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番外編

伯爵、最後の夜 ①

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 本編に登場したアイロニー伯爵と従者の番外編になります。
 完全なるネタバレです。本編未読の方はご注意くださいませ。 


 ――――――――――――



わたくしに、義弟や妾の子に媚びへつらえというのですか。残ったお前が役立たずなばっかりに!」

 投げつけられたグラスは手前で落ち、絨毯に赤い液体を零す。
 フローレンスは、それを微動だにせず見つめた。絨毯に染みこむ赤いシミは、血を連想させた。寝室を常に支配していた酒の匂いが濃くなる。
 この部屋は、苦手な物を詰め合わせた箱のよう。
 これから味わうであろう転落の人生を想像し、目の前の女性は顔を覆って泣きはじめる。長年の深酒で震え続ける指先と、酒焼けした声。その手が抱きしめるのは、いつだって彼女自身だけ。
 わかっていたことなのに。

 ――お母さまにとっての私は、道具の類い。

 僅かに残っていた娘としての情が、心の奥の方で震え、萎んだ。


 ・・・・・・・・・・


「療養院へ奥様を送って参りました。ご指示通り、小包みは直接院長に」
「そうか、ご苦労だった」

 報告を受けたのは、ちょうど執務室で照会状を書き終えた頃。
 フローレンスは、母を療養院へと送り届けて帰還した従者の言葉に頷き、労いの言葉をかける。
 ふぅ、と溜息を吐いて、首元を締め付けるクラバットを緩めた。

 ここはアイロニー伯爵家のタウンハウス。
 毎年社交シーズンにだけ借り受けていた物件を、フローレンスが数年前に買い取った。亡くなった父から伯爵位を継いでからずっと、領地の領主館ではなく、彼女はこの屋敷を執務の場所として使用している。
 書斎の蔵書も、一点物の家具も、特注の銀食器たちも。数年をかけて自分好みに整えた。領主館に比べれば狭く、中庭も小さいタウンハウスだけれど、思い入れはずっと強い。ここはフローレンスの築いた、彼女だけの場所。
 しかしそんな屋敷とも、窮屈なクラバットとも、今夜でお別れをすることになる。

 フローレンスはアイロニー伯爵家の長女として、長男ガーシュの双子の片割れとして生まれた。しかし彼女は二十五年の人生の殆どをフローレンスではなく、ガーシュとして過ごしている。
 もっと正確に言うなら五歳の時より、事故で亡くなった兄の代わりに男と偽って育てられてきた。
 それからずっと、ガーシュ・アイロニーを演じている。

 締めるのはコルセットではなく、胸を潰すさらしと首元のクラバット。柔らかなドレスの代わりに最上級の仕立服を身につけ。華奢な靴に憧れながら、顔が写るほど磨かれた革靴を履く。

 貴族というのも厄介な生き物である。
 古くから続く家には未だに、男系のみに爵位を継ぐ権利を与えるところが多い。アイロニー家もその一つ。
 先代伯爵の弟――フローレンスの叔父は存命であるし、父が外で愛人に産ませた弟もいる。だから、たった一人の伯爵位を継げる息子を亡くした母は、必死だったのだろう。生き残ったのは双子の兄の方だと、偽って育て始めた。
 そうしなければ、愛人の家を渡り歩く夫に追い出されてしまう。
 夫が亡くなった後は、そりの合わない義弟や、憎らしい愛人の子に生活と肩書きを奪われてしまうから。

 でもそんなの、いつまでも続くはずがない。
 寧ろ綱渡りのような真似を二十年なんて、よく持った。
 長すぎたくらいだ。
 フローレンスは最後、殆ど自分から飛び降りるようにして、舞台から退場することになった。
 女だとばれてしまったのだ。
 爵位は国王陛下から賜る。陛下を騙し位を得たのだ。極悪人と呼ばれても仕方がない。処分が爵位返上と貴族籍からの抹消で済んだのは、本当に運が良かった。
 叔父と腹違いの弟は、爵位をどちらが継ぐのか、既に揉めている。近々争う裁判をするらしい。

 ――それでまあ、伯爵家の女主人の座から滑り落ちたお母さまにとって、私は「役立たず」になった訳だけれど。

「……最後まで面倒をみられるのですね」
「そっちの方が後々楽だから。私が合理主義者なのは、お前が一番よく知っているじゃないか。去るときに美しくないなんて、主義に反するし」
 珍しく意見を口にする気心の知れた従者に、小首を傾げてみせる。女性にしては短すぎ、男性にしては長めの、金糸の髪がさらりと流れた。

 無計画に伯爵役を投げ出したのに、合理主義なんて皮肉もいいところ。
 けれどフローレンスは、物事を先回りして処理することにだけは、長けているらしい。
 お蔭で今まで投資では失敗知らずだし、爵位に就いてから財産は十倍以上に増やした。浪費を補って余りあるほど、伯爵家の財政は順調。
 家を出た後の働き口も、投資関係だ。
 芸は身を助くとは、どこか異国の言葉だったか。少なくとも財政難の伯爵家を立て直した金儲けの資質は、彼女の助けになっている。

 後を継ぐのは叔父か、はたまた異母弟か。彼らに同じように切り盛りできるかは知らないけれど。
 離縁されるフローレンスには、口出しの許されないこと。

 たらい回しにされるだろう母は、先手を打って療養院へと送った。多額の寄付と引き替えに、手厚い看護という名の監督を院長に確約させて。別に次期伯爵へのはなむけってわけじゃない。
 とても個人的な事情。
 母の罵りの声を、これ以上聞きたくなかった。顔も見たくない。
 目を閉じ、耳を塞ぐ子供と一緒だ。


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