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番外SS
兄たちの思い 1 【アルベール視点】
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俺にとってジェラリアはどういう存在かと聞かれたら、迷うことなく『生きる目的』だと答える。
弟のエルネストはきっと『自分の全て』と答えるだろう。
これは大袈裟な表現でも何でもなく、俺達兄弟の偽らざる本心で。愛なんて言葉では言い表せないほどのこの想いは、最早魂レベルで組み込まれているのではないかと思うほど、自然発生的に俺達の心に存在していたものだった。
ジェラリアと出会う前までの俺の心はいつもどこか空虚な感じがしていたのに、初めてあの子に会ったその瞬間に感じたどうしようもなく惹き付けられる感覚だとか、触れた時に味わった欠けた部分がぴったりと填まるような充足感。
そしてその名を呼ぶ度に胸に広がる幸福感は、家族愛や庇護欲という言葉で纏めるにはあまりにも濃密な感覚で、『最愛』とはこういう気持ちのことなのだと気付いた時、俺は自分の生きる目的がやっとわかった気がしたのだ。
だから七年前、ジェラリアが人質同然でドルマキアに差し出されると決まった日。
俺は自分の立場の弱さと力不足を死ぬほど怨めしく思ったし、その後、ジェラリアがドルマキアでどんな目にあったのかを知った時。
──自分を含め、ジェラリアをそんな目にあわせた人間全てが、殺したいほど憎かった。
◇◆◇◆
今は大国マレニセン帝国の宰相『アドリアン・ディヴリー』と名乗っている俺は、元はリンドバル王国の第一王子アルベール・フェルナンド・リンドバルとして生を受けた人間だ。
リンドバル王国は、時代に取り残されたような古めかしい印象が拭いきれない小国で、これといった強味も旨味もないことから隣接する国々との国交もさほど盛んではなく、ドルマキアやマレニセンといった大陸でも一、二を争う大国からすれば眼中に入ることすらない、吹けば飛ぶような存在の国だった。
そこの王太子として過ごしていた頃の俺は、責任だけは大国並みに重いのに、他国の同じ立場の人間からは侮られ、軽んじられる未来しかない自分を、国の存続のためだけに用意された生け贄のように思っていた。
そんな微妙な立場に生まれたせいか、俺は物心ついた頃からどこか俯瞰で物事を見ているような冷めた子供で、三歳年下のエルネストが喜怒哀楽のはっきりとした子供らしい子供だったこともあって、傍から見れば尚更にやたらと大人びた可愛げのない子供に映っているだろうことは想像出来ていた。
実際、幼い頃から交流のあった当時のマレニセンの王太子であり現皇帝のブルクハルト・ヴァルター・マレニセンからは、『お前はいつも穏やかそうな笑顔を浮かべながらも冷めた目をして他人を見る、本当に嫌なガキだった』と言われているのだから間違いないだろう。
そのくらい当時の俺は、自分の人生に何の期待もしていなかった。
一応王政を敷く国として存在している以上、そこに住む国民からしてみれば王族という存在は絶対で、普通の人間よりも遥かに恵まれた環境にいたことはわかっている。
それでもその頃の俺は、世界情勢が刻一刻と変わっていく中で、大きな変化を好まずに歩みを止めているリンドバルという国に何の希望も見出だせず、近い将来、間違いなく大きな渦に巻き込まれ、その時の潮目を読み違えれば跡形もなく他国に飲み込まれてしまう程度の国の後継者という自分の将来を思う時、無性に生きる目的というものがわからなくなる時があったのだ。
──しかしその考えはジェラリアとの出会いで一気に覆されることになる。
あれは忘れもしない二十年前の新緑が眩しい季節のこと。
その日はエルネストと馬で出掛ける約束をしていて、父である国王がつけた護衛騎士達と一緒に王宮から少し離れたところにある街まで行く予定になっていた。
当時十歳だった俺は、護衛と一緒に出掛けることに対して面倒だなと思ってはいたが、自由がきくような立場じゃない以上、仕方のないことだと思って受け入れていた。
しかしエルネストは違ったらしく、護衛がつくような堅苦しい外出を嫌い、時折勝手に王宮を抜け出しては、色んな人達から叱られていた。
そんなエルネストが出発の直前になって俺にある提案をしてきたのだ。
「せっかく外出するんだったら、こっそりファウスティーナ様のところに行くってのはどう?」
ファウスティーナ様は俺達の父であるリンドバル国王の年の離れた妹で、リンドバル王国の建国神話に登場する女神と同じく、月光を集めたような淡い金色の髪と新緑の息吹を感じさせる明るい緑色の瞳を持った非常に美しい女性だった。
この頃のファウスティーナ様はずっと体調を崩していたせいで王宮には住んでおらず、神秘的な逸話が数多く残り、女神が生まれたという伝説がある湖の畔に建てられた屋敷で、ごく僅かな人数の使用人をつけて静養していたのだ。
「……そうだな。それもいいかもしれないな」
普段なら王族らしく、そして兄らしくエルネストを諭すのが常なのだが、この日に限っては何故だかその提案に心惹かれ、少し躊躇いながらも同意することにした。
屋敷のある森一帯は、王族と許可を得た者以外の立ち入りが禁止されている場所。
本当はまだ成人前の俺達も事前の許可なしに行ってはいけないと言われていた場所ではあったが、見つからなければ問題ない。
それに立ち入りが制限されているところなら危険はないだろうと判断した結果、子供しか知らない抜け道を使って護衛をまいてから、俺とエルネストだけでファウスティーナ様の住む屋敷に向かうことに成功した。
ところが、叔母を見舞うという大義名分を持って行った先で、俺達は信じられない光景を目の当たりにすることになった。
不自然なまでに静まり返った森の中の屋敷。荒らされた室内。床に残った赤い染み。
明らかに只事ではない様子に、俺は一瞬にして警戒を強めた。
もしかしたらこの惨状を作り出した原因がまだ近くにいるかもしれない。
そう考えると、下手に動くのは悪手でしかない。すぐに来た道を戻って護衛を呼んだとしても、俺たちが先に見つかってしまう危険のほうが大きい。
ところが、前を歩くエルネストに慎重な行動を促そうとしたその時。俺が口を開くより先に、エルネストがすごい勢いで部屋を飛び出してしまった。
「チッ!」
俺は舌打ちしながら、慌ててエルネストを追いかけた。
屋敷の中は相変わらず静まり返っており、これだけ俺達が大きな物音を立てているというのに、使用人が姿を現すことすらないのが一層不安を掻き立てる。
点々と続く血痕を目印に進んでいけば、普段使用人が使っていると思われる通用口の扉が開いていて、その先にも更に赤いものが残されているのがわかった。
血痕が誰のものかということで、その後にとるアクションが大きく変わる。
そう考えたら緊張感が一気に高まり、肌が痛いほどに粟立った。
目印と呼ぶにはあまりにも物騒な痕跡を頼りに辿り着いたのは、屋敷の裏手にある納屋のような建物だった。
周囲の気配を探りながら、いつでも抜刀できるよう剣に手を掛け、建物に近寄っていく。
入口の扉が中途半端に開いているところを見ると、エルネストがすでに中に入ってしまった可能性が高い。
俺は最悪の事態が起こっていないことを祈りながら、扉の陰に立った。
不安と焦りと緊張で身体の震えが止まらない。
浅く息を吐くことでなんとか自分を落ち着かせようとしたものの、全く上手くいかず、俺は重く感じる身体を無理矢理動かして中に入った。
しかし、薄暗い室内に見えた光景にすぐに足が止まる。
「……エルネスト?」
建物の中にはエルネスト以外誰の姿も見当たらない。
そのエルネストはというと、俺の呼びかけに答えることなく呆然と立ち尽くしていた。
内心首を傾げながらも警戒だけは怠らないようエルネストに近寄る。
するとようやく俺に気付いたらしいエルネストが、ゆっくりとこちらに身体を向けた。
そのエルネストの腕には白い布を纏めたように見える小さな物体が抱えられている。
すぐ側まで近寄り注視すると、白い塊が微かに動いたような気がした。
「これって……、まさか……」
白いシーツにくるまれていたのは、生まれてからそれほど経っていないと思われる小さな命。
予想もしていなかった展開に完全に思考が停止した状態でただそれをじっと見つめていると、赤子はまるで俺達に自分の存在を必死に主張しようとしているかのように弱々しく泣き出した。
「……兄上。この子をお願い」
赤子の泣き声とエルネストの呼びかけで漸く我に返った俺は、促されるまま腕を伸ばす。
エルネストは俺に赤子を託すと、ふらつく足取りで建物を後にした。
薄暗い建物の中で、俺は自分の温もりを分け与えるようにそっと腕の中の存在を抱き締めた。
途端にこれまで味わったことのないような満ち足りた気持ちが込み上げてくる。
その不思議な現象に戸惑うのと同時に、俺をそんな気持ちにさせてくれた存在の儚さを認識し、自分の無力さに歯噛みした。
その後、俺達を追い掛けてきた護衛騎士達により赤子は無事王宮に保護された。
俺達がその小さな命を救えたのは本当に運が良かったとしか言い様のないタイミングで、後もう少し遅かったらこの世から永遠にその存在が失われていただろうと聞かされた時は肝が冷えた。
しかし赤子の母親であるファウスティーナ様は、女神が生まれたという伝説が残る湖に自ら身を沈め、既に儚くなっていたのだ。
ファウスティーナ様につけられていた使用人達は、全員森の中で無惨な姿で見つかったらしい。
そして屋敷の中に誰もおらず、室内が荒らされているという異様な状態だったのは、その使用人達が挙ってめぼしい物を物色し逃亡したからだと聞かされたが、それが真実だったのかどうかはわからない。
確かなことは、ずっと静養していると聞かされていたファウスティーナ様が、父の命令により森の屋敷で幽閉に近い状態に置かれていたということ。
そしてそうなった原因は、ファウスティーナ様が未婚のまま、父親が誰かもわからない子供をその身に宿していたということだけ。
それ以外、あの森で起こったことは曖昧にされたまま、ファウスティーナ様の死と共に闇に葬られたのだった。
ファウスティーナ様の忘れ形見は『ジェラリア』と名付けられ、出生の経緯を隠されたままリンドバルの第三王子として育てられることになった。
リンドバルの古い言葉で『希望の光』という意味を持つその名前は、ファウスティーナ様がつけたもので、生前こっそりと母宛てに認めていた遺言ともいうべき手紙に記されていたものだと聞かされた。
『ジェラリア』
その名前を呼ぶ度に、ずっと空虚だった俺の心が温かいもので満たされていく気がする。
その日から、俺の腕の中で静かに眠る小さな存在にそっと呼び掛けるのが何よりも大切な時間となった。
だから俺は幸せという感情を教えてくれたジェラリアを幸せにする為に自分の全てを捧げようと心に決め、それが俺の生きる目的となったのだ。……なのに。
──俺はすぐに自分の無力さというものを嫌というほどに思い知る羽目になった。
弟のエルネストはきっと『自分の全て』と答えるだろう。
これは大袈裟な表現でも何でもなく、俺達兄弟の偽らざる本心で。愛なんて言葉では言い表せないほどのこの想いは、最早魂レベルで組み込まれているのではないかと思うほど、自然発生的に俺達の心に存在していたものだった。
ジェラリアと出会う前までの俺の心はいつもどこか空虚な感じがしていたのに、初めてあの子に会ったその瞬間に感じたどうしようもなく惹き付けられる感覚だとか、触れた時に味わった欠けた部分がぴったりと填まるような充足感。
そしてその名を呼ぶ度に胸に広がる幸福感は、家族愛や庇護欲という言葉で纏めるにはあまりにも濃密な感覚で、『最愛』とはこういう気持ちのことなのだと気付いた時、俺は自分の生きる目的がやっとわかった気がしたのだ。
だから七年前、ジェラリアが人質同然でドルマキアに差し出されると決まった日。
俺は自分の立場の弱さと力不足を死ぬほど怨めしく思ったし、その後、ジェラリアがドルマキアでどんな目にあったのかを知った時。
──自分を含め、ジェラリアをそんな目にあわせた人間全てが、殺したいほど憎かった。
◇◆◇◆
今は大国マレニセン帝国の宰相『アドリアン・ディヴリー』と名乗っている俺は、元はリンドバル王国の第一王子アルベール・フェルナンド・リンドバルとして生を受けた人間だ。
リンドバル王国は、時代に取り残されたような古めかしい印象が拭いきれない小国で、これといった強味も旨味もないことから隣接する国々との国交もさほど盛んではなく、ドルマキアやマレニセンといった大陸でも一、二を争う大国からすれば眼中に入ることすらない、吹けば飛ぶような存在の国だった。
そこの王太子として過ごしていた頃の俺は、責任だけは大国並みに重いのに、他国の同じ立場の人間からは侮られ、軽んじられる未来しかない自分を、国の存続のためだけに用意された生け贄のように思っていた。
そんな微妙な立場に生まれたせいか、俺は物心ついた頃からどこか俯瞰で物事を見ているような冷めた子供で、三歳年下のエルネストが喜怒哀楽のはっきりとした子供らしい子供だったこともあって、傍から見れば尚更にやたらと大人びた可愛げのない子供に映っているだろうことは想像出来ていた。
実際、幼い頃から交流のあった当時のマレニセンの王太子であり現皇帝のブルクハルト・ヴァルター・マレニセンからは、『お前はいつも穏やかそうな笑顔を浮かべながらも冷めた目をして他人を見る、本当に嫌なガキだった』と言われているのだから間違いないだろう。
そのくらい当時の俺は、自分の人生に何の期待もしていなかった。
一応王政を敷く国として存在している以上、そこに住む国民からしてみれば王族という存在は絶対で、普通の人間よりも遥かに恵まれた環境にいたことはわかっている。
それでもその頃の俺は、世界情勢が刻一刻と変わっていく中で、大きな変化を好まずに歩みを止めているリンドバルという国に何の希望も見出だせず、近い将来、間違いなく大きな渦に巻き込まれ、その時の潮目を読み違えれば跡形もなく他国に飲み込まれてしまう程度の国の後継者という自分の将来を思う時、無性に生きる目的というものがわからなくなる時があったのだ。
──しかしその考えはジェラリアとの出会いで一気に覆されることになる。
あれは忘れもしない二十年前の新緑が眩しい季節のこと。
その日はエルネストと馬で出掛ける約束をしていて、父である国王がつけた護衛騎士達と一緒に王宮から少し離れたところにある街まで行く予定になっていた。
当時十歳だった俺は、護衛と一緒に出掛けることに対して面倒だなと思ってはいたが、自由がきくような立場じゃない以上、仕方のないことだと思って受け入れていた。
しかしエルネストは違ったらしく、護衛がつくような堅苦しい外出を嫌い、時折勝手に王宮を抜け出しては、色んな人達から叱られていた。
そんなエルネストが出発の直前になって俺にある提案をしてきたのだ。
「せっかく外出するんだったら、こっそりファウスティーナ様のところに行くってのはどう?」
ファウスティーナ様は俺達の父であるリンドバル国王の年の離れた妹で、リンドバル王国の建国神話に登場する女神と同じく、月光を集めたような淡い金色の髪と新緑の息吹を感じさせる明るい緑色の瞳を持った非常に美しい女性だった。
この頃のファウスティーナ様はずっと体調を崩していたせいで王宮には住んでおらず、神秘的な逸話が数多く残り、女神が生まれたという伝説がある湖の畔に建てられた屋敷で、ごく僅かな人数の使用人をつけて静養していたのだ。
「……そうだな。それもいいかもしれないな」
普段なら王族らしく、そして兄らしくエルネストを諭すのが常なのだが、この日に限っては何故だかその提案に心惹かれ、少し躊躇いながらも同意することにした。
屋敷のある森一帯は、王族と許可を得た者以外の立ち入りが禁止されている場所。
本当はまだ成人前の俺達も事前の許可なしに行ってはいけないと言われていた場所ではあったが、見つからなければ問題ない。
それに立ち入りが制限されているところなら危険はないだろうと判断した結果、子供しか知らない抜け道を使って護衛をまいてから、俺とエルネストだけでファウスティーナ様の住む屋敷に向かうことに成功した。
ところが、叔母を見舞うという大義名分を持って行った先で、俺達は信じられない光景を目の当たりにすることになった。
不自然なまでに静まり返った森の中の屋敷。荒らされた室内。床に残った赤い染み。
明らかに只事ではない様子に、俺は一瞬にして警戒を強めた。
もしかしたらこの惨状を作り出した原因がまだ近くにいるかもしれない。
そう考えると、下手に動くのは悪手でしかない。すぐに来た道を戻って護衛を呼んだとしても、俺たちが先に見つかってしまう危険のほうが大きい。
ところが、前を歩くエルネストに慎重な行動を促そうとしたその時。俺が口を開くより先に、エルネストがすごい勢いで部屋を飛び出してしまった。
「チッ!」
俺は舌打ちしながら、慌ててエルネストを追いかけた。
屋敷の中は相変わらず静まり返っており、これだけ俺達が大きな物音を立てているというのに、使用人が姿を現すことすらないのが一層不安を掻き立てる。
点々と続く血痕を目印に進んでいけば、普段使用人が使っていると思われる通用口の扉が開いていて、その先にも更に赤いものが残されているのがわかった。
血痕が誰のものかということで、その後にとるアクションが大きく変わる。
そう考えたら緊張感が一気に高まり、肌が痛いほどに粟立った。
目印と呼ぶにはあまりにも物騒な痕跡を頼りに辿り着いたのは、屋敷の裏手にある納屋のような建物だった。
周囲の気配を探りながら、いつでも抜刀できるよう剣に手を掛け、建物に近寄っていく。
入口の扉が中途半端に開いているところを見ると、エルネストがすでに中に入ってしまった可能性が高い。
俺は最悪の事態が起こっていないことを祈りながら、扉の陰に立った。
不安と焦りと緊張で身体の震えが止まらない。
浅く息を吐くことでなんとか自分を落ち着かせようとしたものの、全く上手くいかず、俺は重く感じる身体を無理矢理動かして中に入った。
しかし、薄暗い室内に見えた光景にすぐに足が止まる。
「……エルネスト?」
建物の中にはエルネスト以外誰の姿も見当たらない。
そのエルネストはというと、俺の呼びかけに答えることなく呆然と立ち尽くしていた。
内心首を傾げながらも警戒だけは怠らないようエルネストに近寄る。
するとようやく俺に気付いたらしいエルネストが、ゆっくりとこちらに身体を向けた。
そのエルネストの腕には白い布を纏めたように見える小さな物体が抱えられている。
すぐ側まで近寄り注視すると、白い塊が微かに動いたような気がした。
「これって……、まさか……」
白いシーツにくるまれていたのは、生まれてからそれほど経っていないと思われる小さな命。
予想もしていなかった展開に完全に思考が停止した状態でただそれをじっと見つめていると、赤子はまるで俺達に自分の存在を必死に主張しようとしているかのように弱々しく泣き出した。
「……兄上。この子をお願い」
赤子の泣き声とエルネストの呼びかけで漸く我に返った俺は、促されるまま腕を伸ばす。
エルネストは俺に赤子を託すと、ふらつく足取りで建物を後にした。
薄暗い建物の中で、俺は自分の温もりを分け与えるようにそっと腕の中の存在を抱き締めた。
途端にこれまで味わったことのないような満ち足りた気持ちが込み上げてくる。
その不思議な現象に戸惑うのと同時に、俺をそんな気持ちにさせてくれた存在の儚さを認識し、自分の無力さに歯噛みした。
その後、俺達を追い掛けてきた護衛騎士達により赤子は無事王宮に保護された。
俺達がその小さな命を救えたのは本当に運が良かったとしか言い様のないタイミングで、後もう少し遅かったらこの世から永遠にその存在が失われていただろうと聞かされた時は肝が冷えた。
しかし赤子の母親であるファウスティーナ様は、女神が生まれたという伝説が残る湖に自ら身を沈め、既に儚くなっていたのだ。
ファウスティーナ様につけられていた使用人達は、全員森の中で無惨な姿で見つかったらしい。
そして屋敷の中に誰もおらず、室内が荒らされているという異様な状態だったのは、その使用人達が挙ってめぼしい物を物色し逃亡したからだと聞かされたが、それが真実だったのかどうかはわからない。
確かなことは、ずっと静養していると聞かされていたファウスティーナ様が、父の命令により森の屋敷で幽閉に近い状態に置かれていたということ。
そしてそうなった原因は、ファウスティーナ様が未婚のまま、父親が誰かもわからない子供をその身に宿していたということだけ。
それ以外、あの森で起こったことは曖昧にされたまま、ファウスティーナ様の死と共に闇に葬られたのだった。
ファウスティーナ様の忘れ形見は『ジェラリア』と名付けられ、出生の経緯を隠されたままリンドバルの第三王子として育てられることになった。
リンドバルの古い言葉で『希望の光』という意味を持つその名前は、ファウスティーナ様がつけたもので、生前こっそりと母宛てに認めていた遺言ともいうべき手紙に記されていたものだと聞かされた。
『ジェラリア』
その名前を呼ぶ度に、ずっと空虚だった俺の心が温かいもので満たされていく気がする。
その日から、俺の腕の中で静かに眠る小さな存在にそっと呼び掛けるのが何よりも大切な時間となった。
だから俺は幸せという感情を教えてくれたジェラリアを幸せにする為に自分の全てを捧げようと心に決め、それが俺の生きる目的となったのだ。……なのに。
──俺はすぐに自分の無力さというものを嫌というほどに思い知る羽目になった。
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