはずだった。その土地の妖だろうからと、祠の中にその壺を入れお札を貼り、力の持たない人間に解くことができないように厳重な封をした記憶がある。
考えられるのは、何かの拍子にその封印の札が剥がれかけ、閉じたところが緩くなったか……。或いは、閉じ込めた妖の力が想定上のものだったか……。
「そういえば、貴方があの日置いていったものも、まだありますよ」
「あぁ、それは良かった」
由依の顔が晴れる。住職は急に思い出したと言って、部屋から出て行った。ほんの数分経つと、住職は四合瓶を持って戻ってきた。
「こちらです」
「ありがとうございます」
由依は住職からその瓶を受け取ると、蓋を開け中の匂いを嗅ぐ。直ぐ横にいた根津も鼻をぴくんと動かした。酒の香りはしない。由依は試しに手の甲に一雫垂らし、それを舐めた。
「肇くん。こちらを飲んでください」
「……毒味かよ」
「違いますよ。私が残した聖水です」
「聖水……?」
「えぇ。万が一のために。あの時の妖は随分と何かに執着している様子もありましたから」
由依は「さぁ」ともう一声かけて根津に瓶を持たせる。青白い顔で渋々と受け取った根津は瓶に口を付けて中の聖水を飲んだ。喉が一度鳴り、身体の中へ聖水が入る。飲み込んで数秒後に身体中が沸々と熱を持ち始めた。
「うぅ……あっ……なん、これ……」
根津は胸と腹を抑え、倒れ込んだ。熱くて、焼けそうで、苦しい。
「大丈夫ですか!?」
「我慢してください。これで中に入ったモノを追い出します」
「が、がまんって……アン、タなァ…!」
眉間に薄らと青筋を立て、根津は転がり苦しみながら由依を睨む。その隣で住職は不安そうに目の前の二人を交互に見つめた。
何かが身体中で蠢いて、背中はゾクゾクと嫌な寒気さえする。次第に吐き気が喉の方まで昇り詰め、手を口で押さえた。
「肇くん、ダメですっ。ここで出します」
由依は咄嗟に根津の両手を押さえつけた。
「う、あぁ……っ!んぁっ!」
大きく口を開けたその時。根津の背中から黒い影が出始める。先の突風と共に根津へ向かったあの影に違いない。
「出ていきなさい。これは貴方の身体ではありませんよ」
由依は苦しさに暴れる根津の手首を力強く押さえつける。
『こいつはオレのモノを盗った。だから許さない。オレも奪って……こいつに苦しんでもらうんだ……!』
黒い影が動きながら徐々に身体から出てきている。根津の呻き声は先程よりも落ち着いてきていた。
「肇くんが何を盗ったと言うんです?」
『煩い煩い煩いお前には関係ない!!こいつがダメならお前から奪ってやる!!』
黒い影は完全に根津の身体から抜けきると、由依に向かって飛びかかる。
しまった……!
そう思い、由依が根津の手首から手を離した時だった。咄嗟に手を伸ばした根津が、由依の襟を掴み、畳に頭を叩きつけ、黒い影をかわした。
「痛っ……ら、乱暴な人ですねぇ……!」
「アンタも大概だろっ」
『許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないっ!!』
避けられた黒い影は、部屋をごおっという音を立てながら勢いよく一周すると、そのまま外へと飛んでいき、祠のある裏山の方へと消えていった。
「……あれは……一体なんなんでしょうか」
腰を抜かした住職は、黒い影が消えた方向を、見つめながらぼそりと言った。
「今からそれを確認してきます。やられっぱなしはうちの肇くんも黙ってられませんから」
「あぁ。まったくだ……」
少なくとも撒いてしまった種は自分にある。自分に執着する理由はあの時、無意識に何かを奪ってしまったからなのだろう。だったらそれを返してやらなければならない。
「なので、これを……お借りしますね」
由依は聖水の入った四合瓶を拾いあげると、住職に礼をした。
「さて、再戦を挑みに行きますか」
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