伊都國綺譚

凛七星

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第三章

第三章

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 わたしはてっきり中洲か天神あたりの店へ行くものと踏んでいたのだが、一歩先を行くお京は少し離れた商店や住宅が犇めき合う間の路地を暫し通って行く。
 大分その辺を歩いた後、煙草を切らしたのをおもい出して目に止まった二十四時間営業の商店で購ったときである。店の向かい側にあった、おでん屋らしい暖簾をちょいと上げ、白い割烹着を着た女が「降ってくると」と空を見上げながら、中の誰かに言っている。
 あたりは俄かに物気立つかと見る間もなく、吹落る疾風に葭簀や何やら倒れる音がすると、紙屑や塵芥などが丑三つ時の物の怪のように路の上を走っていく。すぐに稲妻が鋭く閃き、ゆるやかな雷の響につれてポツリポツリと大きな雨粒が落ちて来た。
 吹き荒れる風と雨とに結った髪が乱れるのも構わず、片手で着物裾を持ち上げながら女が傘を差し出した。

「いや、わたしはいいから。お前は着物だろ」
「じゃ、よくって」
「ああ、いいから先へお出で。ついて行くから」

 お京は路地へと入ると曲がるたび毎に、わたしが迷わぬかと振り返る。
 やがて似たような高層の集合住宅が並ぶ、そのひとつに入った。

「あら、大変に濡れちまったわ」

 傘をつぼめると、お京は自分のものよりも先に掌でわたしの上着の雫を払った。

「ここは、お前の家か?」
「拭いてあげるから、寄ってらっしゃい」

 お京は玄関を開けると微笑んで見せた。

「いいのかな」
「拭いてあげるっていうのに。わたしだってお礼がしたいわよ」
「どんなお礼だ」
「だから、まぁ、お這入んなさいって」

 雷の音は少し遠くなったが、雨は却って礫を打つように一層激しく降りそそぐのが、通路端にある踊り場のところでも伺える。跳ね上がる飛沫の烈しさに、わたしはとやかく言うのを止めて内に入った。
 玄関には鈴とリボンのついた簾が下げてある。其の下にあった背の低い靴箱に腰をかけて靴を脱ぐ中に、お京は端折った裾も下ろさないまま自分とわたしの足を雑巾で拭いた。

「誰もいないから、お上がんなさい」

 靴が傷まず乾くように立てかけて、居間へとわたしを案内してくれる。電燈を点けると、そこにはテーブルとソファがあった。

「一人暮らしなのかい?」
「ええ、昨夜まで、もう一人居たのよ。住替えしてね」
「お前さんが部屋を借りてるのかな」
「いいえ、お店がね。女の子たちのために用意している住まいなのよ」
「一人で居るなら暢気でいいや」

 わたしはすすめられるがまま長椅子に座ると、ウヰスキーと氷やグラス水と酒の用意をする女の様子を見やった。
 よく見ると童顔だが、年齢は二十三、四というところか。鼻筋の通った円顔に黒目勝ちの瞳も雲っていない、なかなかいい容貌である。
 わたしは炊事場の方へちらりと目をやった。どういうわけか他のことはともかく、炊事場がかたづいてないと神経に障るところがわたしにはあった。食事後の食器が積み重ねられて放置されているような家を訪ねたときなどは、出されたお茶にも手を出したくない。ここの炊事場はすっかり清潔だった。

「上着を。ほんとに随分濡れたわね」
「ひどく降ったなぁ」

 お京はわたしから上着を受け取ると形を整えて、桟のところに衣紋掛けで吊るした。

「わたし、雷さまが大嫌いなの」

 懐紙で生え際の脂を拭きながら、お京は口を歪めるように尖らした。

「ちょっと着替えさせて。ね、あなた。お湯に入ります?」

 そう言って隣の部屋に移ると薄い帳越しに両肌を脱ぐのが見えた。肌は白く、乳房は大きすぎず小さすぎず、形のよいものであった。

「何だかお前の檀那になったような気分だな」
「先に気兼ねなく呑んでらして」
「部屋はよく片づいてるね」
「毎日、掃除だけはちゃんとしますもの。こう見えても世帯持は上手よ」
「博多は長いのかい?」
「まだ、一年とちょっと……」
「商売は、こっちが初めてじゃないんだろう」

 わたしは女の遊びをまんざら知らないわけではない。裾模様の単衣物に着替え、赤い弁慶縞の伊達締めを大きく前で結ぶ女の姿は、時空を超え明治年間の娼妓が現れたようである。

「いい趣向だね」

お京は衣紋を直しながら、わたしの側に坐ると空になったグラスを手にして酒を作り始めた。

「水割りでよろしいの?」
「そうだな、一対一で。で、朝までだといくらなるんだい、おぶ代は?」

 お京は笑いながら話が早いと手を差し伸ばした。

「すみませんね。ほんとうに。御規則どおりだと、いまからなら四枚ってとこなんですけど…」

「縁起だから御祝儀をつけるよ」

 紙入れから色をつけて福澤諭吉を五枚取り出し渡すと、女はそこから二枚だけ取り火を点けた煙草といっしょに残りは返してくれた。

「もう引けたあとだから。でも、何も受け取らないと気兼ねなく遊べないというものでしょう?」

 わたしはそう仄めかす女の細く、さきほど覗いた肌よりなお白い手を取って身を引き寄せ耳元で囁いた。その言葉にお京は目を見張って睨み返しながら甘えた声を返した。

「馬鹿。知らないわよ……」

 そう言いさま、わたしの肩を軽く撲るのだった。


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