さつきの花が咲く夜に

橘 弥久莉

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第三章:准教授 妹崎 紫暢

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 「何だかイメージが湧かなくて。タイムト
ラベルと言えば、映画や漫画の中で主人公が
過去と未来を行ったり来たりする架空の物
語、という風にしか頭に浮かばないんです。
だから、その……」

 結局、妹崎の顔色を窺いながらも満留は思
ったままを口にする。あくまで作り話だと思
っているから純粋にエンターテイメントとし
て作品を楽しめる訳であって、いつか実現す
るかも知れないなどと思ったら、これからは
おちおち映画を観ることも出来なくなりそう
だった。

 妹崎は「せやな、当たり前や」と頷くと、
イレーザーを持ってホワイトボードの中心辺
りを大雑把に消し始めた。そして、マーカー
でそこに何かを書き始める。黙って見ていれ
ばそれはどうやら電車と人のようで、細く長
い長方形に、窓のようなものがいくつか並ん
でいた。雑な絵を描き終えると、妹崎はマー
カーでコンコンとそれを指した。

 「せっかくの機会やからな、特別講義や。
あんた、新幹線は乗ったことあるか?」

 「えっ?はい、まあ……」

 唐突に、目の前で妹崎の講義が始まってし
まい満留は目をシロクロさせる。すっかり忘
れていたが、妹崎は自分の研究に少しでも興
味を示す人間を見つけると、「わかった」と
言うまで長広舌をふるうのだ。それを知って
いるからこそ、いままでそういう素振りを見
せないようにしていたのだけれど。

 たったいま、彼の特別講義は始まってしま
った。満留は教壇から「立ちなさい」と指示
された生徒のように、ぴんと背筋を伸ばして
耳を傾けた。

 「ええか。信じられへんかも知れんけど
な、高速の乗り物に乗ったことのある人間は
知らんうちに未来へタイムトラベルしとるん
やで」

 初めて知る真実に、満留は目を丸くする。
 新幹線はたった一度、修学旅行でしか乗っ
たことがなかったが、まさか未来へタイムト
ラベルしているとは夢にも思わなかった。

 「それって、どういうことなんですか?」

 満留は妹崎の言葉に、目をきらきらと
させながら訊ねた。妹崎は、にぃ、と目を
細める。

 その時、四時限目の開始を告げるチャイム
が鳴った気がしたが、特別講義は続行され
た。

 「光の速さは秒速三十万キロなんやけど
な、その速度に近づくほど運動する物体の
時計の進み方は遅くなり、物体の長さは進行
方向に短くなるんや。つまり、静止している
観測者と光速で運動している物体の間に誤差
が生じ、物体は縮んで見える。その事象を身
近で体験できるんが新幹線や。仮に、時速
三百キロの新幹線で東京から博多へ移動する
と、新幹線の中はホームに静止している人間
より十億分の一秒だけ時間が遅れる。ちゅう
ことはや、新幹線の乗客は十億分の一秒だけ
未来へ行ったことになるんや。この意味わか
るか?」

 マーカーで新幹線の下に矢印を書き込んで
妹崎が顔を覗く。「わかるか?」と聞かれ
ると、「わかりました」とは言えないが、
そう答えなければ話は延々と続いてしまい
そうだ。
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