伊都國綺譚

凛七星

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第四章

第四章

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 小説をよく好む人なら、作家がよく叙事的な描写のところどころに自家弁護の文を差し挟むことを知っているであろう。
 しかしながら初恋の娘が羞恥を忘れて慕う男に身を任せる情景を書いたときには、読者はその娘が行為に及ぶ様子や言葉使いのみを見て、淫弄娘などと断定してはいけない。深窓の淑女であっても意中の人と情事に及ぶ際には、芸者や玄人女にも劣らぬ艶かしさを表すことがある。逆に里馴れた遊女が恋しい男とめぐり逢うときなどは、まるで生娘のようにもじもじするもので、その道の経験が富んだ人たちなら合点がいく。そこは作者の観察が至らないわけではないから、そのつもりでお読みいただきたいものである。
 わたしは先人の文筆家に倣って、ここに幾ばくかの剰語を加えたい。読者は路傍で逢った此の女が、わたしを遇する態度の馴々しさが過ぎるのを、少なからず怪しむであろう。然し、これは実地の遭遇を潤色せずに記述したとおもって貰っても過ぎることはない。作為を労するよりも事実は奇なるものであるのだ。
 驟雨雷鳴からの経緯を見て、これまた作家の常套である筆法と笑う人もあるだろうが、わたしはそれを慮るがためにわざとらしい事柄を設けようとは欲しない。あの夜から起こりし出来事が全く伝統的に、お誂えどおりであったことを却って面白くおもい、また彼の文豪荷風氏の有名な作とも相似すること余りある日々に、わたしは氏の文をも真似て書いてみようと筆を執ったわけである。
 さて、九州を代表する都会、博多の盛り場に一体どれほどの女が数えられるであろう。その中で雨宿りした娼家の女のように旧風な趣を感じられることなど、極めて稀なる話だった。このように綴ることなど陳腐な筆法に適しているようで、事実の描写でありながら、どこかしら気恥ずかしさもなきにしもあらずである。



 雨は歇まない。
 初め家へ上がったときは少し声を高くしなければ話が聞き取りにくい程の降り方であったが、今は戸口へ吹きつける風の音も雷の響も歇み、窓を撲つ雨の音も僅かにするばかりだった。

「少し小降りになったようだな」
「ゆっくりしてらっしゃい。あ、そうだ御飯たべるかしら?」
「いや、いいよ酒だけで。あ、そうだ。いいものがある」

 わたしは家で晩酌のときにと買っていた辛子明太子があったことを思い出し、その包みを出した。
「奥さんへのお土産?」
「おれは独り者なんだよ。食べるものは自分で買わなけりゃ」
「じゃ、彼女かしら、ほほほほほ」
「それなら、こんな時間までうろついちゃあ居られない。雨でも雷でもかまわず帰るさ」
「そうねぇ」

お京はいかにも尤もだと云うような顔をして自分のために作った酒を口にする。

「じゃ、一緒にいただきましょうか」
「御飯は自分で炊いてるのかい?」
「ほとんど店屋物か弁当だわね」
「皿と箸はどこだい?」
「あら、はばかりさま。そこの茶棚のところに。ええ、そこよ」
「こうして話をしながら部屋で呑むのも楽しいものだな」
「全くよ。じゃあ、ホントにお一人。かわいそうねぇ」
「察しておくれかい」
「いいの、さがして上げましょうか」

 お京は何やらはしゃいだ調子で、手にした箸をちゃらちゃらと躍らせて見せた。
 戸外には朝刊を配る人の足音がする。

「歇んだようだな。また、近いうちに」
「きっとよ。昼間なら大抵は居ますから」

 女はわたしが上着に袖を通すのを見ると、背中へと廻って襟を折り返しながら肩の辺りに掌を柔らかく添える。

「きっとよ」
「何て云う店に出てるんだ?」
「ちょっと待ってね。今、名刺をあげるから」

 靴を履いている間に女は小窓の下に置いた物の中から艶やかな色使いの名刺を出してくれた。

「さようなら」
「まっつぐにお帰んなさい」



 幾枚か日めくりを破り捨てた後の夜、博多橋の真ん中ごろと覚しき欄干に身を倚せて、時計を眺めては来かかる人影にわたしは気をつけた。お京が店をしまってから、わざわざ廻り道をして来るのを待ち合わしていたのである。
 橋の上には酔客と包を抱えて帰りを急ぐ女給らしき女たちの往き来が途絶えずに居る。今夜お京の部屋へと行き、それからゆっくりと行末の目当てを定めるつもりだった。この先、女とどうなるものか。そんなことは更に考えもしなかった。

「お待ちどうさま」

 おもったよりも早く、お京は小走りで駆けてきた。

「ちょっと店の子につかまっちまって。口がうるさいから困ったわよ」
「タクシーを拾おうか」
「歩いたっていいわよ。ちょっと酔ってるし風が気持ちいいもの」
「じゃ、少し歩くか」
「今夜はお泊んなさいよ」
「いいのか?大丈夫かい?」
「何がさ」
「今日も新聞にあったからな。痴情のもつれで間男を刺したの刺されたのって」
「わたしは大丈夫。ご近所さんでは女給やおめかけさんが多いのか騒ぎがあるのを何度か見かけたけれど」

大博通りに向かって歩く。この辺りには昔ながらの旅館や町屋の佇まいが僅かに残っていた。

「ここらも昔と比べたら、すっかりと変わっちまったんだろうな」
「御存知?」
「いや、ちょっと古い写真なんかを見てね」
「そこから曲がりましょう。あっちには交番があるから」

わたしが以前巡査から詰問されたところだった。神社の石垣をついて曲がる。昔はここらにも花柳界の綺麗処が姿を見せていたことだろう。

「そろそろタクシーを拾わないか」
「そうね、ここでいいわ」

 不景気風に暖を取ろうと集い身を寄せるかのように、タクシーは道路脇に列を成して待機していた。わたしたちは視線が合い、愛想笑いを浮かべる運転手の一両に乗り合わせた。


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