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2炎龍編

2炎龍編-2

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 第三偵察隊は、帝都に滞在している外務官僚への連絡任務のために、明日出発することになっている。その支度があると称して、黒川が腹立ち混じりの表情で中座し、隊舎まで送るということで桑原が付き添っていった。
 残された伊丹とロゥリィは、差し向かいで飲み続けていた。

「飲みなさいよぉ。お馬鹿さぁん」

 ロゥリィが、伊丹にもっと飲めと、ジョッキを突きだした。伊丹は、苦笑しつつ自分のジョッキをコツンと合わせる。

「あんな言い方する必要なかったんじゃなぁい? 随分と冷たい感じぃ。クロカワからの評価は、断崖絶壁急転落ねぇ」
「誰にも彼にも優しくできるほど、ふところが深くないんでね。仕方ないよ」
「ふ~ん、その懐の定員は少ないのねぇ」

 そう言いつつも、ロゥリィは内心では「嘘つきぃ」と呟いていた。
 この男、わざと冷たく振る舞ったのだ。黒川の好きなようにやらせてみて、最悪の結果が出ても「上手く行かなくて残念だったな」で、終わらせることも出来るのだから。

「一人か二人が精一杯かな」
「一人にしておきなさぁい。または、一人だけだと思わせなさぁい」
「どうして?」
「女にモテるからよぉ」
「優しくないとモテないんじゃないのか?」
「逆よぉ。女から見て、誰にも彼にも優しくする男ってぇ……そうねぇ、男から見たらぁ……誰にでも股を開く女に似てるかもぉ」
「はぁ?」
「優しさに飢えている時はてっとり早くて都合がいいけれどぉ、伴侶にしたいかって言うとぉ、ちょっとねぇ。優しくしてもらえるのが一人だけならぁ、その一人だけの座が欲しいって思うのが女なのよぉ」
「ふぅん。そんなもんかねぇ……ロゥリィは優しいな。死と断罪の神様エムロイだっけ? その使徒の一柱で死神なんておっかないアダ名がついてる癖に」
「あらぁ? 誤解があるわねぇ。死を司るということは、生を司ることを意味するの。死とは生の終焉、どのように死ぬかは、どのように生きたかを意味するわ。最良の死を迎えるには、生きることを尊ばなければならない。どうでも良いような人生の果てにある死は、どうでも良い死に成り果てるのよぉ」
「そうなのか」

 ロゥリィは「そうよ」と微笑むとジョッキの中身を飲み干した。

「おかわりっ!」
「おいおい、そのへんにしておけよ。酔っ払っても知らないぞ」
「いやぁよぉ。優しくしてよぉ」
「じゃ、とりあえずは、寝床までは運んでやります」
「けちぃ」

 ロゥリィのつま先が伊丹のすねを蹴った。

「痛ってぇなぁ、もう!」

 脛をでる伊丹を指さして、ロゥリィは鈴を転がすように笑う。
 そんな二人のやりとりに、ハスキーな女声が割り込んだ。

「なんだここは? ガキに酒を飲ますのか。それと、そこの男、幼気いたいけな少女を酔わせて何を目論んでいる? まさかとは思うが卑劣なことを考えているのではあるまいな!?」

 突然、その場が水を打ったように静まりかえった。
 喧噪が途絶え、灯火の薪がはぜる音だけが、響いている。
 荒くれの傭兵連中も、無骨なドワーフも、顔面を蒼白にして黙り込み、少なくとも、このアルヌスでは、絶対に口にしてはいけないとされている言葉を吐いた強者つわものの姿を盗み見ようと、ゆっくりと視線をめぐらせた。
 くすんだ白のターバンを巻いた痩身の男……いや、女か。
 褐色の肌に、銀髪。そして長穂耳。
 それはこの世界にて、ダークエルフと呼ばれる種族の女だった。



  02


「なんだここは? ガキに酒を飲ますのか。それと、そこの男、幼気な少女を酔わせて何を目論んでいる? まさかとは思うが、卑劣なことを考えているのではあるまいな!?」

 その女声が響くまで、ロゥリィはこの上ないほどにご機嫌だった。
 伊丹耀司とのひと時が、楽しかったからだ。
 雰囲気もまずまずだし、ビールも美味しい。このまま伊丹を際どい冗句でからかい続け、酔っ払って眠りこけたフリをして見せれば、ベッドまで運ばせることに成功するだろう、いや成功したはずだった……。
 ……眠っているロゥリィを、伊丹は壊れ物でも扱うかのように慎重に運ぶ。
 彼女の身体を優しくベッドに横たえ、その頭を柔らかな枕にそっと載せる。
 長い黒髪がからんだりしないようにという配慮で、指先で上手にくしけずるようにしながらさばき置いて、神官服には皺をつくらないように、その裾を丁寧に整える。そしてブーツだけは脱がす。
 伊丹はロゥリィの左足首からふくらはぎをそっと撫でるようにして包み持つと、右手で彼女の膝裏の辺りを支えて、『く』の字に曲げさせた。当然、フリルスカートの裾が乱れて、彼女の腿……その付け根近くまでがあらわになった。
 だが、伊丹は気付かない。あるいは気付いていても黙殺する。
 左手で靴紐くつひもの先を摘み持って、あたかもプレゼントの箱を開くような面持ちでツツッと引き解いた。
 十分に靴紐をゆるめたら、ふくらはぎとブーツの狭い隙間に、伊丹の指先がいよいよ分け入った。

「……あっ……ん」

 その感触は足裏マッサージのそれに近くて、思わずため息が漏れてしまうかも。
 こうして、靴とロゥリィの素肌との間に充分な空間が空いたら、伊丹はブーツの踵を掴んで「いくぞ。いいな」と声をかけた。
 目を閉じたままのロゥリィは、頬を紅色に染めつつも、頷いたか頷かないか程度の小さな反応を見せただけだった。
 だが、伊丹にはそれで充分だった。いや、反応がなくとも伊丹は待たなかっただろう。意を決した伊丹はもう後戻りしない。やや強引なまでに、彼女の左足からブーツを引き抜いていった。こうして、それまで漆黒の革靴で隠されていた、白いレースの生地に包まれた足が顕れる。

「いたぃっ…………お願い……乱暴にしないでぇ」

 ロゥリィは小さな声で懇願した。だが、冷酷な伊丹はロゥリィの声を無視していよいよ右足のブーツへと手をかけた。
 …………事を終えた伊丹は、彼女の部屋から出ていこうとする。寝台の横には、彼女のブーツがきちんとそろえて置かれていた。
 でも、彼女の手は、伊丹の袖を固く掴んで離さない。

「しょうのない奴だ」

 とかなんとか言いながら、伊丹はロゥリィの指を優しく解きほぐそうとするかも知れない。というか、是非して欲しい。そうしたら両手を伸ばして伊丹の頭をがばっと抱きかかえ、ベッドへと引きずり込んで寝技へと持ち込む。
 後は、いろいろとムフフな展開を朝まで……と思っていたのだ。
 すなわち、相手を酔わせていろいろ目論んでいたのはロゥリィなのであった。卑劣かどうかは別にして……。
 なのに、なのにそれなのに。邪魔したあげく、このロゥリィ・マーキュリーをガキ扱い。
 ロゥリィは、震える拳を隠しながら声の主へと振り返った。
 見ればダークエルフの女だった。
 三百歳前後だろう。ヒト種で言えば二十代後半から三十代前半の外見である。
 南方の部族なのか、旅塵りょじんを避けるために頭にターバンを巻いて、身体はマントンで覆っていた。
 マントンは魔導師のローブにも似ているが、それよりももっと簡素な構造をしている。ただの布きれを身体に巻いただけなのだ。ある程度の意匠をこらすこともあるが、この女の場合はすり切れそうな無地の生地をそのまままとっていた。だからだろうか、布の隙間から彼女の肢体が微妙に垣間かいま見えるのだが、それがまた気に喰わない。
 見た感じ、いかにも肉感的で男好きのしそうな身体なのだ。しかも、ダークエルフ特有のボンテージ鎧をまとっている。
 ボンテージ鎧とは俗称であり、防具としての分類は革鎧に該当する。なめした革にびょうや金具をとりつけてデザイン性と若干の防御力強化をはかっている。身体にぴったりとした扇情的とも思えるデザインも、戦闘時の動作の邪魔をしないためであり、敏捷性びんしょうせいへの負荷が極力少なくなっている。
 南方に棲むダークエルフの部族は、軽快かつ俊敏な戦闘術を伝承していると伝え聞く。そのために、このような防具が発達したのだろう。
 そんな女が、ロゥリィと伊丹の二人を前に仁王立ちしていた。
 彼女の右手はサーベルの柄にかかっていて、すぐにでも伊丹に斬りかかりそうな剣呑な気配を放っていた。

「あなたは、誰ぇ? 何しにここにぃ?」

 ロゥリィは、怒るよりも前に、いや既に充分に怒っているのだが、その事を表明する前に、女についての情報を得ることにした。この容姿だ。間違えることは仕方ないと思う。だから、ぶん殴ったり、斬りかかったりするような理不尽なことをするつもりはなかった。だけど、意地悪くらいはしてやりたい。
 ダークエルフの女は、怯えで身体をふるわせている(ように見える)少女を、安心させようとしてか、その質問に丁寧に答えた。

「我が名はヤオ。ダークエルフ、シュワルツの森部族デュッシ氏族。デハンの娘、ヤオ・ハー・デュッシ。こちらに緑の人がおられると聞き、用件ありて参った次第」

 途端、ロゥリィはその瞳を輝かせた。
 彼女はヤオと名乗ったダークエルフの女に、救いを求める無力な少女のように駆け寄ると、その背中に隠れて言い放った。

「お願いっ、助けてっ! この男、もう飲めません、許してくださいって頼んでいるのに、俺の酒が飲めないのかとしつっこいんですっ!」

 ……もとより静まりかえっていたが、場は更に静まりかえった。
 誰かの唾を呑み込む音すら聞こえるほどである。
 伊丹は「えっ! オレ?」と自らを指さして周囲に救いを求めるように視線を巡らせる。だが、誰も助けてはくれない。他の客達は数人がかりで料理の載ったテーブルを持ち上げると、えっちらおっちらと避難を始め、伊丹独りがポツンと残された。

「やはり、そうであったか」
「この男、女を酔い潰して、その後で手込めにするつもりだったんですっ! あともう少し飲まされていたら、わたしぃは前後不覚に酔っ払って、明日になって目が醒めたら、きっと純潔も操も何もかも奪われた上で、ボロくずみたいに捨てられていたんだわぁ!」

 よよよ、と両手で顔を覆って崩れ落ちて見せるロゥリィ・マーキュリー。
 ヤオはその痛ましく見える姿に「可哀想に、恐かったであろう?」と慰めた。その声色は、悪行三昧ざんまいの男に対する正義の怒りで震えていた。
 伊丹の目には、顔を覆う両手の隙間から、ペロリと舌を出しているロゥリィの素顔が見える。その瞳は伊丹に「ゴメンね」と語っていて思わず天を仰ぎたくなった。
 ある種の女性は時として、親しい男に対してこういう振る舞いに及ぶ。例えば車の運転中に、いきなり目隠しをしてきたりして、叱りつけると「怒っちゃ嫌」と泣いたりする。こうしたことに耐えることもまた、男の甲斐性の内に含まれているのだ。女性がこうした振る舞いに及ぶのは、多くの場合で女性側の無言の期待に男が応えない時という。

「己の薄汚い獣欲を充たさんとして、少女に酒を無理強いするなど不埒ふらち千万。断じて、許せぬ」

 ヤオは伊丹との距離を詰めつつ、ゆっくりとサーベルを引き抜いた。
 彼女の右手には見るからに斬れそうな刀身が、篝火かがりびの光を受けて輝いている。

「安心するがいい。今すぐこの不埒者を成敗し、おまえの安逸あんいつを取り戻してやる」

 ヤオは、ロゥリィを安心させようと微笑みながら語りかけた。
 そして、再び目標へと視線を向けたのだが、その時には座る者の居ない椅子と、中身のないビールジョッキが転がっているだけだった。

「は、はやっ」
「ダンナ、見事なもんだねぇ」

 一部始終を見ていた観客達を代表して料理長とデリラが呟いた。

「あばよ~とっつぁん。飲み代はツケといてくれ」

 見れば、夜の闇の向こうへと伊丹の背中が消えていく。ちょっと振り返って手を振っているところなぞ、小気味の良さを感じさせるほどであった。
 あまりの逃げっぷりに、一同しばし身動きが出来なかったが、しばらくすると何事もなかったかのように酒盛りと食事を再開した。
 料理長は、カウンターの柱に画鋲で留められている何枚かのカードから、伊丹のカードを取り出すと、鉛筆でツケに入れる今回の代金を書き込んでいた。
 振り上げた剣の下ろし場所を失って、呆然としていたダークエルフのヤオも、我に返ると「コホン」と咳払いをして「よし、悪は逃げ去った」とまとめる。
 サーベルを鞘に戻して、「もう大丈夫だぞ……」と少女に声をかけようとしたところ、もう少女の姿も見あたらない。
 ついさっきまで自分の腰にしがみついて震えていたはずなのに、まるで幻であったかのように、黒ゴス神官服の少女の姿が見えなくなっていたのだ。別に礼を言って貰いたかったわけではないが、一言あってしかるべきだろうとも思えて、つい「随分と礼儀を知らないガキだ。年格好や服装からするとエムロイを祀る巫女見習いだろうが、どこの神殿の所属だろうか?」とひとり愚痴をこぼしてしまうのだった。

「ほら、注文するならさっさと座りな。それともただの冷やかしかい? 冷やかしなら出ていっておくれっ。邪魔だから」

 デリラに声をかけられて、元々食事をするつもりであったことを思い出したヤオは「ああ、すまん」と招かれるままに、カウンター席に腰を下ろした。
 包丁をふるっていた料理長が、ヤオに尋ねた。

「お客さん。何にする?」
「晩の食事がまだだ。肉と野菜の焼いたものを適当に見繕って欲しい。それと飲み物は軽いものにしてくれ」
「酒精は入っていていいのか?」
「ああ」
「デリラ。こちらダークエルフのお姐さんにビールだ」
「はいよっ!」

 隣の席のドワーフが、相当酔っていることの分かる赤鼻顔で「よっ、ダークエルフの女。お前、緑の人を訪ねてきたんだって? なんでだ?」と語りかけてきた。
 ヤオを挟んで反対側の猫耳の娘も「わざわざ、緑の人を訪ねてこんなところまで来るニャんて、訳ありだニャ?」と気安く肩を叩いてくる。
 自分という存在が、酔っぱらい共の酒のつまみとなっていることに気付かないヤオは、その気安い態度を好意的に誤解した。

「ふむ、垣根が低くて良い人達のようだ。丁度良い、話を聞いて貰いたい。緑の人を探してここまで来たのは、頼みたいことがあるからなのだ。諸君は、緑の人がどこにおられるか知っているか?」
「頼み?」
「そうだ。是が非でも、彼の者達の力を借りなければならないのだ」

 ……なるほど。それでロゥリィはあんな芝居をやらかしたと。
 死神ロゥリィの復讐がこのように為されたことを理解した一同は、無言で「あんたは、その緑の人にサーベル抜いたんだよ。ご愁傷様」とヤオを哀れむのだった。
 誤解にしろ何にしろ、自分に向けて剣を抜くような人物の頼み事を、快く引き受ける人は少ないだろう。彼女が目的を達成するには、誤解を解いて謝罪をして、さらに機嫌を取ってと、最初から高いハードルがさらに高くなってしまったと言える。
 ドワーフの男は、思わずヤオから目を背けると呟いた。

「もしかすると、無理かも知れんなぁ」

 猫耳娘も、ヤオから目を背ける。

「そうだニャァ。非常に難しいと思うニャ」
「何故だ? 緑の人は高潔な者達と聞き及んでいる。ならば困っている者を見捨てることはないと思うのだが…………諸君がそのように言うには、何か根拠があるのか?」

 そこまで語ったところで、デリラが「はい、お待ちっ!!」とヤオの前にジョッキを置く。泡立つ黄金の液体を前に、ヤオは「これがビールか」と呟いて、まず一口含んだ。

「うむ。美味い」

 そこに料理長の料理が、ヤオの前に並べられていった。
 ヤオはそれらに舌鼓したつづみを打ちながら「無論、無料でものを頼もうとは思っておらぬ。報酬も、族長よりこれこのとおり、預かってきている」とテーブルの上に、ドンと、人の頭サイズの革袋を置いた。ちなみに盗難除けに冥王ハーディの護符も括り付けられている。正当な所有者以外が手にすると、呪いをかけるというものである。

金剛石こんごうせきの原石だ」

 これには、傭兵達が騒いだ。ちょっとした一財産どころではないからだ。これだけあれば爵位が領地付きで買える。しかもダークエルフ謹製ハーディの護符付きだ。これ単体でも相当な高値がつくはず。

「それに、もしこれでも足らないということであれば、我が身を捧げることもいとわぬつもりだ。すでに覚悟は完了している。親類縁者とも、別離は済ませてきた」
「おおおおおっ!」

 今度は、傭兵のみならず男達と一部の女が騒ぎだした。
 ヤオの肢体はそれほどに魅力的だった。これを好きなように出来ると聞いて心動かない男はまず居ないだろう。
 傭兵の一人が、俺では駄目かと言い出し、他の傭兵達も「オレも、オレも」と後に続く。ヤオは大人の女としての余裕からか「困った男達だ」という感じで小さく微笑んだ。その上で、「申し訳ないが、おそらく諸君では力不足だろう」と告げた。

「ま、それだけのお宝に加えて、我が身すら差しだそうってんだから、頼み事って言うのも簡単なことではないってことだろうな」
「そうだ」
「で、頼み事というのはどんな内容なんだ?」

 周囲の視線が集まる中、ヤオはジョッキのビールをさらに一口含んで喉を潤してから重々しく語った。

「手負い炎龍の、退治だ」


 シュワルツの森に炎龍が飛来したのは、数カ月ほど前だった。
 それは突然だった。それでも集落に住まうダークエルフ達のほとんどが、たまたまの祭祀で村から出払っていたために留守を守っていた少数の男女が犠牲になるだけで済んだのである。
 だが、その程度で炎龍が満ち足りることはない。空腹になる度に飛来する炎龍によって、多くの同胞が次々と犠牲になっていった。
 このままでは部族が滅んでしまう。
 ダークエルフ達は、炎龍の狩り場と成り果てたシュワルツの森を捨てて、周辺の荒野や渓谷、山岳地帯へと分散して隠れ住むことにした。
 炎龍の襲撃から逃げまわる生活が始まった。
 毎日毎夜、空を警戒し飛ぶものなら小鳥にすら怯え、空襲を警告する角笛つのぶえが響けば、地に掘った穴にモグラのごとく逃げ込んでは恐怖に身をふるわせる。
 だが、ほんの僅かな油断に炎龍は襲いかかった。
 穴ごと焼き払われ、ほじくり出され、時に踏みつぶされる。
 朝、挨拶を交わした同胞が、夕刻には炎龍の鋭い牙に噛み砕かれ、咀嚼そしゃくされ、嚥下えんげされる。
 耳にこびり付く悲鳴、断末魔の絶叫に背を向けて両手で耳をふさいで、友の犠牲が生み出した貴重な時間を使って、より険しい山へ、より深い谷底へと彼らは隠れ家を移していったのである。
 しかし、逃げ隠れしているだけでは生きて行くことは出来ない。
 毎日のかてを得るには、狩猟なり採集なりをしなければならなかった。だが、エルフにとっての狩り場とは、炎龍にとっても狩り場であった。
 狙いながら狙われ、獲物を捕った瞬間に自らが獲物となる。こうした危険を避けつつ、得られる糧など、量質共にたかが知れた。
 木の皮を削り薄皮を蒸して食べ、泥水をすする。そんな毎日が続く。
 集落から持ち出した蓄えは次第に乏しくなっていく。次第に軽くなっていく麦櫃むぎびつ果物籠くだものかごに不安を抱き、悲壮な覚悟で弓を手に狩り場へと出ていく若者達。
 犠牲者が毎日のように出る。
 両親を失った子供のすすり泣きや、娘や息子を失った親が炎龍を呪詛じゅそする声が止む日は、一日とてなかった。
 復讐の怒りから剣を取り、弓を持って絶望的な戦いに挑む者もいた。
 だが、卵をいくら束ねても巨岩を阻むことが叶わないように、彼らの挑戦もまた、犠牲を増やすだけに終わった。
 精霊の加護も、神銀ミスリルやじりも、強靱な鎧にも似た炎龍の鱗を貫くことは出来ない。
 魔法の剣にわずかな可能性が見いだされたが、その切っ先も届く間合いに入れなければ、全くの無力である。炎龍の巣に無数に転がっている魔法の剣。その中に、新たなる一本が加わることとなった。
 絶望と虚無がダークエルフ達の心を捕らえていく。
 冥王ハーディへの信仰が、彼岸への憧れとすり替わり、処刑台の笑いにも似た絶望の微笑が不治の疫病のごとく部族中へと蔓延していく。生きることに希望を失い、自暴自棄の振る舞いに及ぶ者も絶えない。
 このままではいけない。こころある一人が、言った。

「あの炎龍にだって弱点はある。あの片目に突き立っている矢がその証拠だ」

 炎龍に一矢報いたであろう神業のエルフの存在が、彼らの勇気をわずかながら呼び覚ました。

「炎龍だろうと、必ず倒す術がある。あのもぎ取られた左肩がその証拠だ」

 時を同じくして風とともに流れてきた『緑の人』の噂。
てつ逸物いちもつ』と名付けられた魔杖は炎龍の左肩すらうち砕き、滅びに瀕したヒト種の村を絶体絶命の窮地から救い上げたという。その噂は、滅びに瀕したダークエルフにとって最後の希望となった。
 そして、部族の総意を託す遣いが立てられることとなる。
 遣いの者に託された任は重い。
 炎龍の魔爪から逃れ、噂だけを頼りに緑の人の下へとたどり着かねばならないのだから。強靱な精神力と責任感、そして優れた生存力が求められる。
 遣いの者に託された任は想い。
 緑の人を援軍に請い願い、いかなる手段を用いようとも助勢を引き出さなければならない。失敗は部族の、同胞や友人の滅びを意味してしまう。
 これだけの責務だ、到底凡夫では成し遂げられない。相応の武芸、知性の双方に恵まれて、さらには中途で投げ出したりしない、使命感にあつい者でなければならない。
 部族中から若者が集められ、ふるいにかけられていく。
 そして二名の者が残った。その片方が、ヤオ・ハー・デュッシである。
 剣の腕と知性に優れ、精霊を使役する技にも精通する。
 その不器用なまでの生真面目さは、部族中に知らない者はいないほどだ。彼女ならば使命を途中で投げ出すことはないだろう。
 候補者は二人。だが技量、才幹、そして人柄。全てにおいて同じ水準ならば、女性であるヤオが有利であった。なぜなら彼女の魅力的な容姿は、異性を交渉相手とする際に、重要な武器となり得るからだ。そして、緑の人の指揮官は男だとも聞いている。
 しかし、事は簡単ではなかった。部族の長老達はヤオの顔を見るなり、「う~ん」と唸ってしまったのである。というのも、彼女には運が悪く幸が薄いという重大な欠点があったからである。
 猟に出れば、誰かの仕掛けたワナを踏み、木を切れば彼女の居るところへ倒れてくる。
 遊びに出れば雨が降り、買い物に町に出れば店が閉まっている。
 親友とも言える女性に彼氏を寝取られ、幼なじみの男性と紆余曲折の果てに結婚することになってみれば、婚礼前夜に夫が急死するという有様である。
 その後、の明ける頃に、未婚の未亡人に愛を囁く男が現れたが、その男も狩猟中に崖から転落して死亡してしまう。こうして、彼女に近付く男はいなくなってしまった。
 さらには、普段クジ運などまったく無いのに、友人の婚礼の宴会をヤオが仕切った時に限って、余興のくじ引きで一等賞を引き当ててしまうという間の悪さ。
 正直言えば、女性であることのメリットも消し飛んでしまうように思われた。だが、運は悪いけど、その運の悪さを乗り越えて、強く正しくたくましく生きてきた事を見てくれと、彼女は自己アピールする。
 それは誰もが認めるところであったから、長老達も運が悪いという理由で彼女を落選させることも出来なかった。
 そこで、長老達は女性を遣いとして選ぶ意味を切々と説いた。そして、必要となれば自分自身すら報酬として相手に捧げる覚悟があるかを問うたのである。その言い様たるや、必要以上にしつこくて、もしかして嫌がらせかと思うほどであった。実のところ、辞退させたかったのではないだろうか、とヤオは思っている。
 だが、ヤオはそれにだくと応じた。どうせ、男運無いし。相手が求めるなら、奴隷だろうと、愛人だろうと、娼婦だろうと、メイドだろうと言われるままにやってやる。ただし、絶対に安売りはしない。炎龍一頭が代価なら、本懐であると胸を張った。
 長老達は一抹の不安を抱えつつも、ヤオを遣いとして選んだ。
 部族の未来は生か滅びかの二つに一つだ。ならば報酬を吝嗇けちっても意味がない。ということで、部族の保有する最高の財宝が宝物庫から引き出されて彼女に託された。
 こうして旅に出たヤオは、様々な不運困難を乗り越えて、アルヌスの丘へとたどり着いたのである。


    *  *


 ヤオの眠りは、耳をつんざく轟音によって打ち破られた。
 何事かと飛び起きて、周りを見渡してみれば、そこは木漏れ日の美しい森であった。
 折角街に着いたのに、宿屋が無いと聞いてがっかりしつつも、夜も遅くなった、全ては明日ということで野宿の寝床として選んだアルヌス麓の森。
 このあたりを仕切っているというエルフの手が入っているせいか、そこは緑と水と、風の精霊の恵みが豊かで非常に快適であった。
 そんな森の上空を、轟音と共に二本の剣が飛んでいた。
 大空を切り裂くように、天をめがけて駆け上がっていく翼は、F4ファントム。
 退役間近な白銀の翼は、規制のうるさい国内と違って離陸した途端管制官より通知された言葉『他に飛んでるのは鳥ぐらいだ。墜落しなければ、好き勝手に飛んで良し』に象徴される自由を、大いに楽しんでいた。
 彼らはパイロットとしては超ベテランで飛行時間も千の単位だ。だがF15やF2への機種転換訓練を受けるには歳を取りすぎていると自ら判断し、ファントムの退役と共に教育隊か、陸へと腰を落ち着けることを選んだ四十代の古強者ふるつわものだった。分解されてこの特地に運び込まれたファントムも、もう向こう側に持ち帰られる予定はない。
 彼らに最後に与えられた空は、常に道を譲らないといけない旅客機も、米軍機もいない自分達だけの空であった。それは、全ての空自パイロットがよだれを垂らして羨ましがる大厚遇である。
 離陸して、脚を引っ込めた瞬間からアフターバーナーを全開にして高度一万メートルまで駆け上るインメルマンターン。
 百八十度ロールして大地と天を逆様に、背面飛行から大地に向かって突き刺さるように加速して次第に機首を上げるスプリットS。
 中途で音速を突破させ、衝撃波を響かせても苦情を言う市民団体もない。とはいっても、駐屯地の陸自や、アルヌスの街に住まう住民に対しては一定の配慮はして、頭の上で雷みたいな音を響かせないようにはしているが……。それにしたってみんな仲間だ。スロットル全開で、空中の模擬戦に遠慮は要らない。横転をかけて姿勢を戻し、振り回されないように両の膝でステックをぐいっと挟んで、がつんと叩くようにして、機首を引き起こす。
 急旋回のGは、身体を締め上げる。その瞬間に呼吸など出来るはずもない。「ふんっ」と腹筋に力を入れ、満身の力を込めて身体を支えた。
 Gが止んだ瞬間に、ぜいぜいと呼吸をして酸素を取り込む。戦闘機動はこの連続が果てることない我慢比べだ。
 後席が叫ぶ。「後方を取られた」

「こなくそっ!」

 急制動に、シザー。後方に食らいついた仮想敵を振り払おうと、あらゆる機動を駆使する。大地が回り、世界が転がる。敵を引きはがしたら、逆に後ろを取りに回る。
 ナイフエッジ、横転コルク抜き……今なら、ラプターだってロックオンしてみせる。空自の空戦技術は世界的に見ても非常に高い水準にある。かつて、F104という旧型機で、米軍のF15から撃墜判定をもぎ取った名パイロットがいたほどなのだ。
 あらゆる枷から解き放たれた無頼達は、自由な空で、無邪気にはしゃぐ子どものようであった。


 空を飛び回る、銀色の剣。
 その風景は、空を舞う剣が鬼ごっこを楽しんでいるかのようにも見えた。
 呆然と見上げていたヤオは、すぐにこれが人が操る物であることに気付いた。エルフの優れた視力が、彼女の視界をフライパスしていく巨大な剣に騎乗する者の姿を捕らえたからだ。
 そして、笑みがこぼれた。笑いながらも涙が流れた。

「噂は、本当だった」

 天を我が者のように飛び回り、大地に生活するあらゆる生き物を喰らいつくす炎龍。
 だが、大空の支配者は最早、炎龍ではない。速さ、鋭さ、すべてにおいて炎龍を凌駕する、空飛ぶ剣。こんなものがあるのなら、炎龍の腕を喰いちぎったという鉄の逸物もあるだろう。当然だ。
 唯一の希望としてすがる気持ちこそ持っていたが、正直言えば半信半疑でもあった。噂とは人々の願望を受けて、膨れあがるものだからだ。そして、絶望によって心が打ち砕かれることを防ぐために、始終、噂が間違いであった時のことを考えていたのである。
 噂を疑いつつも、半分信じ、希望を託して旅してきたヤオにとって、大空を自在に舞う剣の存在は、自分の旅が無駄でなかったことの証明であり、希望の保証となった。
 こうなれば、彼女の使命はほとんど果たされたも同然である。ヤオはそう感じていた。
 このままあのアルヌスの街へ戻り、緑の人の代表者に会いさえすればいいのだ。
 援軍を請い願い、説得することの困難さなど、これまでの労苦に比したら些細なことのように思われた。これで故郷の仲間は、一族は救われる。それがもう約束された既定事項のように思えていた。
 ヤオは、「よしっ」と心を決めると、街へと向かって歩き始めた。
 草を分け、歩く足取りは軽くて、次第に早足になる。まるで、待ちきれないかのように、つい小走りになってしまう。そして最後には、風を切って走り出していた。


    *  *


 アルヌスでは、伊丹率いる第三偵察隊が完全武装を済ませて、整列待機していた。
 傍らでは、柳田やなぎだ二等陸尉がクリップボード片手に、三台のリヤカーに積み上げられた荷物の最終点検をしている。

反物たんもの漆器しっき陶器とうき磁器じき真珠しんじゅ、おおっ! 日本酒なんてものまであるぞ。しかも、『寒中梅』の特級と来てやがる。一本ぐらい、ちょっぱったろうかなぁ」
「止めてくださいよ、柳田さん。これらは俺たちにとっての武器弾薬なんですから」

 傍にいたスーツ姿の外務省官僚、藤堂とうどうが冗句と理解しつつも、真面目に応じた。

「本当か? 自分達で消費してるんじゃないだろうな?」
「その辺は、信じて貰うしかないですね」

 リストを見ればデパートで開かれる全国名産品展でもあるかのような品揃えだ。これらは贈答ぞうとうあるいは贈賄ぞうわいとして用いることになる。
 壊れ物が多いのできちんと梱包してあり、さらに量が多いために、ちょっとした引っ越し級の大荷物となってしまった。

「それと、金貨、銀貨、銅貨の詰まった箱。それぞれ中身もずっしりです」

 帝都における各種の活動資金も必要で、これらも木箱に詰められて積み上げられていた。活動資金の使い道は、帝都における活動拠点として借りた家屋の家賃、情報収集のために雇った人間への報奨ほうしょう、それと各種の工作活動、交際費等々で、常に不足気味だ。

「抱かせ、喰わせ、飲ます。このあたりは、商社の接待と似たようなもんです。あとは、没落した貴族とか、体制に恨みを抱いている連中を見つけ出して、そいつらを使って各種の噂を流したり、足を引っ張ったりとかの工作をしたりと、基本通りです」

 語学研修中とはいえ、特地にいる以上は働かされている若手官僚の一人が、金貨の詰まった箱をポンと叩きながら語った。
 日本政府はこれらの貨幣を、アルヌス協同生活組合から『購入』して賄っている。
 アルヌス協同生活組合は、これらの貨幣を売った代金の『円』で、さまざまなものを輸入しているわけである。

「発展途上国の役人なんて露骨ですよ~。あからさまに賄賂を要求してきますから。中国の外交官なんて、春暁しゅんぎょうの交渉の時に『軍艦を出すぞ。それでも良いのか?』とあからさまに恫喝どうかつしてきましたよ。何度羨ましいなぁって思ったことか。一度でもいいから『やれるもんならやってみな。どっちが強いか試してみようじゃないか』って言ってみたいですよ」
「言えばいいじゃん? ここで」
「そういうわけにはいかないのが、外交ってものです。植民地時代じゃないですからねぇ。まして、この特地の政体は残して、それと親密な関係を維持するという方針に定まる可能性も無い訳じゃありませんから、後々に禍根を残すようなことは出来ません。今は、講和派を増やすことに専念しますよ……」

 さて、そんな会話がされている内に、CH‐47 JAチヌークが降下してきた。
 ローター風に地面の砂塵が巻き上げられていく。
 降着するころになると、立ちこめた砂煙で周囲が見えなくなってしまうほどだ。
 後部ハッチが開かれると、第三偵察隊は桑原曹長の号令で、チヌークに向かって一斉に進み出す。柳田も、外務省の官僚達とリヤカーを押し出した。
 荷物を積み込み、機体が動揺しても内部で転がり回らないように固定する。それが済むと、機内側面に畳まれたシートを下ろして各位腰掛けていった。
 外務省の連中が座るのを確認して、柳田は伊丹に言った。

「んじゃ、後は頼むわ。無事に送り届けてやってくれ」

 伊丹は親指を立てて頷く。
 ローターの回転が速くなり、再び砂塵が舞う。
 柳田が降りると同時に後部ハッチが上がっていき、チヌークも離陸して高度を上げた。
 こうして彼らは帝都へと向かって飛び立っていったのである。
 アルヌスと帝都の距離は馬で十日行程だが、チヌークならばわずか半日だ。とはいっても都市の近くに降ろしては目立って仕方ないので、帝都から離れた山中に降りて、そこから徒歩で一日半ほどかけて帝都に入る予定であった。


 ヤオは、アルヌスの街手前で、自分の頭上を飛んでいく箱船の騒音に思わず首をすくめてしまった。空を舞う剣、鉄の逸物、そして空を飛ぶ箱船……ここまでくると、緑の人達には何でもありだなと感心しつつ、ヤオは街へと入ったのである。



  03


 ヤオは、困っていた。
 街の中を歩き回っては行き会う、それっぽい濃緑色の服とか、まだら緑の服を着ている人に、片っ端から「済まないが、少し話を聞いて欲しい」と話しかけてみた。
 ところが、どうにも言葉が通じない。
 みんな一様に、なんとも形容しがたい苦笑というか、引きつった笑いというか、複雑な感情の混ざった表情を浮かべ、こっちの話が分かるのか分からないのかはっきりしない態度をとるのだ。
 顔を見ると、多少は分かっているんじゃないかなぁと思えるので、一生懸命話をして、終わってみると、結局通じていなくてがっかりする羽目になる。
 徒労感に苛まれながらも、中には言葉の出来ない者もいるのだろうと思って、手当たり次第に声をかけた。
 そうして半日。おそらく、二十~三十人くらいに声をかけたのではないだろうか。
 ようやく、緑色の服を着ている者には言葉が通じない、いや、言葉が通じないのが基本であって、多少話せたとしても片言程度なのだという事実を、思い知ったのである。
 挙げ句の果てに、こんな奴も出てきた。

「ダークエルフのお姉ぇさん。緑の人を捜しているのかい?」

 流暢な語り口に「言葉が通じるのか?」と、喜んでみれば緑の服は着ていない。見た目でも、この国の住人であることが分かる男だった。
 見た感じ傭兵というには線が細い。多分、行商人か、あるいはこの街に雑用の仕事で雇われている者だろうと推察した。
 この男が、ヤオにこう言った。

「緑の人なら、俺が居場所を知っているから案内してやるよ」

 それはとてもありがたい申し出だったので、ヤオは親切を受けることにした。
 すると男は、ヤオの手をとると街を出て、森の暗がりへと連れて行こうとしたのである。

「どこへ行く?」
「こっちさ。緑の人は、こっちにいるんだ」

 ヤオの手首を握ってくる汗ばんだ感触に「なんだろう、この手は……」と思う。
 もしかして、春を売る職業と間違われたんじゃないかなぁ、それだったらやだなぁ、と思って見ていると案の定、人気のないところに来た途端「金ならあるんだぜ。それに、俺は結構顔が広いんだ。緑の人に口を利いてやるからよ」とか何とか言いながら、いかがわしくも押し倒そうとして来たのだ。
「力ずく、金銭ずく、というのは頂けないな」と出来る限り加減して股間を膝で蹴り上げる。するとその男性は己の間違いを痛切に理解してくれたようで、ペコペコと頭を下げながら、逃げ去っていった。
 何故か財布を落としていった。後で届けてやらなくてはいけないだろうと思って拾っておくことにする。
 普通の女性なら「なんて酷いことをっ」と追撃して、とことん痛めつけているかも知れない。だが、ヤオはそうはしなかった。若い男なら、ま、しょうがないか……と、話の分かるところを見せたのである。
 自分の容姿が(しかもボンテージ鎧を着ている)異性に与える影響というものを、ちゃんとわきまえているのだ。この手のことに余裕があるのだろう。あるいは、似たような誤解もこれが初めてではないから、悪慣れしているだけなのかも知れない。
 ヤオは、酒で酔わせてとか、力ずくとか、金銭ずくの独りよがりな女の扱い方を好まない。しかし、礼儀正しく誘いの言葉をかけたなら、考えるくらいはするのだ。なのにそれをしなかったばっかりに、男は股間へ痛撃を喰らう羽目に陥ったのである。
 結局は、時間の無駄遣い。しかも、手を引かれるに任せていたら街を出てしまった。
 こうしている今も、同胞達は炎龍の脅威にさらされている。この程度でくじけては居られないと、ヤオは気を取り直し再び緑の人を探すべく、街へと引き返した。
 ただ、真っ直ぐ逆戻りをするのも惜しい。そこで、今度は大通りから路地に入ってみることにした。
 だが、裏通りは、緑色の服を着ている者の姿はほとんど見られなかった。
 代わりと言ってはなんだが、荷物満載の荷車がずらっと列んでいた。どうやら、通りの裏側は倉庫街のようだった。まだ、ほとんどの倉庫が建築中だが、とりあえず屋根だけはできあがっていて、物資が所狭しと置かれていた。そして吹き込んでくる塵や雨風を防ぐためか、厚手の布が被せられていた。
 そこでは作業員達が、荷車から倉庫へと荷物を移す作業をしていた。
 品物は麦袋とか、干し肉干し魚といった食糧品が多い。生きた家禽かきん類の入った籠もあった。こうしたものが、加工調理されて、食堂で出されるのかも知れない。
 その傍らでは、様々な種族の傭兵連中がたむろして休息していた。汚れた旅装を身につけているところを見ると、今さっきこの街に帰り着いたばかりのようだ。彼らの馬が、飼い葉桶に群がって水を飲んでいる。
 そんな傭兵の一人がヤオを見つけて、ちょっかいを出して来た。

「よお、ねぇちゃん、何やってるんだい? 暇なら俺たちと遊ばない」

 ちゃんと言葉で申し入れて来るだけ、先ほどの無礼者よりはマシである。ただ、少々品というものに欠けていた。しかも、少しばかり猥褻わいせつな発言を付け加えてきたので、ヤオは冷静に視線を下ろして「ふむ。君の持ち物では、無理ではないだろうか?」と、ほがらかにあしらった。
 すると男は、酷く傷ついた表情をすると涙ぐみながら走り去っていった。
 どうやらヤオの一言は、その男の精神に対して相当の破壊力を有していたようである。もしかしたら、非常に強いコンプレックスを抱いていたのかも知れない。
 これは申し訳ないことをしたなと、ヤオはそそくさとその場を後にした。
 しばらく移動すると、今度は木箱が山積みになっている一角に出た。
 その前で、商人がなにやら値段交渉しているのが見える。箱の中にあるのは非常に薄くて光沢のある布だった。ヤオですら、一目で貴重品と分かるほどの美しさだ。

「これは何だ?」

 好奇心から尋ねてみる。すると商人が「『さてん』とかいう生地らしい。非常に光沢があって、しっとり滑らかな感触が特徴だ。これで服を作ったら、さぞ美しく仕上がるだろう」と説明してくれた。これが欲しくて、商人はわざわざこのアルヌスまでやって来たという。

「ここじゃ、小売りはしないんですがねぇ」

 倉庫番のような男が、渋い顔で交渉その物を打ち切ろうとしていた。
 アルヌス協同生活組合では、あちこちの商人がこのアルヌスに押し寄せるのを嫌ってイタリカや、帝都、あるいはログナン、デアビスといった周辺の街に置いた支店でのみ、小売りをするようにしているのだ。

「そこを何とか、是非」

 商人も、当然そうした支店を訪ね歩いたという。だが、どこも品薄状態。気に入った生地を入手できなかったらしい。しかし商人は諦めるわけにはいかなかった。ノンビリと品物が届くのを待っているわけにもいかなかった。急ぎの仕事のために、どうしてもすぐに生地を手に入れる必要があったのだ。


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