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序章 前日譚
2. RogerとRonaldの記憶
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──「終わり」の断片。
「終わりにしないか」
私の背後で、懐かしい声がそう告げた。
振り向くと、軍服姿の幼馴染がそこに立っている。サファイアの瞳が、じっと私を睨めつけていた。
……片手にウィスキーの瓶があるが、酒盛りに誘っているにしては剣呑な眼差しだった。
「……何を?」
心当たりが無いわけでもなかった。私は彼の悪名を広げていたし、当人として快い気分であるはずがない。
「俺は、──だ。お前もわかっているだろ」
遠い昔の口調で、彼は告げる。
……ああ、うるさい。何のために君の弟に暗示がかかるほど虚偽の説明をし、君の妹が消耗するほど嘘を言い聞かせたか、君の妻……私の妹が激昴するほど君の中傷を吹き込んだか、まだわからないのか。
「アンが死んだ」
何を言っているのかが分からなかった。
「医者が手を尽くしているが……おそらく、助からない」
「……どういう意味かな」
半分骨が剥き出しの顔面は、今、歯ぎしりしたとよくわかる。……以前はもう少し人らしく繕っていたように見えたが、さすがにもう限界が来たのだろうか。
「ロン、もう終わりにしよう。……弟たちや妻のことはもちろん……レヴィのことも、カミーユのことも許せないが……何より、お前が狂っていく姿も見ていられない」
何度でも殺してやる……と喚いておきながら、彼はただの一度も私を殺せはしなかった。
私は訳あって戸籍上は死人となったし……いつだって、殺そうと思えば殺せるはずだ。私を殺しさえすれば、彼は未だに与えられる辱めから逃げられる。
……それなのに、なぜ殺そうとしない。君はそこまで腰抜けだったのか。ああ、また失望させられる。君はどこまで私を落胆させたら気が済むんだ?
「俺は死者だ」
その口を閉じろ。
「何を言っているのかな?君は生きているじゃないか。私が退役したのも君が原因だった」
「……お前が勝手に事故を起こしたんだろうが……」
「それは君が私より成績が劣ったからだ」
「理由もよくわからないが、そもそもその時私は既に死人だ。1999年4月3日に死んだ人間がどうやって24歳のお前と張り合えると」
うるさい。
「君が死ぬわけがないだろう。君を殺していいのは、君を貶めていいのは、君を苦しめ嘆かせ絶望させていいのは私だけだ」
そうであるべきだった。……いや、そうでなければならなかった。
「……パブリックスクールで、お前が額に火傷をした時のことを覚えているか。軽いものだったが、当時はかなり気に病んだものだ」
……なんだ、突然。確か、目の前にいる本人の不始末のせいだった気がするけれど、よく思い出せない。……あまりにも遠すぎる。
「……何十年も前じゃないか」
「あれから10年と経たずに私は死んだ。……それが現実だ」
思考が固まった。……致命的な隙だったと、すぐに悟る。
「……私は、ここでお前を連れていく」
頭に叩き付けられた痛みが、ガシャンと音を立てた。生ぬるい液体が頬を伝って、視界に炎が揺らめく。
……笑いが零れた。なんて惨めな姿だ。屑を一人葬るのに泣きながら手を震わせるなんて、くだらない。もっと毅然と、勇猛に振る舞えないのか。……君がそうしてくれなかったから、僕はいつまでも小悪党のままなんだ。
激しい熱が身を焦がす。
焼け爛れる痛みより、命が潰える恐怖より、何よりも……
こんな時まで「竹馬の友」を思って泣く男の愚かしさが、笑えるくらい滑稽でならなかった。
ああ、忘れないでくれ。僕を殺せるのは、僕を裁けるのは、いつだって君だけだ。
……君が殺し損ねたのだから、これも君の責任だ。
***
「……アン、済まなかった」
青ざめた頬に手を伸ばす、……一命は取り留めたようだが、精神の方はわからない。
やつれてはいるが、舞台女優だった母に似て、眠る姿すらも演劇のワンシーンのように見える。
もし、俺が酒に逃げずロンを糾弾していれば……いや、もっと早くに彼女が暴行を受けていたと気付いていれば、ここまで苦しめることもなかっただろうに。
呼びかけには、とっくに応答がない。……どこにも、彼女の気配を感じ取ることができない。
「お前に力を貸し、この世の摂理に背いたことは……やはり、過ちだったのだろうか。……この肉体も、いつまで持つかわからない」
肉体?ほとんど骨のくせに強がるな……といったような憎まれ口もここしばらくは聞いたことがない。
……あのまま眠らせてやった方が、楽だったのだろうか。
中途半端に苦しめただけになってしまっただろうか。
意識が遠のく。……生前の姿を辛うじて保ってはいるが、限界は近い。……そのうちこの自我すらも混濁し、保てなくなるだろう。
だが、忘れないで欲しい。
俺はどんな姿になろうとも、どれほど困難があろうとも、
妻と弟たちを心より愛し、守ろうと誓っていることを。
……ゆえにこそ、まだ眠りにつけないのだと……
──かくして、呪いと祈りは魂に刻まれた。
「終わりにしないか」
私の背後で、懐かしい声がそう告げた。
振り向くと、軍服姿の幼馴染がそこに立っている。サファイアの瞳が、じっと私を睨めつけていた。
……片手にウィスキーの瓶があるが、酒盛りに誘っているにしては剣呑な眼差しだった。
「……何を?」
心当たりが無いわけでもなかった。私は彼の悪名を広げていたし、当人として快い気分であるはずがない。
「俺は、──だ。お前もわかっているだろ」
遠い昔の口調で、彼は告げる。
……ああ、うるさい。何のために君の弟に暗示がかかるほど虚偽の説明をし、君の妹が消耗するほど嘘を言い聞かせたか、君の妻……私の妹が激昴するほど君の中傷を吹き込んだか、まだわからないのか。
「アンが死んだ」
何を言っているのかが分からなかった。
「医者が手を尽くしているが……おそらく、助からない」
「……どういう意味かな」
半分骨が剥き出しの顔面は、今、歯ぎしりしたとよくわかる。……以前はもう少し人らしく繕っていたように見えたが、さすがにもう限界が来たのだろうか。
「ロン、もう終わりにしよう。……弟たちや妻のことはもちろん……レヴィのことも、カミーユのことも許せないが……何より、お前が狂っていく姿も見ていられない」
何度でも殺してやる……と喚いておきながら、彼はただの一度も私を殺せはしなかった。
私は訳あって戸籍上は死人となったし……いつだって、殺そうと思えば殺せるはずだ。私を殺しさえすれば、彼は未だに与えられる辱めから逃げられる。
……それなのに、なぜ殺そうとしない。君はそこまで腰抜けだったのか。ああ、また失望させられる。君はどこまで私を落胆させたら気が済むんだ?
「俺は死者だ」
その口を閉じろ。
「何を言っているのかな?君は生きているじゃないか。私が退役したのも君が原因だった」
「……お前が勝手に事故を起こしたんだろうが……」
「それは君が私より成績が劣ったからだ」
「理由もよくわからないが、そもそもその時私は既に死人だ。1999年4月3日に死んだ人間がどうやって24歳のお前と張り合えると」
うるさい。
「君が死ぬわけがないだろう。君を殺していいのは、君を貶めていいのは、君を苦しめ嘆かせ絶望させていいのは私だけだ」
そうであるべきだった。……いや、そうでなければならなかった。
「……パブリックスクールで、お前が額に火傷をした時のことを覚えているか。軽いものだったが、当時はかなり気に病んだものだ」
……なんだ、突然。確か、目の前にいる本人の不始末のせいだった気がするけれど、よく思い出せない。……あまりにも遠すぎる。
「……何十年も前じゃないか」
「あれから10年と経たずに私は死んだ。……それが現実だ」
思考が固まった。……致命的な隙だったと、すぐに悟る。
「……私は、ここでお前を連れていく」
頭に叩き付けられた痛みが、ガシャンと音を立てた。生ぬるい液体が頬を伝って、視界に炎が揺らめく。
……笑いが零れた。なんて惨めな姿だ。屑を一人葬るのに泣きながら手を震わせるなんて、くだらない。もっと毅然と、勇猛に振る舞えないのか。……君がそうしてくれなかったから、僕はいつまでも小悪党のままなんだ。
激しい熱が身を焦がす。
焼け爛れる痛みより、命が潰える恐怖より、何よりも……
こんな時まで「竹馬の友」を思って泣く男の愚かしさが、笑えるくらい滑稽でならなかった。
ああ、忘れないでくれ。僕を殺せるのは、僕を裁けるのは、いつだって君だけだ。
……君が殺し損ねたのだから、これも君の責任だ。
***
「……アン、済まなかった」
青ざめた頬に手を伸ばす、……一命は取り留めたようだが、精神の方はわからない。
やつれてはいるが、舞台女優だった母に似て、眠る姿すらも演劇のワンシーンのように見える。
もし、俺が酒に逃げずロンを糾弾していれば……いや、もっと早くに彼女が暴行を受けていたと気付いていれば、ここまで苦しめることもなかっただろうに。
呼びかけには、とっくに応答がない。……どこにも、彼女の気配を感じ取ることができない。
「お前に力を貸し、この世の摂理に背いたことは……やはり、過ちだったのだろうか。……この肉体も、いつまで持つかわからない」
肉体?ほとんど骨のくせに強がるな……といったような憎まれ口もここしばらくは聞いたことがない。
……あのまま眠らせてやった方が、楽だったのだろうか。
中途半端に苦しめただけになってしまっただろうか。
意識が遠のく。……生前の姿を辛うじて保ってはいるが、限界は近い。……そのうちこの自我すらも混濁し、保てなくなるだろう。
だが、忘れないで欲しい。
俺はどんな姿になろうとも、どれほど困難があろうとも、
妻と弟たちを心より愛し、守ろうと誓っていることを。
……ゆえにこそ、まだ眠りにつけないのだと……
──かくして、呪いと祈りは魂に刻まれた。
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