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序章
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この手が今より遥かに小さかった頃。
手を繋いで、誰にも見つからないよう気を付けて、セキュリティを潜り抜けて。
無垢な青い瞳は不思議そうにディランを見上げていた。どこに行くのかと訊ねられたが、最後の扉を開くまで何も答えることができなかった。
「あの時、この手を離されるなんてまったく思っていませんでした。【俺たち】に優しかったあなたに、まさか——」
半端なところでアダムはふと唇を閉ざす。そうして一瞬消えた笑みを、より無機質に貼り付け直して。
「捨てられるなんて」
——五年前の光景が、脳裏に蘇る。
ひどい吹雪の夜だった。どうしてももう耐えられなくて、目の前で繰り返される悲劇から逃れたい一心で。
訳が分からないと呆然とした顔をまともに見ることもできないまま、逃げてくれと一言。無理矢理施設の外に押し出して、扉を閉めてしまったあの日。
ヒトを【実験生物】として扱う【楽園】から、アダムたち小さなヒトを逃がしたあの日を。
「アダム……っ、僕は……!」
「お静かに」
何を言おうと決まっていたわけではない。
ただ咄嗟に上げかけただけの声は、アダムの細く長い指に押し留められた。
「あの子が目を覚ましてしまう」
「……え?」
「久しぶりにぐっすり眠れているんです。しばらく、そのままにしてあげてください」
アダムの言葉にディランはぎこちなく首を傾げたが、彼の視線がソファに流れたのにつられ目を見開いた。
シンプルな紺色のソファの上、暗赤色のワンピースを着た幼い少女が丸まって眠っていた。
アダム同様に頭髪以外に体毛の見受けられない肌を見てヒトかと思ったが、黒い猫の耳と尻尾があるのにすぐ気が付いた。彼女はヒト似獣人——だろう。まだ十歳くらいに見える。
「彼女、は……?」
「……妹のようなものです」
アダムがそれ以上を語ることはなかったが、ヒトと行動を共にするヒト似獣人の少女など当然身寄りもないだろうと想像がついた。
ひと昔前ほどではないとはいえ、ヒト似獣人の社会的地位は未だに低い。深い意味もなく差別され、治安の悪い土地では下手をすれば「耳と尻尾を落とせばヒトと偽って高く売れる」などという最悪な理由で襲われる。
特に子どもは価値が高く、真っ先に狙われがちだ。親を殺されたか先に売られたかの中、からくもひとり生き残ってしまった子どもも、すぐに悲惨な末路を辿るのがセオリー。
彼女もまた、そうなりかけた子ではないだろうか。
かつて【楽園】の子どもたちの中で一番年長で、長兄的な存在だったアダム。
幼いヒト似獣人の少女を優しく見つめるその横顔には、あの頃の面影が色濃く見えた気がした。
「ドクター」
ぼんやりとしている場合ではないぞ、とばかりに。平らな声に現実に引き戻される。
「俺がわざわざこうして、あなたを探し出して会いに来た理由が分かりますか?」
「あ、……」
口元に、ヒト特有の柔らかな皮膚の感触。
突きつけた指でそのままディランの口の縁をなぞる仕草は、ヒトがするにしては異様に蠱惑的だった。
まるで熟練の娼婦のようだと感じてしまい、ディランは自分でもよく分からないまま反射的に首を振る。奇しくもその仕草はアダムの問いに答えた形になってしまい、彼の失笑を買うこととなった。
「そうですか。じゃあ、ちゃんとお伝えしますね」
引っ込めた指先をペロリと小さな舌で舐めてみせる。
……こんな振る舞いをする子ではなかったはずだ、と思った。思って、すぐに自分を殴りたくなった。当たり前だ。あの頃のアダムは何も知らない、まっさらで無垢な「賢いだけのヒトの子」だったのだ。
五年の間に何があったのかは分からない。一緒に逃したはずの他の子どもたちはどうなったのかなど、アダムがこうしてヒト似獣人の少女だけを連れている時点で聞くまでもない。
野良ヒトなどそれこそ都市伝説だと、さっき聞いたばかりではないか。
つまり、後ろ盾のない状態で野良のヒトがこうも長く生き延びるには。
——先ほど出会ったイヌ獣人が言うところの「神様激怒案件」な扱いに身を委ねるほか手段はない。それ以外に、思いつかない。
今更そんなことに気が付いて、血の気が引く思いがした。
「俺はずっとあなたに会いたかったんです。会って、もう一度話をしたかった。それだけでもいいと、思っていたんですが」
再びアダムの手が伸びてきて、膝を掴んだままのディランの手の甲に重ねられた。
「……俺だけでは、無力です」
伏せられた長い睫毛の下。その目線はソファに眠る少女へと微かに動く。同時に落とされた言葉に刹那、温度を感じてディランは顔を上げた。
その時にはもう、アダムは絵に描いたような美しい模造品の笑顔を貼り付けていた。
「ねえ、ドクター。俺をもう一度お側に置いてください。あなたしか頼る先がないんです。また、前と同じようにお役に立ちますから」
「アダ、ム」
「昔と違うお手伝いも、今ならできますよ?」
細い指がゆっくりと、蜘蛛の糸のように絡んでくる。
間抜けにも遅れてその言葉の意味を察し、ディランは危うく叫び出すところだった。
不正に手に入れたヒトを性的な目的で使う獣人が少なくないことは、当然知らないわけではない。
だが知性と理性ある獣人でありながらヒトと交わるなど、あのイヌ獣人が言う通り神の怒りに触れる行いだ。ヒトが支配者だった時代も、逆の行いを罪としていたはず。
しかし、アダムは既に知っている。
罪だの許されないだのただの建前だ。ヒトなどそうやって玩具同様に獣人に消費され、奇跡のような確率で生き延びるしかない存在なのだと、身をもって知っている。
——あなたもそうしたいのなら、喜んで。
——だって形は違えど、俺の身体をいいように使ってきたでしょう?
そう言わんばかりに愉快げに唇の端を吊り上げて、アダムは動けないディランの首に抱きついてきた。
「今度はもう捨てないでくださいね、ドクター」
閉め切ったままのカーテンの外、更に強くなった雨が窓を叩く。
だがディランの耳には雨音などまるで聞こえていなかった。ただアダムの囁きが遅効性の毒のようにじっくりと、心身を冷やしていくばかり。
ああ。
大嫌いな自分に相応しい地獄が、目の前で口を開けている。
肯定も否定も、何の返事もできないまま。
ディランはぴったりと密着してくるアダムから伝わる、規則正しい心臓の鼓動だけを感じていた。
【序章 了】
手を繋いで、誰にも見つからないよう気を付けて、セキュリティを潜り抜けて。
無垢な青い瞳は不思議そうにディランを見上げていた。どこに行くのかと訊ねられたが、最後の扉を開くまで何も答えることができなかった。
「あの時、この手を離されるなんてまったく思っていませんでした。【俺たち】に優しかったあなたに、まさか——」
半端なところでアダムはふと唇を閉ざす。そうして一瞬消えた笑みを、より無機質に貼り付け直して。
「捨てられるなんて」
——五年前の光景が、脳裏に蘇る。
ひどい吹雪の夜だった。どうしてももう耐えられなくて、目の前で繰り返される悲劇から逃れたい一心で。
訳が分からないと呆然とした顔をまともに見ることもできないまま、逃げてくれと一言。無理矢理施設の外に押し出して、扉を閉めてしまったあの日。
ヒトを【実験生物】として扱う【楽園】から、アダムたち小さなヒトを逃がしたあの日を。
「アダム……っ、僕は……!」
「お静かに」
何を言おうと決まっていたわけではない。
ただ咄嗟に上げかけただけの声は、アダムの細く長い指に押し留められた。
「あの子が目を覚ましてしまう」
「……え?」
「久しぶりにぐっすり眠れているんです。しばらく、そのままにしてあげてください」
アダムの言葉にディランはぎこちなく首を傾げたが、彼の視線がソファに流れたのにつられ目を見開いた。
シンプルな紺色のソファの上、暗赤色のワンピースを着た幼い少女が丸まって眠っていた。
アダム同様に頭髪以外に体毛の見受けられない肌を見てヒトかと思ったが、黒い猫の耳と尻尾があるのにすぐ気が付いた。彼女はヒト似獣人——だろう。まだ十歳くらいに見える。
「彼女、は……?」
「……妹のようなものです」
アダムがそれ以上を語ることはなかったが、ヒトと行動を共にするヒト似獣人の少女など当然身寄りもないだろうと想像がついた。
ひと昔前ほどではないとはいえ、ヒト似獣人の社会的地位は未だに低い。深い意味もなく差別され、治安の悪い土地では下手をすれば「耳と尻尾を落とせばヒトと偽って高く売れる」などという最悪な理由で襲われる。
特に子どもは価値が高く、真っ先に狙われがちだ。親を殺されたか先に売られたかの中、からくもひとり生き残ってしまった子どもも、すぐに悲惨な末路を辿るのがセオリー。
彼女もまた、そうなりかけた子ではないだろうか。
かつて【楽園】の子どもたちの中で一番年長で、長兄的な存在だったアダム。
幼いヒト似獣人の少女を優しく見つめるその横顔には、あの頃の面影が色濃く見えた気がした。
「ドクター」
ぼんやりとしている場合ではないぞ、とばかりに。平らな声に現実に引き戻される。
「俺がわざわざこうして、あなたを探し出して会いに来た理由が分かりますか?」
「あ、……」
口元に、ヒト特有の柔らかな皮膚の感触。
突きつけた指でそのままディランの口の縁をなぞる仕草は、ヒトがするにしては異様に蠱惑的だった。
まるで熟練の娼婦のようだと感じてしまい、ディランは自分でもよく分からないまま反射的に首を振る。奇しくもその仕草はアダムの問いに答えた形になってしまい、彼の失笑を買うこととなった。
「そうですか。じゃあ、ちゃんとお伝えしますね」
引っ込めた指先をペロリと小さな舌で舐めてみせる。
……こんな振る舞いをする子ではなかったはずだ、と思った。思って、すぐに自分を殴りたくなった。当たり前だ。あの頃のアダムは何も知らない、まっさらで無垢な「賢いだけのヒトの子」だったのだ。
五年の間に何があったのかは分からない。一緒に逃したはずの他の子どもたちはどうなったのかなど、アダムがこうしてヒト似獣人の少女だけを連れている時点で聞くまでもない。
野良ヒトなどそれこそ都市伝説だと、さっき聞いたばかりではないか。
つまり、後ろ盾のない状態で野良のヒトがこうも長く生き延びるには。
——先ほど出会ったイヌ獣人が言うところの「神様激怒案件」な扱いに身を委ねるほか手段はない。それ以外に、思いつかない。
今更そんなことに気が付いて、血の気が引く思いがした。
「俺はずっとあなたに会いたかったんです。会って、もう一度話をしたかった。それだけでもいいと、思っていたんですが」
再びアダムの手が伸びてきて、膝を掴んだままのディランの手の甲に重ねられた。
「……俺だけでは、無力です」
伏せられた長い睫毛の下。その目線はソファに眠る少女へと微かに動く。同時に落とされた言葉に刹那、温度を感じてディランは顔を上げた。
その時にはもう、アダムは絵に描いたような美しい模造品の笑顔を貼り付けていた。
「ねえ、ドクター。俺をもう一度お側に置いてください。あなたしか頼る先がないんです。また、前と同じようにお役に立ちますから」
「アダ、ム」
「昔と違うお手伝いも、今ならできますよ?」
細い指がゆっくりと、蜘蛛の糸のように絡んでくる。
間抜けにも遅れてその言葉の意味を察し、ディランは危うく叫び出すところだった。
不正に手に入れたヒトを性的な目的で使う獣人が少なくないことは、当然知らないわけではない。
だが知性と理性ある獣人でありながらヒトと交わるなど、あのイヌ獣人が言う通り神の怒りに触れる行いだ。ヒトが支配者だった時代も、逆の行いを罪としていたはず。
しかし、アダムは既に知っている。
罪だの許されないだのただの建前だ。ヒトなどそうやって玩具同様に獣人に消費され、奇跡のような確率で生き延びるしかない存在なのだと、身をもって知っている。
——あなたもそうしたいのなら、喜んで。
——だって形は違えど、俺の身体をいいように使ってきたでしょう?
そう言わんばかりに愉快げに唇の端を吊り上げて、アダムは動けないディランの首に抱きついてきた。
「今度はもう捨てないでくださいね、ドクター」
閉め切ったままのカーテンの外、更に強くなった雨が窓を叩く。
だがディランの耳には雨音などまるで聞こえていなかった。ただアダムの囁きが遅効性の毒のようにじっくりと、心身を冷やしていくばかり。
ああ。
大嫌いな自分に相応しい地獄が、目の前で口を開けている。
肯定も否定も、何の返事もできないまま。
ディランはぴったりと密着してくるアダムから伝わる、規則正しい心臓の鼓動だけを感じていた。
【序章 了】
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