49 / 53
番外編
伯爵、最後の夜 ②
しおりを挟む「希望者の照会状はこれで全部だ」
「お預かりします」
封書の束を従者が受け取る。明日にでも皆に配られるだろう。
家に残る者には多めの特別手当を。伯爵家を辞する者には、しっかりとした照会状と退職金を用意した。
ガーシュ・アイロニー伯爵としての最後の務め。
「テオドール」
封書を数えていた従者が、顔を上げる。
焦げ茶色の整えられた髪に、黒い瞳。美男ではないけれど、丈夫そうな骨格の造作と、紳士付きの紳士として身につけた所作の美しさは、好ましい。若いメイドの娘にも、わりと人気があるようだ。
きちんと名前で呼びかけたのは、久しぶり。彼はフローレンス達双子の、乳母の息子。一緒に育った乳兄弟だった。
呼ぶ必要もないほど、テオドールは必要なとき、いつも気がつくと傍に居た。
「フローレンス様」
いつだって二人きりの時、本当の名前で呼んでくれる。まるで輝く宝石を手に取るように、恭しく。
お母さまが呼ぶのをやめてしまった、本当の名前。
だから、心の中はフローレンスのままでいられた。
綱渡りをするフローレンスには、こうして命綱が繋がっていた。
けれどもう、それは解かなければいけない。
だって命綱は。
テオドールは、アイロニー伯爵家の従者なのだから。
フローレンスはもう、伯爵でなくなる。
彼の主たる資格を失う。
「照会状も特別手当も要らないと言ったね」
机越しに見つめる。
「はい」
テオドールは、フローレンスのクラバットの結び目辺りを見つめている。彼はあまり表情を読ませない。従者らしく主張もあまりしないから、こんな時、意思を汲むのが難しい。
幼い頃は、もう少し分かり易かったのに。
「確かにテオドールなら、代が叔父上か弟に代わっても重用されるだろう。その点は心配していないよ。二人にも一応、手紙で口添えはしておいた」
微妙にずらされていた視線がかち合う。テオドールの黒い瞳は、驚いたように見開かれている。
「私のことを、ですか」
「うん。ここに残るのだろう? お前の家族は、代々アイロニー家の執事を勤めあげているわけだし」
実際領地にある領主館の執事は、彼の父が務めている。
テオドールはきゅっと口を引き結んで押し黙ってしまった。フローレンスはかまわず続ける。
「だから今夜でお別れになるけれど。散々お前に迷惑を掛けたのだから、今までの働きに見合う贈り物をしたいんだ。何が欲しい? 私物でも何でも、私にあげられるものなら構わないよ。但し今夜までだ。明日には全部、次の伯爵の持ち物になってしまうから」
男のふりをするフローレンスの、一番の被害者はテオドール。秘密を知る彼は、着付けも、ある場所での無茶な身代わりだって、一手に引き受けてきた。鬱積と不満が溜まっていたに違いない。フローレンスが彼の立場だったら、いくら祖父の代から仕える家だって、とっくの昔に逃げ出していた。そうしなかった彼の忠義には感謝している。
照会状が要らないなら、当然伯爵家に残るということ。
新しい伯爵に膝を折る。
離縁されるフローレンスとは、お別れだ。
だからと思って笑いかけたのに。
テオドールは預かった使用人達への照会状を、きっちり角を揃えて机の上に戻した。そうして、執務室の鍵を内側からかけてから振り向き、漸く笑みを返してきた。
「頂くものを決めました」
「そうか。何が欲しい」
テオドールがゆっくりと近づき、机を回ったフローレンスの前に立つ。
まるで着付けを手伝わせている時のような、近しい距離。
彼女のすぐ後ろには、ちょうど執務机があった。テオドールはフローレンスを挟むようにして、両手を後ろの机につく。身体の外側に両手を置いた彼に、覆われたような形になる。
こんなこと、今まで一度もなかった。
主人に対しての不躾な行為に、男を咎めようとして。すぐそこに迫っていた顔の近さに一瞬息を止める。
「フローレンス様が欲しいです」
囁かれた言葉を上手く飲み込めず、瞬く。
ずっと保たれているテオドールの笑みからは、いつもの暖かみが消えていた。まるで――そう、投資相手の嘘に気づき、資金を引き上げるときのフローレンスみたいに。笑みを保ちながら、不誠実な相手に腹の底で怒りを煮え立たせている時の。
両腕に抱きすくめられ、執務室に据え置かれている長椅子に運ばれるまで、抵抗らしい抵抗など出来なかった。
「待て。私が言ったのは、もっと価値のある……」
重くはないのに、がっちりと押さえ込まれている。必死に留めようと試みるけれど。いくら男の格好をしたって、腕力で本物の男性に敵うはずがない。
「これ以上に価値のあるものなんて、思いつきません。私にお別れの贈り物をくださるのでしょう? ――ねえ、フロウお嬢様」
ぎくりと身体が固まった。
「その、呼び名は」
油を差し忘れた機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく見上げれば。
「懐かしいですよね。幼い貴女がテオと呼んだら、今度は私が愛称を呼びかえす。貴女はこの遊びが大好きだった。先に私を呼ぶのは、いつだって貴女と決まっていました」
まっすぐな黒い眼差しに射貫かれた。
「テオドール、私は……」
「溺れるように『テオ』と呼んでください。貴女が寝室で一人の時そうするように。熱く、淫らに。ずっと満たされなかったのでしょう? 今夜は最後まで、私が手伝って差し上げますから。安心してください、フロウお嬢様」
声はどこまでも甘やかで、艶を含んでいる。それなのに何処かひやりと容赦がない。耳元で囁かれ、耳朶に口づけられて、フローレンスは身を縮こまらせた。
テオドールは気付いている。
誰にも、特に彼には知られたくなかったはずの寝室の出来事を。
『テオ』とフローレンスが呟いた場面を。
それなら、これは腹いせだろうか。散々こき使われ、従者の領分を超えた役目ばかりを押しつけられたことへの。
或いは、同情なのだろうか。あんなことを他人に命じておいて、伯爵の立場ゆえ、決して満たされたことのない哀れな女への。
胸板を押し返そうと空しい努力をしていた手から、力が抜ける。
代わりに両手で、目蓋を覆った。
0
あなたにおすすめの小説
【短編】淫紋を付けられたただのモブです~なぜか魔王に溺愛されて~
双真満月
恋愛
不憫なメイドと、彼女を溺愛する魔王の話(短編)。
なんちゃってファンタジー、タイトルに反してシリアスです。
※小説家になろうでも掲載中。
※一万文字ちょっとの短編、メイド視点と魔王視点両方あり。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
『階段対策会議(※恋愛)――年上騎士団長の健康管理が過剰です』
星乃和花
恋愛
【完結済:全9話】
経理兼給仕のクラリスは、騎士団で働くただの事務員――のはずだった。
なのに、年上で情緒に欠ける騎士団長グラントにある日突然こう言われる。
「君は転倒する可能性がある。――健康管理対象にする」
階段対策会議、動線の変更、手をつなぐのは転倒防止、ストール支給は防寒対策。
全部合理的、全部正しい。……正しいはずなのに!
「頬が赤い。必要だ」
「君を、大事にしたい」
真顔で“強い言葉”を投下してくる団長に、乙女心を隠すクラリスの心拍数は業務超過。
さらに副団長ローレンは胃薬片手に「恋は会議にするな!!」と絶叫中!?
これは健康管理?それとも恋愛?
――答え合わせの前に、まず“階段(概念)“をご確認ください。
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
真面目な王子様と私の話
谷絵 ちぐり
恋愛
婚約者として王子と顔合わせをした時に自分が小説の世界に転生したと気づいたエレーナ。
小説の中での自分の役どころは、婚約解消されてしまう台詞がたった一言の令嬢だった。
真面目で堅物と評される王子に小説通り婚約解消されることを信じて可もなく不可もなくな関係をエレーナは築こうとするが…。
※Rシーンはあっさりです。
※別サイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる