さつきの花が咲く夜に

橘 弥久莉

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第七章:絡みつく孤独

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 「……お母さん」

 満留はくしゃりと顔を歪めると、ふわふわ
とやわらかな手触りのニットベストを撫でた。

 おそらくは、自分が仕事でいない間に隠れ
て編んでいたのだろう。爽やかな色合いのニ
ットは丸首で、前身頃から後身頃にかけて縁
の部分に三段の格子柄が編み込まれている。

 それは、シンプルだけれどどんな服にも合
わせやすい素敵な模様で、満留は一目で気に
入ってしまった。

 満留は両掌で涙を拭うと、テーブルに置い
たニットベストに顔を埋めた。

 ふわり、と母の匂いがして頬が緩む。
 目を閉じれば、金色のかぎ針を手に、微笑
みを浮かべながら編み物をする母の姿が瞼の
裏に見える。

 「……ありがと。お母さん……」

 満留は深く吸い込んだ息を吐き出しながら、
ぽつりと呟いた。


 自分が屠所としょの羊であると悟った母は、それ
でも最後まで『母』として生きることを諦め
なかった。

 娘のために出来ることを探し、娘のために
思い出を作り、娘のために決して消えること
のない愛情を残したのだ。

 その母が最後に伝えたかったのはきっと、
『あなたは独りじゃない』という言葉なのだ
ろう。自分がこの世で一人きりにならないよ
うにと、母は最後まで案じていたに違いない。

 満留はゆるりと顔を上げると、携帯電話を
トートバッグから取り出した。そして、もう
一度封筒から手紙を取り出す。

 便箋の最後に綴られた数字を指でなぞれば、
とくとくと鼓動が早なった。


――もう、十年近く会っていないというのに。
おばさんは自分のことを憶えてくれているの
だろうか?


 心の底では『会いたい』と思いながらも、
どうしてかそう思っているのが自分だけのよ
うな気がして、足を運ぶことが出来なかった。

 もう子どもじゃないから甘えるのが恥ずか
しいという、思春期ゆえの、複雑な思いもあ
ったかも知れない。けれど、いまは違った。


――勇気を持って、
会いたい人に手を伸ばして。


 尻込みする自分の背中を押してくれる、
やさしい母の言葉がある。

 満留は深呼吸を一つすると、液晶画面に並
ぶ丸いキーパッドに触れた。慎重に電話番号
を辿ると、やがて、トゥルルル♪と呼び出し
のコールが鳴り始める。

 満留はごくりと唾を吞み、じっと機械音が
途切れるのを待った。やがて、五回目、六回
目のコールが鳴ったかと思うと、ぷっ、と音
が途絶えた。――そして。

 『……はい。中谷です』

 電話の向こうに穏やかで、酷く懐かしい声
が聴こえた。その声を聴いた瞬間、満留の心
臓は痛いほどに震えてしまった。同時に懐か
しさも込み上げてきてしまって、ずず、と洟
をすする。満留は両手で携帯を握りしめると、
喉の奥から絞り出すように声を発した。
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