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第六章
第六章
しおりを挟む梅雨の時分が近づくと暑気のため、女の家は言うまでもなく近隣の戸障子が一斉に開け放たれるせいか、それまで気づかなかった物音が俄かに耳立ってくる。此の物音の中には、わたしを殊に甚だしく苦しめるものがあった。隣から亀裂の入ったようなラヂヲの音や、声高に語られる九州弁での政治談議。浪花節を唸る声があるかとおもえば、時節柄の雷雨にも負けない自動二輪車の烈音が混淆して響く。夕方から日の没する頃になると一層のけたたましさを増した。
お京が留守にしている間、部屋の卓袱台で手帳を原稿代わりにして小説の草稿でも書こうとするが、その手も一向に進まなくなる。そして折角の創作意欲の感興も其のまま消え失せていくのである。さりとて部屋で何をするでもない。このようなときは行くべき処、歩むべき処の当てもなく街頭の夜色に染まろうと天神あたりを徘徊するのだが、わたしはもう飽き果てた心持になっていた。
心易くなった娼家の女、お京と出遭った辺りまで到ってみると、近くには大正から昭和の初期に亘って盛時を想起させる一隅であることに、わたしの如き時運に取り残された身には、どうやら深い因縁めいたものだったのではと、おもわれるのである。
國体通りを往き、唯ある路地に入ると、薄汚れた幟の立っている神社の前を過ぎる。猶奥深くへ入り組んだ路を進むと、いかにも場末という侘しさが感じられる雰囲気の中に佇む店に入って、現代の陋巷にはない過去の世の裏寂しい情味を何本かの銚子と共に味わった。
わたしはその儚くも怪しげなる幻影に、あからさまに感謝の辞を述べたいほどの気分だった。
暫くして女の家に戻ると、お京が飯を茶碗によそい、茶漬けをさらさらと音立てるように掻っ込む姿を、あまり明るくない電燈の光と薮蚊の羽音の中でじっと眺めていた。そうしていると青春の時分に狎れ暱んだ女たちの姿や、その住居の様をありありと瞼の裏に浮かべるのであった。
当時の馴染んだ女たちは、男を「彼氏」と呼び、女を「彼女」と言い、二人が濡れそぼる空間を「愛の巣」などと云う感覚を持ち合わせていなかった。女のことは「お前」でよかったし、わたしのことは「あんた」であった。
そのあたり片づけて吊る蚊帳哉
さらぬだに暑くるしきを木綿蚊帳
エコロジーという言葉が流行する昨今、蚊帳というものが再び脚光を浴びているらしいが、或夜にお京の部屋で吊ってあるのを見て、ふと荷風が詠んだ句をおもい出した。
「いつもより晩いじゃないのさ。あんまり待たせるもんじゃないよ」
女の言葉遣いはその態度と共に、わたしの商売が世間に憚るものと推定せられてから、狎昵の境を越えて寧ろ放濫に走る嫌いがあった。
「それはすまなかった。どうしたんだい?」
「虫歯が…急に痛くなってね。目が回りそうよ。腫れてるでしょ」
「痛み止めを飲んで明日早くに歯医者へ行きな」
「もう飲んださ。だからこうして食べてられるんだ」
「そうか。公設市場の近くによい医者がいるそうだぞ」
女は眉間に軽く皺を寄せる素振りを見せた。
「あなた、このところ方々に歩くと見えて、よく知ってるんだねぇ。浮気者」
そう云うと、お京は軽くわたしの腕を抓った。
「痛いなぁ。そう邪険にするなよ。まだ出世前の身体だぜ」
「じゃ頼むわよ。明日その医者んとこへ連れてって」
わたしは女の言葉遣いがぞんざいになるに従って、適応した調子を獲るようしている。何か企みがあってのことではない。処と人を問わず、誰かに応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操るように、相手と同等の言葉にすることが万事うまくゆく術であるからに他ならない。「おらが国」と向うの人が言ったら、此方も「おら」を「わたし」の代わりに使う。
説話は少し余事に渡るが、現代人と交際をする時に、口語を学ぶことは容易であるが文書の往復になると頗る困難を感じはしまいか。手紙を綴るとき「わたし」を「オレ」となし、「けれども」を「けど」となし、何事につけても「だよね」「かも」と相手の同意を伺うような文体を冗談半分に真似ていても、いざ之を筆にする段になると実に難儀なおもいをするのである。
恋しきは何事につけて還らぬ昔である。わたしには骨董趣味があるのだが、以前に古い封書を詰め込んだ箱を購った折に、花柳界の女がしたためた手紙を見つけたときのこと。そこには候文で調子に乗った文面があった。文中に「ひき移り」が「しき移り」とあり、「ひる前」が「しる前」と書いてあったのは、おそらく東京の下町出身の女であることが汲み取れた。時代がかった手紙ではあったが、恋しい相手へ気持ちを認めた女の筆に嗤笑を持つことなどわたしはできない。
翌日、お京が仕事前に歯医者へと出向いた後、半ば下ろした蚊帳の裾に坐していると「おい、おい」と声にして扉を叩く者がいた。おそらく馴染みの客であろうとおもい、出るか出まいかと様子を窺っていると、外の男は郵便受けから手を差し入れて、置いてあった鍵を取り玄関を開けた。
中に入ってきた男は田舎臭い丸顔に口髭を生やした五十過ぎたくらいの歳であろう。手には使い古びた鞄があった。わたしは其の様子と姿から、直様お京の抱主だろうと推察したので、向から云うのを待たず「お京さんはお医者に行くって、表で逢ったとき聞きましたよ」と断わった。抱主らしい男は既にその事を知っていたようで「もうすぐ帰るでしょう。あなたもここで待ってなさい」と云った。
男は鞄から、どうやら金子が入った袋を取り出すと茶棚の中へ入れた。手当らしきものを持ってきたのであるから、抱主に相違ないとおもった。
「お京さんは、いつも忙しくしてますねぇ」
わたしは場を取り繕うため、挨拶代わりに世辞のひとつもと口にした。男は「どうですか……」と返事に困るといった意味のない事を云って、所在なげに部屋を見渡すばかり。面と向かって、わたしの顔も見なかった。寧ろ対談を避けたいという素振りがあった。
こういう亭主と遊客との対面は、両者とも甚だ気まずいものである。わたしたちは暫しの間沈黙を分かち合わねばならなかった。
続
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