伊都國綺譚

凛七星

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第七章

第七章

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 お京がどこかへと出た店の待合で、半ば下ろした蚊帳の裾に座ったわたしは一人っきりで蚊を追いながら、ときに湯沸しの加減に気をやった。たいそう暑さの烈しい晩なのだが、昔ながらの風情で商売をするところでは、お客が上がった合図に茶を持っていく習慣が残ってたりする。ここもそういう風であった。
 いつもならお京が店口に蚊遣香を焚いてるころだが、今宵は一度もともされてないと見え、家中にわめく蚊の群は顔を刺すのみならず、口中へも飛び込んできた。暫く坐って我慢していたが、堪らなくなって中仕切りの敷居際に置かれていた扇風機の引き手を捻ると破れていて廻らない。次いで抽斗から蚊遣香の破片を漸く取り出し火を点けた。
 窓から男の声がして何か紙片を差し入れるのと同時に、お京が帰ってきてその紙を取り上げた。卓に素っ気無く置かれたのを偸見すると、謄写摺りした強盗犯人の捜索協力回状だった。女はそんなものに目もくれず「あした抜かなくっちゃいけないって云うのよ、この歯」と、わたしを見ずに頬に手を当てた。

「じゃァ、今夜は食べる物はいらなかったな」

 わたしは手土産の惣菜と花代をわざとらしく置いて、一人先へ立って二階に上がった。二階は窓のある三畳間に卓袱台があり、次に六畳と四畳半ほどの二間があった。一体この家はもと一軒であったのを表と裏で二軒に仕切ったらしく、下は茶の間一室きりで台所も裏口もない。二階は階段のところから続いて四畳半まで壁は紙を貼った薄い板一枚で、裏隣の物音や話し声が手に取るように聞こえる按配だった。しばしば否応なく淫戯のうわ言を耳にして笑ってしまうことも度々である。

「あら、そんなとこ。暑いのにさ」

 上がってきたお京はすぐ窓のある三畳の方で染模様のカーテンを片寄せた。

「此処においでよ。いい風だ」

 手招きする方へと進むと窓から光が流れるのが見えた。

「さっきより幾らか涼しくなったな。成る程、よい風だ」

 窓のすぐ下は日蔽の葭簀に遮られていたが、向かい側に並んだ家の二階や、窓口に坐る女の顔、往来する人影、それら路地一帯の光景は案外遠くの方も見通せた。空は鉛色に重く垂れ下がって星も見えず、表通りの電飾灯が半空までも薄赤く染めている様子が蒸し暑い夜を尚一層のこと暑くした。
 お京は座布団を取って窓の敷居に載せ、そこに腰をかけると暫く空を眺めていたとおもったら突然わたしの手を握った。

「ねぇ、あなた」
「なんだ。どうした」
「あたし、借金を返しちまったら……あなた、おかみさんにしてくれない?」
「オレ見たようなの。仕様がないじゃないか」
「ハスになる資格がないって云うの?」
「食べさせることができないんだから、資格がないね」
「そんなの、二人で食べてく稼ぎくらい……」

 お京は話をそれっきりにすると、路地の外れから聞こえ出したヴィヨロンの音に合わせて鼻唄をする。わたしが見るともなく顔を覗こうとすると、お京はそれを避け急に立ち上がった。片手を伸すと柱につかまり紅色の長襦袢を羽織っただけの姿で、乗り出すように半身を外へ突き出す。

「もう十年……若けりゃなァ」

わたしは卓袱台を前に坐って巻き煙草に火を点けた。

「あなた、いくつなの?」

 此方へ振り向いたお京の顔を見上げると、いつものように片笑窪を寄せているので、何とはなしに安心した心持になった。

「もう、五十あたりと言ったところさ」
「へぇ、そんなには見えないわね」

 お京はしげしげとわたしの顔を見た。

「あなた。まだ四十ほどで通るわよ。髪の毛なんてそんなだし」
「四十は言い過ぎだ。でも、ほんとの齢を当てられることはまず、ないか」
「あたしはいくつ位に見えて?」
「そうさなぁ…二十歳くらいにも見えるが、三くらいかな」
「あなた、口がうまいから駄目。もうすぐ二十六よ」
「お京、おまえ、東京の生まれ育ちって言ったね。あちこちで女給してたとも」
「ええ、そうね」
「よく馴れない土地に来たもんだな。それに…水商売とは勝手が違っただろう。お金がいることがあったのかい?」

 女は齢に似合わぬ翳りを顔に浮かべ、嘆息をひとつ溢した。

「そうでもなけりゃァ……。それに初めッから承知で来たんだもの。銀座での勤めでは掛りまけがしてさ。借金の抜ける時がなくって。それで……どうせ身を落とすなら稼ぎがいい方が結句徳だもの」
「そこまで考えたなら全くえらい。ひとりでそう考えたのか?」
「こっちで商売をしていた姐さんを知ってたから、話をいろいろとね」
「それにしても、えらいよ。年があけたら少し自前で稼いで、残せるだけ残すんだね」
「わたしは占いだと客商売に向くんだとさ。だけれど行く先の事はわからないから、ネェ」

 じっと顔を見詰められたせいで、わたしは再び妙な心持になった。何だか奥歯に物の挟まったような、不安な気分になって此度はわたしの方が顔を外向けてしまいたくなった。
 表通りの電飾の灯が反映する空の外れには、先程から折々に稲妻が閃いていた。急に鋭い光がわたしたちの目を射たが、然し雷の音らしきものは聞こえない。風がぱったりと歇んで、宵口の暑さが蒸し返されたようである。

「今に一雨きそうだなぁ」
「あなた。髪結いさんの帰りに……。もう半年以上になるわねェ」

 わたしの耳に話を端折って、この「半年以上になるわネェ」と少し引き伸ばしたネェの声が何やら遠い昔でもおもい返すような、無限の情を含んで聞きなされた。「半年過ぎます」とか「なるわよ」と言い切れば、平常の談話に聞こえたであろう。だが「ネェ」と長く曳いた声には咏嘆の音というよりも、寧ろそれとなく返事を促す為に遣われたようにも感じた。

「そうか……」

わたしは応じかけた言葉を飲み込んでしまって、唯お京と目容を交差させるのみであった。


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