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2炎龍編

2炎龍編-1

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 01


 帝国皇女ピニャ・コ・ラーダが目をさます。
 すでに執務室内は明るくなっていた。開かれたよろいから、朝の陽射しが差し込んで閉じたまぶたにも眩しいほどだった。
 帝都は、碧海へきかいと呼ばれる海から内陸に徒歩で二日ほどのところにある。陽射しこそ強いが、その暑さは北の氷雪山脈から流れてくる涼やかな風が和らげてくれるので、非常に過ごしやすい。
 皇宮は帝都五つの丘のうち最も東寄りの丘、サデラ中腹にある。
 そのさらに東麓の緑苑が彼女の居館として割り当てられていた。ここは風通しに優れていて東の森からは清々しい糸杉の香りが運ばれてくる。頭がすきっとするこの香りが、ピニャは大好きだった。

「姫殿下。ベッドでお休みにならなかったのですね」

 執務室の鎧戸をつぎつぎと開いていく書記のハミルトンは、ため息混じりにお小言こごとを並べた。
 言われてみれば、この世界で「トュニ」と呼ばれる婦人用正装をまとったまま、ピニャは机に突っ伏していた。
 机の上には、各種の書類が山と積まれていた。それに加えて、あちこちから送られてきた手紙類。そのほとんどが羊皮紙だが、最近はアルヌス協同生活組合から購入するようになった『コピィシ』と呼ばれる『紙』が便利なので愛用している。

「あっ、しまった」

 枕にしていた羊皮紙がくしゃくしゃに成り果てていたのであわててしわを伸ばす。代官から送られてきたフォルマル伯爵家の財務状況報告書だった。目を通している内に眠ってしまったのだろう。
 見れば手指が羊皮紙から移ったインクで汚れていた。服や顔まで汚れていないかも気になるところだ。そう思って見ると、服もしわくちゃになっていた。顔や体もべたついて気持ちが悪い。

「姫殿下。食事の前に、沐浴もくよくをなさったほうがよろしいようですね」
「すまん。そうする」

 部下の忠言を受け容れ、ピニャは降参とばかりに諸手もろてを上げた。

「本日の予定ですが、大きな物としては午餐ごさん元老院げんろういんのキケロ卿と一緒にされるお約束になっています。晩餐ばんさんはデュシー侯爵家令嬢の誕生お祝いのパーティーです。午餐ごさんと晩餐の間に時間がありますので、シャンディーとの面談を入れておきました。白薔薇ばら隊長の後任人事について意見具申があるそうです」
「パナシュとシャンディーは姉妹の契りを交わした仲だったろ? ならば、白薔薇隊の隊長はシャンディー・ガフで決まりじゃ駄目なのか?」
「彼女としては白薔薇隊の隊長に就任するよりは、パナシュと一緒にアルヌスに行きたいというところではないですか?」

 ピニャは理解できないとばかりに切れ長の美しい眉をひそめた。姉と呼ぶパナシュの信頼に応えて留守を守ることこそがシャンディーの役割である。それを今更嫌だというのは隊の習慣と規律を乱すままと言えるからだ。どんな意図でそんなことを言い出したのだろうか? ハミルトンの言う通りなら許し難いが、いずれにせよ会ってみれば分かるだろうから判断は後に回すことにする。

「今日はキケロ卿に、スガワラ殿をお引き合わせしなければならなかったのだな。それと、デュシー家のパーティー。うんうん」
「デュシー家のパーティーには、第一陣返還希望名簿に名を載せた捕虜の親族が集まります。名簿は親族を代表して侯爵よりスガワラ様にお渡ししていただきます。名簿の草案にはお目通しいただけましたか?」
「ああ、昨晩確認した。それでなんだが十五名定員のところに、十四名しかなかったのは何故だったかな? 一名分あけておいた理由が思い出せない……」

 ピニャは机の上に積まれた書類の山から目的の紙の束を引き抜いた。途端、山積していた書類がドサドサと土砂崩れを起こして床に散らばっていく。

「あ~あ」

 急ぎ拾い集めようとする皇女を制して、ハミルトンは書類を整理しつつ拾い始めた。

「殿下……一名分は、キケロ卿用に空けておいたものです。キケロ卿ご自身には、捕虜となられたご家族はおられませんが、傍流ぼうりゅう甥御おいごが捕虜名簿に載っていました。本日の会見でご希望が出れば、第一陣の名簿に載せます」

 ピニャは頭をかかえるようにしてハミルトンの言葉を反芻していた。記憶容量が一杯なのか、それともまだ頭の回転数が上がらないかのどちらかだろう。

「大丈夫ですか? お疲れのようですが」
「大丈夫じゃないと言ったら、代わってくれるか?」
「無理ですね」
「ならば、わらわが頑張るしかないだろう」

 ピニャはため息混じりに紙の束をハミルトンの胸に押しつけると、沐浴するために執務室を後にしたのだった。


 沐浴をして紅い髪を結いあげ、薄い化粧をし、衣類をまとう。これだけの身支度を済ませたピニャが食卓に姿を現すには、ハミルトンに起こされてから一時間ほどの時を必要とした。貴婦人の身支度として考えるならば、これでも結構速い方になる。
 それでも菅原浩治すがわらこうじはピニャが姿を現すのを待たずに、先に朝食を取っていた。メニューは小麦粥に火であぶった干し肉を入れたもの、そして柑橘かんきつ系の果物だった。
 ピニャの館には、召使い……所謂いわゆるメイドさん達が大勢居て、彼に不自由がないようにしてくれている。食事の支度も、こちらの正装であるトュガの着付けもしてくれる。だから困ることは一切ない。ただ、仕事だけは、彼女が居ないと全く始められないのだ。
 外交とは相手と会うことで始まる。この帝都に知る者のない彼にとって、誰と会うにしてもピニャの紹介が必要なのだ。外務省から特地問題対策委員会に出向している菅原の仕事は、この帝都における人脈を広げることである。人の縁を結び、後からやってくる本格的な交渉団が活動するための下準備として語学を磨き、帝都の統治機構における人間関係の機微きびを把握するのだ。

「おはようございます。殿下」
「おはよう、スガワラ殿。そなたは相変わらず早いな」

 あんたが遅いんだよ、という言葉を呑み込んだ菅原は、職業的な笑みを浮かべながらピニャの美しさを賞賛する言葉を添えた。これは彼がフランスに留学している時に身に付けた習慣だが、こちらでも反応が悪くないので婦人に対する挨拶に付け加えている。
 ピニャは食卓の前に座ると、出された小麦粥をほんの一口と、果物のみを食べるだけだった。見る限りでも胃の負担を軽くするように作られた朝食を、ことさら少量に抑えておく理由は、後に続く呟きが物語っている。

「今日は、キケロ卿のところで午餐、晩餐はデュシー家。はっきり言って、胃袋がいくつあっても足りない」

 接待に関わる苦労は、どこに行っても同じようである。菅原も似たような経験を積んでここまで来ているので大いに同意できることであった。

「我が国にも腹も身の内って言葉がありますよ。腹をかばってばかりいられないのがこの仕事だと分かってはいるのですが、結構きついんですよねぇ」
「ああ」

 特に女性の場合は、肌とかスタイルとか美容面への影響も少なくない。
 菅原はいろいろと気にしている様子のピニャに、我が国には良い胃薬がありますよ、と告げた。よかったら取り寄せましょうか? と付け加えて。

「それは是非。ありがたい。本当にありがたい」

 帝国では、宴席ですることは話すことの他、食べることと飲むことに集約されている。他に娯楽はないのかと思う向きも多いが、我が国だって、パーティーに料理と酒は不可欠だから他人のことは言えないのである。ただこちらでは、出された料理はひと通りは手をつけることが礼儀とされているので、それがきついのだ。
 案の定、キケロ邸の午餐には、豪華な食事が並べられた。
 山羊を丸ごと焼いたものとか、魚と野菜を鍋にあふれるほど詰め込んで煮込んだスープとか、鳥、魚、獣肉、野菜がふんだんに使われていた。
 果物は氷雪山脈から取ってきた雪に冷やされて美味しそうだ。しかしそれにしても種類と量が凄い。食べることが客側の礼儀なら、これを迎える側は、食べきれないくらいの料理でもてなすことが歓待かんたいあかしとされているのだ。
 このような歓待を受けることが出来るのも、皇女ピニャが仲介に立っているからだ。もし、菅原が一人でのこのこやってきたら、頭から水をぶっかけられておしまいだったろう。
 キケロ・ラー・マルトゥスはその名が示すように帝国開闢かいびゃく以来の名門マルトゥス家の流れを汲むが、家柄としては傍流であったため、どうにか貴族の末席を占めているに過ぎなかった。しかし、優れた弁舌と政治力が評価されて、今では元老院議員に任ぜられ政界の重鎮役を担っている。元老院にはマルトゥス本家の者も在籍するため、混同を避けて彼を指してはキケロきょうと呼ぶ。
 今回の戦争について彼がくみするのは、主戦論・皇帝派である。つまり「現在は非常事態である。従って皇帝陛下の大権下に、帝国の総力を結集して可及的速やかに軍事力を再建すべし。そして、アルヌスを占拠する蛮族を武力でもって追い出すべし」という意見の持ち主なのである。
 これに相対あいたいするものが講和論・元老院派である。こちらは「今回の無謀な戦争は皇帝の指導下で始まったのだから、皇帝の権力を弱めて元老院の集団指導の下、軍事力を再建する。また、アルヌスを占拠する敵に対しては、『ゲート』の向こうにお引き取り願うにしても、軍事力とは別の選択肢、例えば講和などの方法も探るべきだ」とする意見である。
 そのキケロを交渉の相手として選んだのは、彼が主戦論者の中では比較的話が通じるタイプだと見られたからである。
 講和論者は何も言わなくても講和に乗って来るものだ。だが、いかんせん数が少ない。皇帝の意思決定に影響を及ぼすには、やはり大勢を動かしていかなくてはならない。従って主戦論者を切り崩して講和論の勢いを増すことこそが、講和交渉を進める上で必要となる。
 菅原はそんな説明の下で、誰かを紹介してくれないかとピニャに求め、彼女は前述した理由でキケロという人物を選び出したのである。

「キケロ卿。こちらをご紹介したい。ニホン国の外交を担当するスガワラ閣下だ」

 いろいろな都合で、菅原の身分を勝手に格上げするピニャである。菅原もピニャの心遣いだと分かったので、大使扱いされてもあえて訂正せずそのままに聞き流した。
「はじめまして」と互いに挨拶を交わす。
 キケロは「失礼ながらニホンという国について、あまり存じ上げていない。どのような国であったかな?」と尊大な態度で語りかけた。
 帝国は強大な国だ。周辺の諸侯だけでも十数カ国。外国や属国、辺境の諸部族といった国のていを成していないものも含めると百余りの地域と外交関係がある。元老院議員であっても、外交官僚の出身でもなければ、知らない国があってもおかしくはないのだ。

「そうですね。四季があって森や水の綺麗なところです」

 これを聞いたキケロは小さくわらった。彼の細君さいくんも、馬鹿にするような視線で肩をすくめる。
 文明の遅れた蛮地からの使者がどんな国だと問われて、森や水の美しい国と答えるようでは、他には何もありませんと言っているようなものだ。
 パッと見では切れ者のようだが、所詮は山出しの田舎者。語学力も帝都の貴族を相手に弁舌を振るうにはまだまだ。キケロは菅原をそう評した。いや、彼の属する国が遅れているのであって、彼個人は悪くない。常に公正でありたいと自戒しているキケロは、軽率に突き落とした菅原の評価を、少しばかり持ち上げることでバランスを取った……つもりである。
 これを横で見ているピニャは、キケロの胸中が透けて見えるようだった。
 思わずため息が出てしまう。「注意めされよ。もうやられていますぞ」とささやきたくなるのだ。だが彼女は仲介者である。外交の当事者ではないから口を挟まないようにしていた。

「我が国の産物を手土産として持って参りました。ご笑納いただければ幸いです」

 このあたり実に手の込んだ演出である。彼が指を鳴らすと、従者役兼護衛として随伴している陸自の直江なおえ二等陸曹が、ピニャの従者達の手を借りて、手土産の入った箱を運び込んで来た。
 冷笑していたキケロ夫妻の表情がだんだんと変化していく様子は、ピニャをして思わず頬を綻ばせてしまうほどだ。
 キケロの前に積み上げられる友禅染の見事な絹布けんぷ、金糸銀糸で彩られた京都西陣織きょうとにしじんおり反物たんもの、黒や朱の美しい金沢の漆器類しっきるい螺鈿らでんの細工物、錦絵にしきえの鮮やかな扇子、薩摩切子さつまきりこのガラス杯。
 職人が時の天皇陛下に対して「世界中の婦人の首を、コレで絞めあげてみせましょう」と豪語したという伝説の残る志摩の養殖真珠。関の刀工が打った日本刀。
 そして和紙、洋紙、ペン等一度使ったら手放せない便利な文房具。
 金銀鮮やかなカトラリーに、陶器、磁器の食器等。
 物作り日本を代表する工芸と実用の逸品いっぴんぞろいである。
 ピニャはここ数日の菅原のやり方を見て、謙遜から入る彼のやり方を鮮やかな物だと思っていた。あなどらせ、そして隙を見せた途端に切り込むやり口にやられない者はいなかった。
 帝都でも入手不能の美しい品々を見せられれば、誰だろうと日本とはどんな国だと思う。思わない訳にはいかないのだ。贅沢に慣れた貴族だからこそ、目の前に積まれた品々が、どれほどの手間と技術によって作られたかが理解できるのだから。
 キケロの細君は、色鮮やかな西陣や友禅に関心を奪われ、キケロは日本刀の鮮やかな刀身を魅入られたように見つめていた。弁舌をもっぱらとする政治家とは言え、やはり男である。武具に目がいくようであった。

「素晴らしい。これらはニホンから?」
「全て、我が国の職人の手によるものです」
「ニホンとは、どれほどに優れた国であろうか? いや、失礼した。あなどっておりました」

 キケロは、ここで態度を改めた。尊大な態度もなりをひそめて相応の敬意を示す。優れた文物を見抜く鑑識眼と、文化に対して敬意を表すことができる素直な姿勢は尊敬に値すると言えるだろう。

「しかし、スガワラ閣下もお人が悪い。森や水の美しい国などと言われては、自慢するものがそれしかないのかと思ってしまいますぞ。さあ、教えて下され。ニホンとはどのような国でしょう?」

 ピニャは思わず額を押さえた。また、やられている。
 ここで、胸襟きょうきんを開いて心の防備を解いた途端……。

「我が日本は、帝国とただいま戦争中です。場所は『門』の向こうでございます」

 キケロはあんぐりと口を開けたまま、閉じることが出来なくなっていた。


 後の交渉が、菅原のペースで進んだのは言うまでもない。
 キケロは、主戦論・皇帝派という自らの説を固持し、突っ張るだけで精一杯となっていた。そして、敵の使者をここに連れてきたピニャの行為を、売国とまでは言わないが、それに近い行為だとなじった。
 そればかりか、精神的劣勢を覆すために再度『門』を越えて日本を征服すると、威勢のいいことを口にしたほどである。軍の再建も着々と進んでいて、あと数カ月で完了するだろうとか、新たに徴募した兵数が十万になるとか、本来なら伏せておくべきことまで喋ってしまった。
 だが、それはキケロが日本という国の存在を認め、そこに住む者が侮りがたい敵であると認めたことを意味する。
 菅原としては、キケロにこちらを対等な交渉相手と認めさせることが出来ただけで成果充分と言えるのだ。これで、今後彼が一人でやってきても門前払いされる恐れはない。あとは何かにつけて、少しずつ現実を知らしめていけばいい。
 ここで、菅原が差し出した一枚の紙が、ピニャを非難するキケロを黙らせる。そこには、帝国の文字でキケロの細君の妹の息子……つまりおいの名前が記されていた。

「うかがった話では、キケロ殿の甥御おいごになられるとか? この方はただいま我が国で捕虜となっております」
「なんと、生きているのか!?」
「まぁ!」

 傍らで聞いていたキケロの妻が、その嬉しい知らせに感極まって倒れてしまい、メイド達があわてて彼女を宴席から運び出した。

「実は、ピニャ殿下に仲介の労を担っていただくことの引き換えとして、殿下からご要望をいただいた数名に限って、無条件で返還する約束を取り結んでおります」
「無条件だと?」
「はい。無条件です」
「身代金の類は必要ないと?」
いて言えば、殿下のお骨折りが身代金に相応することとなりましょう。あくまでも殿下のお口添えのある数名と限らせていただいておりますが……」

 この一言は、ピニャの立場がなくなるような言動はするな、という意味をもってキケロの耳に届いた。
 ピニャは捕虜の命を人質に仲介者として働かされているのだ。そう考える方がキケロにとっても受け容れやすかった。ならば仕方のないことである。売国行為と詰ったのは間違いだ。彼女は貴族の子弟を守るために、我が身と名誉を犠牲にして働いているのだから。
 これが「捕虜を返して欲しくば、講和に応じろ」、とか「負けを認めろ」というような話だったら、キケロも大いに拒絶しただろう。だが、相手がピニャに求めたのは交渉の仲介でしかない。どのような相手だろうと、どのような状況だろうと、交渉すること自体は悪いことではないのだから受け容れても良いのである。
 仲介者たる彼女の活動を邪魔すれば、捕虜が帰って来れなくなる。また、返還される数名の枠とやらも、ピニャと日本との交渉次第で、多くもなれば少なくもなるのだろう。とすれば、いかに主戦論者たる身でも彼女の邪魔は出来なかった。しかも、自分の甥が帰って来るかどうかはピニャが決めるのだ。
 キケロとしては、ピニャの袖にすがってでも頼みたいところである。だから、彼は何も言わずに彼女の手を取った。ピニャも表情を穏やかにして頷く。

「実は、今宵デュシー侯爵家令嬢の誕生お祝いのパーティーがあります。後刻、こちらにも招待の知らせが届きましょう」
「失礼だが、何をおっしゃられているか分かりかねますが? デュシー侯のご令嬢とは面識もありませんし……」
「実は、デュシー家には悲しい出来事がありました。その憂いを払おうということで、侯爵はご令嬢の誕生祝いを盛大になさることにされたのです。妾はそこに良き知らせを届けたいと思っています。ご出席なさりませんか?」

 ここまでの話の流れで、ピンとこなければ政治家は出来ない。
 おそらくデュシー家の者が『門』の向こうに出征したのだ。ならば、良い知らせとは当然彼の存命と帰還のことだ。出席する以上、キケロの甥のことも期待して良いだろう。というより、出席するかどうかが意思表示になるのだ。
 キケロはうやうやしく頭を下げると、ピニャの手甲に接吻をする。

「是非とも良き知らせが届くその瞬間に、私もご相席あいせきさせていただきたいと思いますよ。殿下」


    *  *


 帝都で、外務省の菅原がその活動に本腰を入れ始めた頃、アルヌスの難民キャンプたる仮設住宅の群れも、数カ月という短い期間にもかかわらず大きく様変わりしていた。
 それは、帝国皇女ピニャ・コ・ラーダから語学研修生として派遣されてきた騎士団の隊員とその従者達(その全員が女性だが……)の滞在場所として選ばれたことに始まった。
 当初、彼女達はピニャが夢見心地の表情で熱く語った、摩天楼と芸術で溢れた都市での研修を希望していた。
 だが、その国の言葉を片言も話せないのに海外留学することが無謀であるように、いきなり東京で受け容れるのも乱暴な話である。まして警護にはじまる諸々の事情もある。そこで日常会話くらいはこなせるようになるよう、日本政府はアルヌスの難民キャンプでの教育を施すことにしたのである。
 こうすれば、日本側も受け容れの準備にも時間をかけることが出来る。
 それに、ここには『特地語』←→『日本語』通訳の権威となりつつある賢者や、それに追随ついずいする勢いで日本語を習得している子ども達も多く住んでいる。日本語を学ぶだけなら、東京より適しているかも知れない。
 日本側の人材としても、伊丹耀司いたみようじら陸上自衛隊各偵察隊の面々が特地の言葉をある程度解せるようになっていたし、さらに外務省の官僚もここで特地の言葉を学ぶ予定なので、いろいろと都合が良いのである。
 だが、倍以上に増える人口を支えるには、どう見ても棟数が足りない。
 いくら露営ろえいの訓練も受けているとはいえ、騎士団に属するような高貴な女性達にとっては、狭い部屋に相部屋というのもストレスの大きいことだ。それを正面からぶつけられる従者達のストレスはもっと大きいということで、インフラの充実がとても強く叫ばれたのである。それに加え、外務省の官僚も難民が仮設で暮らしていて自分達がテント暮らしなんてまっぴらゴメンだと言い出した。そこで臨時の予算が組まれ、仮設住宅よりはちょっとマシな造りの建物が並べられることになった。
 さらには井戸を掘って浄水設備を置き、排水路を敷設ふせつし、浄化槽等の下水を完備し、これらを動かす為のソーラーパネルも設置した。こうして小ぶりながらも、日本的な生活ができる環境が整えられた。
 ついでに、これまでの生活必需品の無償配給も終了することにした。翼竜の鱗が避難民達の収入源として確保されたから誰からも文句は出ない。
 ただ、遠く離れた町まで買い出しに行かないといけないというのも不便である。そこで小型ながらも各種の消耗品等を扱う商店が設けられることとなった。もちろん、その運営はアルヌス協同生活組合への委託である。
 ところがである。難民のお年寄りや子ども達がのんびりと店番をしている風景は数日とたなかった。というのもこの商店が『PX(駐屯地購買部)』と呼称されて、出入りの都度に煩雑な手続きが必要な銀座よりも、便利に立ち寄れる店として見られてしまったからである。


 避難民達には、店を大きくしようという気はなかった。
 アルヌス協同生活組合を大きくするつもりもなかった。全ては、自分達の必要を賄えれば良いと思っていただけである。
 鱗の販売事業とて、自分達が消費するのに必要な食糧や衣服を買い、いずれコダ村に帰村した時の再建費用として、いくばくかの蓄えを作り、あとの残りは事業の元手(防毒面とか、防護服、各種の消耗品などの一切)を快く出してくれた自衛隊に渡せば良いと考えていたのである。
 だが、PXの買い物客は増えた。騎士団に所属する貴族の令嬢がやってくる。そのお付きのメイドもやってくる。彼女たちには、『門』の向こうから運ばれて来る日用雑貨、衣類、茶などの嗜好品、菓子類等が飛ぶように売れた。
 語学研修の外務官僚もやってきた。そして、アルヌスの丘にいる自衛官達もやってきた。彼らには東京から送られてくる日用品だけでなく、イタリカで仕入れた、ありふれた民芸品が土産としてこれまた売れた。
 店が客であふれかえり、スペースが足りなくなった。
 店舗の増築。要望を受けて品数を増やす。だが販売数が増える。仕入れに手が足りない。販売に手が足りない。荷出しに手が足りない。
 こうして、子どもや老人がてんてこ舞いしているところを見かねたのか、貴族のお嬢様の従者たる女性数名が手伝いを申し出てくれた。(この背景には、『門』の向こうで売られている珍しい商品のカタログ……主に婦人用の下着等とかを見ることが出来、自分が欲しいものを発注できるというメリットがあった)
 これがまた、若き男性たる自衛官達を引き寄せることになってしまう。客がさらに増えて、ますます手が足りなくなるという悪(?)循環。手伝いの女性達も本業をおろそかにするわけにもいかず……わずか数日で、専従のスタッフを雇う必要が出来てしまったのである。
 特地では、人の雇い方はコネクションが主流だ。ハローワークもないし、人材紹介サービスもない。だから「誰か気の利いた人はいない?」と有力者に頼むことになる。すると、その人伝てで人材が紹介されてくる。紹介する方もされる方も、信用がかかっているから変なところに紹介できないし、変な人材を送れない。
 アルヌス協同生活組合は、商取引で関係を深めつつあるイタリカのフォルマル伯爵家を通じて人を紹介して貰った。そしてやって来たのは猫耳の女性達だった。フォルマル伯爵家では貧困対策として、彼女達のような亜人をハウスメイドとして雇用しているくらいだから当たり前と言えば当たり前かも知れない。こうして悪循環が加速する。
 さらに悪いことは重なる。
 竜の鱗は扱いの単価が非常に高くて利幅も大きい。そのために、各地の行商人を招き寄せる魅力があった。竜の鱗を仕入れようと、商人達が次々とアルヌスを訪れる。そこで彼らが見た物は、『門』の向こうから取り寄せられた珍しくも貴重で便利な品々。
 例えば、『紙』だの『鉛筆』だの、伸縮性のある生地で作られた衣服だの……といったものに商人達が飛びつかないはずがない。飛びつかないようなら商人たる資格はない。こうして、これらの品を大量に仕入れたいという粘着質な要望に(泥棒する奴も出た)、お年寄りと子どもの集団であるアルヌス協同生活組合も、断り切れなくなってしまったのである。
 レレイは、ため息をつきながらも日本語で注文書を書いて伊丹に託し、伊丹が東京の問屋とか企業に送りつける。売っては仕入れ、また売るという繰り返し。いっそのこと、電話回線を引いてFAXを置こうという話も出ている。一部外務官僚からは光回線を引いてくれという希望も出ていて、前向きに検討中である。
 そして気が付いてみると、その経済活動の規模はとっても大きくなっていたのである。
 利益が大きくなってしまえば、また商人が集まってくる。だが、あんまりやって来られても迷惑なのだ。何しろ、宿もなければ食事を出す店もないのだから。集まった商人達は、難民キャンプの外で危険な野宿と野営である。当然悪事を考える奴も出てくる。そのために、警務隊が交代で常駐する羽目になった。
 商人達に来ないようにしてもらうには、商品をこちらから運ぶしかない。その為には人を雇わないといけなくなって、隊商を送るなら護衛も必要になる。流石にそこまでは自衛隊に頼めないので、傭兵を雇うことになる。そうすると彼らが寝起きする場所も必要で、また建物を増やす必要が出てきた。
 ここまで来ると「また、仮設住宅を建てて」とおねだりもできないので、自分達で大工や職人を手配して建物を建てることとなった。こうして集まったドワーフの職人とか大工、それと組合で雇った行商人、ちょっと荒くれた感じの傭兵達……彼らに食事を提供する場所が必要になって、屋台村みたいな食堂をつくって料理人を雇う。料理人が色気を出して酒を出したりすることを始めてまた客が増えたりして、店が夜間も稼働し始めると自衛官達も客として来たりする。酒を出す店としての従業員が必要になって、またまたフォルマル伯爵家を通じて人材を紹介して貰う。すると来たのは、やっぱりウサ耳とか狐耳とか、犬耳とか……獣系の娘達だったりする。
 そんな感じで、アルヌスの難民キャンプは、いろいろな種族が流れ込んで来る、上げ潮的な気配があって、しかも特地と日本文化が混ざり合ってアナーキーに発展中……こうしてここは、いつしかアルヌスの街と呼ばれるようになったのである。


    *  *


 アルヌスの街はにぎやかになった。そして更ににぎやかになりつつあった。
 数カ月前は人口三十名に満たない難民キャンプだったと誰が信じるだろうか?
 日中は槌音つちおととノコギリの音が響いて、弟子を叱咤しったする親方の声が時折とどろいたりする。
 荷物を満載にした商人の荷車が盛んに出入りし、それを護衛する傭兵達が装備のぶつかり合う金属音を響かせながら外へ行き、また帰って来るという風景が、もう当たり前のものとなっているのだ。
 どこから潜り込んできたのか、行商人が勝手に露店を開いている。見ると民芸品とか、どこで拾ってきたのか分からないような宝石貴石の原石を並べ、戦闘服姿の自衛官とか、メイドさんとかに「ちょっと見てかない?」と声をかけていた。
 陽が沈む頃合いになると、屋台村のような店のまわりで薪がかれ、闇の中に明るく浮かび上がる。
 オープンカフェよろしく二十くらいのテーブルが並べられ、そこに太ったドワーフとか、コムノーコ(小人族の一種)とか、PX勤務の猫耳娘とか、お嬢様付きのメイドさんとか、組合で雇ったヒト種の商人とか護衛兵とか、職を求めてやってきた傭兵とか、行商人とかが、自衛官達と肩を寄せ合うほどの狭さの中で、泡立つビールジョッキを片手に乾杯しているのである。
 奥の方では、筋肉質の白髪のおっさんが、料理をして威勢のいい声で注文を受けていたりする。
 もちろん、それぞれのテーブルもにぎやかだ。
 あるテーブルを見れば、元兵士っぽい男が、腰から剣を外しながら木製の椅子にどっかりと腰を下ろしている。男はホッとした感じの息を吐いて、テーブルの上に剣をどちゃっと載せた。

「おいっ、面接どうだった?」
「おいよ。なんとか護衛の仕事にありつけた。イタリカと帝都間の交易路の護衛だとよ」

 正面に座っていた髭男が、ジョッキ片手に身を寄せてきたので元兵士っぽい男は破顔して、面接結果を述べた。
 喉を潤すために、まずは一杯とばかりに「おいっ、エール!」と注文する。ところが、店のウサ耳姉ちゃんに「ここじゃあ、エールなんてもん扱ってないよ。ビールならあるけどねっ!」と言われてしまう。

「ビール?」
「美味いぞ。ここでしか飲めねぇしろものだ。だまされたと思って飲んでみろ」

 そこまで言うならと不承不承ながら注文する。そして出てきた冷えた泡麦酒を口にして一言。

「美味いっ!」
「イタリカ往復の隊商護衛は今のところ全部で八個隊がある。俺と一緒ならいいな」

「もし一緒だったらよろしく」と、二人の男は握手を交わす。すると、髭男は辺りを見渡してから声を低くした。

「前は何してた?」
「折角仕事にありつけたってのに、んなこと言えるかよ。イタリカを襲った連中の末路を聞いて、俺は身がすくんだぜ」
「で、真面目に職探しってか? へっへっ」
「心を入れ替えて真面目に生きるのが一番だぜ」
「そだ、そだ」

 などという会話を交わしていると、「なんだい、大の男が内緒話なんてしちゃってさぁ」と気っぷの良い声が割り込んだ。

「はいよっ、お待ちぃ」

 ウサ耳の姐さんって雰囲気の女性が、大皿に盛りつけた肉や野菜を、彼らの頭越しに「ほら、とっとと喰え」とでも言わんばかりにテーブルにデンと置いた。粗野な感じのひげ傭兵が、魅力的な曲線を描く彼女のおしりに手をわせて、回し蹴りを喰らって吹っ飛んでいく。
 一撃で昏倒させられた傭兵を見て、間抜けな奴だとみんなが笑い、ウサ耳の姐さんが「おとつい来やがれってのっ!」と、拳骨をふるわせた。
 切ったタンカが、「あたいの尻はね、安くないよっ!」である。
 そんな中、「よお、デリラ。いくら払えば触らせてくれるんだい?」などと不埒ふらちなセクハラ発言をかましながら伊丹がやって来る。黒ゴス神官のロゥリィ・マーキュリーや黒川くろかわ二曹、桑原くわばら曹長も一緒だ。
 すると威勢の良かったデリラも、顔を真っ赤にして「イ、イタミのだんな。嫌だぁ、もぅっ!」と両手で顔を覆うと店の奥へと逃げ去ってしまった。そこへ「イタミの旦那! 奥の貴賓きひん席が空いてますぜっ!」と料理長をしている白髪のおっさんが声をかけた。下にも置かない待遇だ。

「いいよ。ここがいいんだ」

 屋台村とは言いながらも、一応奥には屋根と壁で囲まれた食堂スペースがある。というより、本来の食堂はそっちだった。だが利用者の急増によって、客が入りきれなくなり、食堂の外にテーブルを置くようになったのだ。
 現在は貴賓席と呼ばれて、元から居た難民とか、外務省派遣の官僚連中とか、騎士団のお嬢様方とか、自衛隊の幹部連中専用の場所という扱いになっている。要するにお上品に食べたり飲んだりするためのスペースだ。
 伊丹も、二尉で幹部なのだから貴賓席を利用する資格があったが、個人的にはこうした粗野な喧噪が好きなのでこちらを利用するようにしていた。


「で、話ってのは?」

 伊丹が座り、その向かいに黒川が腰を下ろす。ロゥリィは伊丹の隣で、桑原のおやっさんは黒川の隣だ。このメンバーでは、第三偵察隊とその関係者の人事や人間関係について話し合われることが多い。
 ロゥリィがとりあえずということで、全員分の生ビール大ジョッキを注文する。店の奥に逃げ込んで出てこないデリラに代わって、ドーラという狐耳ふわふわしっぽ娘が注文を取って去っていった。
 届いた大ジョッキを、一口あおってから黒川は低めの声で言い放った。

「もちろん、テュカのことですわ。いつまで放っておくおつもりでしょうか?」

 ふと、黒川の背後に視線を向けると話題のエルフ、テュカが小走りに駆け寄って、店の様子を見渡している。見るからに『誰か』を捜している様子である。

「テュカぁ! 何をしているのぉ?」

 ロゥリィが声をかけた。

「う、うん。ちょっとねぇ」
「誰か人捜しぃかなぁ?」
「えっ?」
「もしかしてぇ、男だったりぃ?」

 テュカは「違う違う」と手を振ると、苦笑しつつ屋台村から去っていった。
 それを見送った黒川は「ああして、毎日これくらいの時間になると居るはずのない人を捜して歩いているのです」と告げた。そして、伊丹にどうするつもりなのかと重ねて尋ねた。
 隣では、桑原が目の前の黒ゴス少女がジョッキを口に運んでいるのを眺めて、ため息をついていた。外見は少女の彼女が生ビールをあおっているというのは、良識派の桑原にとって非常に抵抗感のある風景なのだ。だが、かつてそのことを指摘したところ、ロゥリィからこっぴどく『坊や』扱いされてしまった。そりゃ九百歳過ぎを前にしては、いかに五十歳でも子どもだろう。とは言え酷く屈辱的だったのも確かで、それと同じように彼女も感じていることに気付いて胸中複雑である。

「でも、無理矢理現実を認識させる必要、あるのかしらぁ?」

 うそぶくように言うロゥリィに、看護師でもある黒川は強く言い放った。

「あるに決まってます」
「そうかしらぁ。現実を受け容れることが出来ないからこそぉ、父親が生きていると必死になって思い込んでいるのではないのぉ?」
「それは逃げですわ」
「逃げてはいけないのぉ?」
「いけないに決まってますわ。人は、現実をしっかりと見つめて、受け止めてこそ、明日を目指して生きて行くことが出来るのですわ。現実の否定で、『今』を誤魔化すことは出来ても、明日は来ません。いえ、誤魔化せば誤魔化した分、『明日』は過酷なものとなるでしょう。テュカのお父様はここにはいないのです。多分……おそらくあの焼け跡から見ても……もう亡くなられたことでしょう。そのことをしっかりと受け止めなければ、彼女が、それを認めなければ、現実と妄想の狭間で、『今』という時を消費するだけの毎日になってしまいますわ」

 ロゥリィは肩を落として疲れたような息を吐くと、手にしたジョッキの中身を飲み干した。彼女の背中は、正論と理屈を並べる子どもを前に「人生はそれだけじゃないんだよ」と、どう言い聞かせたらいいだろうと思い悩んでいるかのようにも見えた。
 黒川が考えているようなことはロゥリィも考えていたことがある。いや、正しいと今でも思っている。だが、それは『正しい』というだけなのだ。
 正しさでは人は救えない。
 黒川の今立っている場所は自分も通ってきた道だった。そして、誰に言われてもそれと気付くことが出来ずに、結局のところ自分で悟るしかなかったのだ。痛い思いと共に……。それを我が身で知るからこそ、どう語ればよいのかと、悩むのである。
 伊丹が、口を開いた。

「なあ、黒川。俺たちが、よってたかってテュカを取り囲んで、みんなでお前の父親は死んだんだと言い聞かせて、現実を認めさせたとしよう。そうしたらどうなる?」
「どうなる? 『の仕事』と呼ばれる悲しみの期間を過ごして、やがて父親が亡くなったことを受け入れて生きていきますわ。彼女の人生は私たちのものより長いのです。永遠に近い時を、ただ死者を思い描いて生きるだけでは寂しすぎます」
「それはぁ、確かにそうなんでしょうけどねぇ」

 ロゥリィは頭の後ろで手を組むと、星の瞬く天を仰ぎ見た。九百六十年かぁ。長かったって言えば長いし、短かったと言えば短かったしぃ……と呟く。九百六十年の間に出会ってきた親しい者達。そして必ず訪れるそれらとの別離。自分は乗り越えることが出来た。だからといって、他人にも出来ると思うのは傲慢と思う。と、同時に他人には出来ないと決めてかかるのは不遜ではないかとも思っていた。答えは未だに出ていない。きっと出ないだろう。

「黒川、お前の言うようにしたとしよう。テュカは、悲しみを受け止めきれると思うか? 今は、現実と妄想の狭間で生きているが、現実を突きつけることで、決定的に現実から目を逸らして、いよいよ『あっち』の方向に行ってしまわないとどうして言えるんだ?」

 その言葉にロゥリィは驚いた。伊丹からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
『正しさ』は劇薬に似ている。誰をも黙らせる力があり、よく効くからこそ頼りたくなる。だがそれ故に、人を絶体絶命の窮地に追いやることもあるのだ。伊丹のような最も現実に背を向けている男が、どうしてそのことを知っているのかと思うとロゥリィは思わず苦笑してしまった。伊丹という男、以前から興味深くはあったが、ますます興味を感じる。

「そ、それは……」
「大丈夫だと言い切れるほど、お前はテュカのことを知っているのか? 俺たちは、そしてお前には彼女を支える力があるのか? 俺たちは臨床心理士でもなければ精神保健福祉士でもないんだぞ。テュカの『こころ』に寄り添い続けてやれる立場じゃないんだ。今日真実を突きつけて、明日撤退命令が出たらどうするよ?」
「…………つまり、このままにしておけとおっしゃるのですね?」
「ああ。悪いことは言わない。最後まで責任を持てないなら何もするな。余計にこじれるだけだ」

 伊丹は、冷たく黒川に言い放つのだった。


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